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今敏が描いたアニメにおける「偶然」の2つの形式―『千年女優』『パプリカ』『東京ゴッドファーザーズ』

1 序

 今回は極めて恣意的な『千年女優』、『パプリカ』及び『東京ゴッドファーザーズ』を観た抽象的な感想を書きたいと思う。あらすじ等は検索すれば出てくるのでそちらに任せたいと思う。
 今回のキーワードはアニメの「偶然」である。結論を先取りしていうなら、上記三作品はアニメで表現でき、かつ中身の異なる「あり得ないこと」を表現している。
 そもそも、アニメは「偶然」のない表現であると言われることが多いにもかかわらずに。
 まずは各論として上記三作品の「偶然」を見た上で、最後に総論としてアニメにおける「偶然」について述べたいと思う。

2 『千年女優』―図像による映像的な偶然

 『千年女優』はある大女優の「記憶」の物語である。過去に出演した映画のシーンが、画面上の見た目の類似性を根拠に連続していく。この連続は大女優が学生時代にした恋を軸にして、記憶を思い出すようにして、現在から過去に向かって語り直されているものである。
 ここでは、各作品の文脈が抜き取られていて、新たに主演女優の恋物語の一部分に再編集されている。お気に入りの動画をテーマに沿って切り抜き、並べ直す「MAD作品」のようである。
 そして最後に「好きな人を追う自分が好きだ」と内心を明らかにする。このたった一言で、受動的に恋愛に振り回された女性の物語が、積極的に自らの人生をひたすらに肯定する物語であったことに視聴者は気付かされ、その瞬間、記憶は鮮やかに変化する、という構造になっている。
 『千年女優』は記憶における「偶然」に似通り、つまり、図像が類似していることを媒介項にして、再編集され一つの物語にするタイプの、映像的にあり得ないことが表現されている。

3 『パプリカ』―欲望による映像的な偶然

 『パプリカ』は、DCミニという器具を使って夢に入り込み、映像化し心的外傷の原因を探り、精神的外傷を持つ患者を治療する「パプリカ」を中心にDCミニが奪われたトラブルに対処する物語である。
 クライマックスでは、想像が外部、現実へと直接的に接続される。そこでパプリカは、現実にある想像を吸い込み想像へと逆流させることで、もとの想像と外部、現実の関係に復元する。最後に自らの欲望=夢に向き合うことで終わりを告げる。
 そもそも夢はあらゆる物理的、社会的な要因から解き放たれて、想像力の赴くままに、欲望を実現できる。このような夢の性質を直接反映させて、スクリーンは想像から想像へと次々に移り変わる。モチーフからモチーフへと欲望によって意識は遷移して、遷移する意識に伴って図像が変化し続ける。
 ここで描かれている『パプリカ』におけるアニメのイメージは、図像と想像の二重の意味のままに変化する。物理的法則や因果関係を無視して、欲望のみによって、図像が変化していくというあり得ないことがアニメによって表現される。
 『千年女優』は記憶を相手にして、『パプリカ』は夢つまり解放された想像を相手にしている。
 
しかし、前者は図像の類似性を媒介項にしていて、後者は欲望によって図像を変化させている。あくまで図像を変化させる。

4 『東京ゴッドファーザーズ』―物語的な偶然

 『東京ゴッドファーザーズ』は、主人公たちが捨てられた子に出会い、その子の親を探すことを強い動機として、見えないフリをされていた三人がなりふり構わずに、次々に他者と出会っていくことにより流々転々と動いていく物語だ。
 『東京ゴッドファーザーズ』の主人公たちは、路上生活者いわゆるホームレスだ。ホームレスの現在の社会における地位は低い。それでも、確実に存在していることは誰しもが認識している。すなわち、現在の社会においてホームレスとは「目に見えるけれど見えていないことにしている存在」である。
 
