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背骨から散らばる骨へ―「推し」を失った後で―宇佐見りん『推し、燃ゆ』読解

1 はじめに

かつてオタク用語だった「推し」は今では一般的に通じる言葉になっていると言って良いだろう。「推し」は、今では身近な存在なのだ。『推し、燃ゆ』は、そんな現代の「推し」文化を象徴する作品である。それでいて、現代社会の生きづらさを扱っている作品でもある。

本作は主人公のあかりの「推し」のアイドルがファンを殴ったことから始まる。ファンを殴った「推し」は、所属グループから離れ、最後には芸能界から離れていく。「推し」に生の意味を委ねていた主人公のあかりは、「推し」がいなくなることに戸惑い、置き去りにされていく。

2 あかりの「生きづらさ」

⑴ 他人から軽んじられること

「あたしには、みんな難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、そのしわ寄せにぐちゃぐちゃに苦しんでばかりいる。」

宇佐見りん「推し、燃ゆ」

あかりは「生きづらさ」を抱えている。では「生きづらさ」とは何なのか。「生きづらさ」とは、一言でいえば、他人から個人として尊重されないことだ。言い換えるならば、他人から軽んじられることだ。他人から軽んじられることとはどういうことか。

それは、その個人と「対話」しないことである。ここでいう表面的なことばのやり取りである「会話」と区別される「対話」とは、お互いに人格を見出すような深さを伴うことばのやり取りのことである。

例えば、あかりの担任はあかりに「どうして疲れたの」と問い、あかりが「んん、なんとなく」と答えると「担任はわかりやすく眉を上げ、わざと、困ったね、という顔をつくる。」。続いて担任は、勉強が「どうしてできないと思う」と問いかける。これに対して、あかりは「喉がつぶされるような気がした。どうしてできないなんて、あたしのほうが聞きたい。」と言葉に詰まるのである。あかりの担任は、あかりの核心を見聞きしようとしてはいないのである。あかりにことばを投げて自身が思う正しい答えを引き出そうとしているだけなのだ。

次にあかりの父について見てみよう。高校を中退したあかりに働くよう促す父に対して、あかりは「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」と言う。父は「またそのせいにするんだ」と答える。あかりは「せいじゃなくて、せいとかじゃ、ないんだけど」息を吸い損ね、喉から潰れた音が出る。」。父はあかりが病院で診断を受けたことに気を取られて、目の前のあかりの話を聞いていないのである。あかりは、父があまりにも自分の核心に迫る気がないことに戸惑い、ことばを発せなくなる。

父はあかりの核心に迫ろうとしているのではない。「父は理路整然と、解決に向かってしゃべる。明快に、冷静に、様々なことを難なくこなせる人特有のほほえみさえ浮かべて、しゃべる。」のである。父はあかりの人格を見出そうとしてことばを交わしているのではない。

あかりを取り巻く大人たちは、あかりに対してその核心に迫ろうとすることばのやり取り、つまり「対話」をしようとしない。あかりはそういう意味で他人から軽んじられ、尊重されないのだ。これがあかりの生きづらさの根本にあるのだ。

⑵ 自分自身を軽んじること

「あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。」

同書

生きることは肉をつけることである。他人とのかかわりの中で、肉をつけたりやせたりして、段々と自分自身を肉づけて、形づくり、重みを増していくのだ。

ただし、生きていくには肉だけでは足りない。肉を支える骨が必要だ。特に体を貫く長い骨である背骨は自分の大きな肉を支え、その重みを支える。

個人として尊重されず、他人から軽んじられることは、自分自身に対する興味・関心を失うことにつながっている。なぜなら、自分で自分を軽んじるようになるからだ。自分にとっての自分の重みがなくなっていくのだ。自分の、自分に対する思いを失っていくのだ。

あかりの肉は削れて重みを失っていき、背骨に貼り付く肉だけになっていく。それでも骨は残っている。背骨はあかりの肉を支えている。

あかりを取り巻く大人たちはあかりに肉も骨も与えなかった。あかりの肉=生を支えているのは「推し」であった。

3 「推し」の問題

⑴ 背骨としての「推し」

「だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。」

同書

上野真幸というアイドルはあかりの「推し」になった。「推し」になったことに、きっかけはあるが理由はない。自分にとって、起こった出来事があるだけである。

「真っ先に感じたのは痛みだった。めり込むような一瞬の鈍い痛みと、それから突き飛ばされたときに感じる衝撃にも似た痛み。」「あたしは彼と一体化しようとしている自分に気づいた。」「同じものを抱える誰かの人影が、彼の小さな体を介して立ちのぼる。あたしは彼と繋がり、彼の向こうにいる、少なくない数の人間と繋がっていた。」

それからのあかりは「推し」に生を託している。自分の肉を委ねている。「推し」はあかりの背骨になっている。金原ひとみは解説で「背骨」とは「信奉することによって自分の生活や生そのものを支えること」という。

あかりは、こう述べる。上野真幸の「その目を見るとき、あたしは、何かを睨みつけることを思い出す。自分自身の奥底から正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きるということを思い出す。」。あかりにとって上野真幸は、見聞きすることで感情を託し生そのものを支える背骨であり、推しである。

