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あなたに「コンビニ店員という動物」の声が聞こえますか?ー村田沙耶香『コンビニ人間』読解

 以下の本文では、村田沙耶香『コンビニ人間』を、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を補助線にしながら、普通の生き方を選ばずに一つの環世界の〈動物になること〉を選んだ人間の物語として読み解いていきます。

 本作の概要はこうです。古倉恵子はコンビニのバイトです。恵子はコンビニのバイトに異様に人生の重きをおいており、就職し、結婚し、子供を作り、育て生きる「普通の人間」ではありません。家族や周囲の人からは「普通の人間」になることを望まれますが、うまくいきません。
 同じく「普通の人間」ではなく、この世界に苦しんできた白羽と出会います。恵子と白羽は、お互いに「普通の人間」を装うために同棲します。恵子が白羽の協力を得て「普通の人間」になろうと就職活動に動き出した時、恵子は自分がなすべきことに気づきます。

 恵子は就職面接に向かう際、久しぶりにコンビニに入ると、物語上、決定的な経験をします。

 「(…)私にコンビニの「声」が流れ込んできた」のです。

 恵子は「コンビニの中の音の全てが、意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのであった。」というようなある意味で宗教的な体験をするのです。

 そんな恵子は、白羽に「狂ってる。そんな生き物を、世界は許しませんよ。ムラの掟に反している!みんなから迫害されて孤独な人生を送るだけだ。そんなことより、僕の為に働いたほうが、ずっといい。皆、そのほうがホッとするし、納得する。全ての人が喜ぶ生き方なんですよ。」と言われます。

 白羽の必死の叫びです。これは、どういう意味でしょうか。
 白羽は、就職し、結婚し、子供を作り、育てるといった「ムラの掟」に従って「普通の人間」として生きること、それこそが恵子が生きるべき道だと訴えているのです。

 白羽の叫びに対して、恵子はこう言い返します。

 「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいた方が都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです。」

 恵子は、「コンビニ店員という動物である私」と自称しています。ここでいう「コンビニ店員という動物」になるとは何のことを言っているのでしょうか。

 早速、〈動物になること〉について考えた國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を補助線にして考えてみましょう。

 一つ目の補助線は、「環世界」です。國分は動物と人間の区別にあたって、フォン・ユクスキュルの「環世界」(Umwelt)という概念を導入します。ざっくり言って、環世界とは、その生物が生きていく世界のことです。

 二つ目の補助線は、〈動物になること〉です。國分は〈動物になること〉についてこう述べます。

 「衝動によって〈とりさらわれ〉て、一つの環世界にひたっている…状態を〈動物になること〉と称することができるだろう。」

 二つの補助線によれば、コンビニ店員という〈動物になること〉とは、コンビニという一つの世界にひたっている状態になることを言います。

 「「コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。世界が縄文だというなら、縄文の中でもそうです。普通の人間という皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えばムラを追い出されることも、邪魔者扱いされることもない」」

 このように説明する恵子は、國分の議論をなぞるように〈動物になること〉を理解していると言えるでしょう。

 これに対して白羽は、「「気持ちが悪い。お前なんか、人間じゃない」」と吐き捨て、最後の最後で恵子についていけなくなります。
 これは、恵子が「普通の人間」になることを断念して、コンビニ店員という〈動物になること〉を選んだからです。
 白羽は「普通の人間」ではありませんが、「普通の人間」になろうという意志がありました。しかし、恵子にはそもそも、そういった意志自体が欠けていたのです。

 ここで区別すべきなのは、「普通の人間」としてのコンビニでバイトすることと、恵子のいうコンビニ店員という〈動物になること〉は全く違うということです。

 「普通の人間」としてのコンビニのバイトは、コンビニという「環世界」に留まることはありません。当然、友人や家族、恋人、趣味などの別の環世界へと移りながら生活します。数多くの環世界の中の一つでしかありません。
 これに対して、恵子のいうコンビニ店員という〈動物になること〉とは、コンビニという環世界に常に留まることをいいます。「普通の人間」のように行き来できる複数の環世界を持ちません。コンビニに捕らわれたままの状態です。

 すなわち、「全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた私は、基準を失った状態だった。この行動が合理的か否か、何を目印に決めればいいのかわからなかった。店員になる前だって、私は合理的かどうかに従って判断していたはずなのに、そのころの自分が何を指針にしていたのか、忘れてしまっていた。」ような状態です。

 國分氏は暇と退屈の分析の中で、環世界を楽しむこと、それは人間でありながら〈動物になること〉を待ち構えるために思考することだと主張します。

 しかし、恵子のコンビニ店員に対する態度を目の当たりにすれば、もう一つのありうる可能性を看過していることに気づきます。

 それは、自ら一つの環世界にとりさらわれ続けることを選び取り、〈動物になること〉です。人間特有の複数の環世界を移動できる能力を捨て去るのです。そうすれば他の環世界に移動してしまうための退屈、苦しみはありません。
 そうしたとき、自らは人間であることはありません。かといって自分で選び取っているのですから、決断の奴隷になるわけでもありません。

 「コンビニの『声』にもっと完璧に従えるように、肉体の全てを改造していかなくてはいけないのだ。
 コンビニ店員という〈動物になること〉を選んだ恵子は、コンビニの環世界のみに適応しようとするのです。

 國分は〈動物になること〉について注意を促しています。それは「自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすらに仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。」という状態です。
 この状態は、思考することが欠けており、〈動物になること〉に逃げ込んでいるに過ぎません。

 しかし、恵子は、自ら一つの環世界のとりさらわれ続けることを選びとり、コンビニ店員という〈動物になること〉を選びとっています。
 
ですから、國分が注意する〈動物になること〉に逃げ込むことは起こっていません。したがって、國分の入念な注意には当たらないのです。

 おそらく恵子はこれからも「普通の人間」になることはできないでしょう。これからも恵子は独身で、男性経験もなく、男性と付き合うこともないでしょう。それでも恵子は生活していきます。コンビニという環世界に取りさらわれながら。

 本作が伝えているのは「普通の人間」になろうというメッセージではありません。

 生き方が多様化していく中で、私たちは「普通の人間」でなくてもいいと考え始めているでしょう。

 本作が伝えようとしているのは、その先の問題です。「普通の人間」ではない生き方を選んだ人、特に一つの世界で生きること選んだ人に対して、どう接することができるのか、本作は私たちに準備させます。この物語は、コンビニ店員という動物になる人間を肯定できるかを問う物語です。

 私たちに「コンビニ店員という動物」の声は聞こえるでしょうか。


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