また、本編において特に印象的なのは、主人公たちのコミュニティ外の者に、「臭い」を嫌悪される描写が繰り返されていることだ。「臭い」は、視覚のように、見て見ぬ振りができない。嗅覚においては存在を認識せざるを得ない。
 こうしてホームレスの臭いは、目に見えるけれど見えていないことにしたい存在をそれ以外の者に対して、否が応でも認識させることになる。臭うホームレスである主人公たちは、見えるけど見えないものであって、多くの人と出会いにくい状況に陥っていることを明らかにしている。
 ここで比べてみたいのは『千年女優』と『パプリカ』の変化したもの、接続されたものである。『千年女優』と『パプリカ』は記憶と想像という違いがあったが、いずれの作品においても変化したのは、人の個人的なものの図像であり、イメージだった。
 これに対して、『東京ゴッドファーザーズ』は、図像の変化はない。キャラクターや背景に至るまで物理法則と科学法則に従って描かれている。少なくとも、『千年女優』や『パプリカ』のように、シーンから意味が抜き取られ次のシーンへと接続されたり、モチーフとモチーフが欲望によって次々に接続されることはない。
 しかし、『東京ゴッドファーザーズ』の物語は、生きていて通常で合わない人たちが、きよこを拾ったことによって、関係性が繋がっていくことで進む。次々と出来事が接続されていくのである。主人公たちがなりふり構わず、きよこの親を見つけ出す動機に従って動くことによって、コミュニティつまり親と子、子と親、疑似的家族といったコミュニティとのかかわり合いが復活したり形成されていく。
 そこにいるけど、出会わない、すなわち関係性を形成するような人物と認識しない人たちと、赤ちゃんという天使、関係性をもたない者、外部を媒介項にして人と出会っていく。ここには、あり得ないことが起こっている。
 『東京ゴッドファーザーズ』には『千年女優』とも『パプリカ』とも異なる、出会わない人たちを出会わせる「偶然」が表現されているのである。

5 結語

 アニメは偶然を必然的に表現できる表現形式である。
 その中で、これまでに『千年女優』、『パプリカ』及び『東京ゴッドファーザーズ』から見出した「偶然」つまりあり得ないことの実現は二つある。
 一つ目は、図像、イメージが物理法則、科学法則、因果関係から離脱、離陸して変化することである。このタイプの偶然にも二つあった。
 『千年女優』の記憶にあったような、出演映画作品の文脈から引き抜いて、シーンの図像の類似性を媒介項にして、恋愛物語に再編集するMADのような「あり得ないこと」があった。
 もう一つは、『パプリカ』の夢、想像にあったような、モチーフを欲望を動力にして変化させていくような物理法則や因果関係からみて「あり得ないこと」があった。
 二つ目は、社会的地位からみて、行動範囲に違いがあるために出会うことが考えられない、こうした意味でありえない者同士が出会う。このようなタイプの「あり得ないこと」である。
 二つ目の偶然の形式は、他のメディアでも表現することができる。小説、ドラマ、映画といったメディアでも、本来出会わない者が出会うタイプの偶然を描くことができる。
 アニメに特徴的なのはある程度意のままにコントロールできる図像の変化であって、二つ目の偶然の形式はアニメに特権的なものではない。しかし、アニメのもつポテンシャルの一つである。

 アニメには、少なくとも「映像的な偶然」と「物語的な偶然」の二つの形式の偶然がある。

 今敏監督作品はアニメのポテンシャルを引き出している。

 これが結論だ。

 ちなみに、アニメーションは「対象を生き生きと描く」というように定義されることがある。
 しかしこれは、厳密さを欠いているかもしれない。というのは、生き生きと描くことができるのは、製作者が生き生きと表現したいと思っていたからなのだ。
 あくまでも、アニメの本質は、ある程度作者の意のままに表現できることにあるのではないか。アニメは複数人が関与して作られるし、物質的な制限もつきまとう。だから一人で想像していただけでは生じない「偶然」が入り込む。
 そうすると、アニメの「偶然」は、アニメを作り上げること自体にも認められるのかもしれない。


 ここまでお読みいただきありがとうございました。
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