⑵ 「推し」と対話の問題

あかりは「推し」に背骨を預けているにもかかわらず「推し」に対して、触れることも対話することもできない。一般的にファンは「推し」と相互に対話することができないのである。

例えば「推し」との握手会があったとして、ファンは一言二言、言葉を交わすことはできる。そこでは表層的な「会話」はできるが、相互に人格を見出すような「対話」をすることはできない。

ライブがあったとして、ファンは手を振りサイリウムを振る。「推し」がファンを見て手を振り返す。配信があったとして、ファンはコメントを打ち込むことができる。「推し」がコメントの文字を読んで答える。ここには「会話」があっても「対話」は存在しない。

それでも、それだからこそ、ファンは「推し」に近づきたいと思う。対話不能の対象に接近することを欲望する。近づくというのは物理的に、人間関係的にというだけではない。「推し」の存在、その人格の核心に近づきたいと羨望するのである。

そうするとどうなるか。

「あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。」

すなわち「推し」を解釈するのである。ファンから一方的に「推し」を意味付けして自身の中で理解する。そうすることで「推し」に近づいていけると思う。こうしてファンは解釈に溺れていく。これは対話不能であるゆえに終わることのない解釈である。

⑵ 対話不能の対象としての「推し」

対話不能な対象に絶えず解釈をもって迫ろうとし、挫折を繰り返す態度はこれまでも語られてきた。例に挙げるなら、カントのいう物自体、ラカンのいう現実界、東浩紀のいう否定神学的システムであり、フーコーのいう近代的有限性の問題である。

千葉は対話不能の対象の問題をこう説明する。

「…諸々の問題は必ずしもひとつにつながるわけではない、ということです。もちろん関連する問題はあるけれど、すべての問題がつながってダマになってしまうおき、人は途方もないアイデンティティの悩みで閉塞状態に陥り、何もできなくなってしまう。」。

千葉雅也「現代思想入門」

すなわち対話不能の対象を解釈してその対象に迫ろうとする態度は、しばらくすると挫折して自分自身の人格を問い返す間隙へと落ち込んでいってしまうのである。

対話不可能な「推し」を背骨にしていたあかりは、まさに自分の人格の問題に悩まされていた。

ここで生きづらさは他人から尊重されないことであったことを思い出してもよい。そうすると、推しの問題は生きづらさの問題につながってくるのだ。

4 背骨から散らばる骨へ

あかりの「推し」がアイドルをやめて芸能界を引退する。その時が刻々と近づいてくる。あかりは「推し」の喪失に、自己の背骨の喪失に、どうやって自分の肉を支えていくのか。

これは「推し」を失った後に自分はなぜ存在するのかを問う、極めて実存的な問題だ。

「推し」を失ったあかりは「推し」の解釈を中断し、自分の現実の生きづらさに直面する。生きづらさとは自分の思いどおりにできない肉の重さだ。

「ずっと、生まれたときからずっと、自分の肉が重たくてうっとうしかった。いま、肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶苦茶にしてしまいたかった。」

宇佐見りん「推し、燃ゆ」

そうしたあかりは、衝動的に周囲に暴力を振るうことで、これまで推しに向けられていた欲求を発散した。

「テーブルに目を走らせる。綿棒のケースが目に留まる。わしづかみ、振り上げる。腹に入れた力が背骨をかけ上がり、息を吸う。視界がぐっとひろがり肉の色一色に染まる。振り下ろす。思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、叩きつけるように振り下ろす。
 プラスチックケースが音を立てて転がり、綿棒が散らばった。」

同書

ここであかりは、綿棒のケースに暴力を振るうことを選んだ。暴力は「推し」を推すことや解釈し続けることで悩むこともない単に物理的な世界に作用する。

それからあかりはすぐに次の行動に出る。

「綿棒をひろった。膝をつき、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。」

同書

わたしは、ここにあかりの、そして推しを喪失した者の希望を見出したいと思う。散乱した綿棒は自らの骨である。背骨のような大きな骨ではなく、肉を分割して支える骨である。綿棒を拾い、おにぎりを拾い、ペットボトルを拾うということは、それぞれの場所に離散した問題たちに目安をつけて、その場に応じてこなしていくことのはじまりである。それは、目の前に散在した個別具体的な問題をタスクとしてこなすように一つずつ解決していくことだ。千葉は、上述した有限的近代性の問題に対して「単数の否定神学的なXへと集約せずに、複数的な問題にひとつひとつ有限に取り組むことになる。」ことが、行動と身体の有限性を生きることであると主張する。あかりが綿棒を拾うことは、まさに行動と身体の有限性を個別具体的に生きることだ。

「推し」を背骨にして自分の肉=生を支えていたあかりは「推し」を失った後、これからは複数の骨によって自身の生を支えていくことを予感させる。神が死んだ後は片付けをやっていくしかない。「推し」がいなくなったならば、まずは散乱した骨を拾い集めることから始めるのだ。

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