[悪気のない日記]2020/10/19

 おおよそ一週間ぶりにnoteを開いた。やはり、SNSを使い続けるという行いは習慣化しない。

 久しぶりに開いたnoteで、黒い猫(もあ)さんの『人生、燃えるゴミ。』というタイトルを目にして思わず笑ってしまった。ありがたいです。それまでのちょっとばかし暗い気持ちが、ほんの少し揺れ動いて明るい方向へと進んだ気がしました。おおよそ一マス分ほど。


 僕も死んだらきっと燃やされるのだろう。そして、運が良ければ骨壺という容器に入れられ、墓場という廃棄場に(失礼)そっと、捨てゆかれるのだろう。その意味で、僕の取り扱い説明書には「使用済みの身体は、燃えるゴミとして自治体の区分にしたがってお捨てください」と書かれているのだろう。

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 昨晩のこと。僕は散歩に出かけることにした。久しぶりに晴渡った空からは、湿った冷たい空気が吹き下ろしていた。一雨ごとに秋は深まるのだ、と誰かが言っていた。

 猫の多い公園に、僕はたどり着いていた。その場所は夜になると大小様々の野良猫たちが集まって集会を開く。野良出身の地元民の中に、最近になって捨てられた新入りが混ざっている。彼らはそれぞれの場所からじっと、道ゆく人々を見つめる。「これは餌をくれる人間なのか?」と。

 一匹の黒猫が僕に話しかけてきた。家猫出身の捨て猫だった。大きくなりすぎたために捨てられたのだろうか?首周りにはまだ首輪の跡が残っていた。
 骨格がよく発達しているがために、その痩せ細った姿がより強調されていた。両耳は最近、降り続けた雨のためだろうか?ひどくただれて今にも千切れそうになっていた。毛の抜けた耳の表皮には血が滲み、ひどく膿んでいる。去勢手術を数度に渡って受けたかのように、所々が欠け始めている。

 その黒猫は目が合うと僕についてきた。ひどい空腹を抱えているのだろう。僕は駐車場に行くことにした。その場所には高速道路から降りたばかりの車が多く停まっている。運が良ければ、疾走する車体に激突して死んでしまったカラスの暖かい死骸なんかがバンパーに引っかかっていたりする。その死骸は、まだ食べることができるし、賢い猫はそのことを知っている。野良猫への安易な餌やりを自らに禁じている僕は(東京でそんなことをやりだすとキリがない)、せめて親猫に代わって、そうした生きる知恵を授けることはできないだろうか?と思う。
 僕は鳥の死骸を探して歩いた。黒猫はしばらくの間、僕の後ろをついてきていたのだが、途中で諦めて元いた場所に帰って行った。

 帰り道、僕は飢えというものについて考えずにはいられなかった。地球全体で生み出されるカロリーは、すでに全人類をまかなえる段階に達している。それでも、分配の順序を間違っているがために、飢える人間がいる。生産された穀物はまず、金を持っている人の口に運ばれる。それから豚や牛なんかの口に運ばれる。そして自動車の給油口へと注ぎ込まれ、最後にお金にならない者たちの口に運ばれる。僕の脳裏にはあの黒猫の姿がこびりついて離れない。

 僕はふと、フィリップ・マーロウの言葉を思い出す。

「誰にでも優しくしていたら、これまで生きては来れなかった。しかし、誰にも優しくしないのだとしたら、これからも生きて行く意味があるだろうか?」

 

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