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三宅香帆『娘が母を殺すには?』の問題点

 本書が提示するのは「母と娘の相互依存構造を娘の他者に対する欲望によって解除する」という結論である。しかし、問題はそう簡単には結論づけられないだろう。

 というのも、以下のような疑問が浮かんでくるのだ。

 第一に、本書の結論は、娘が他者に対して欲望を持つことをエンパワメントするというものであるが、本当に救われるべき(母に対する)娘は、そのような積極的な欲望を抱けないほどに弱った者なのではないかという点だ。

 第二に、個人的な欲望で、母娘の依存構造自体を崩すことができるのかという点だ。そもそも、構造というものは、構造内部の事情によって揺るがされるものではない。揺るがされないものを構造として取り出すものだからだ。

 第三に、挙げられるのはこうだ。母娘関係のがんじがらめから脱却するためには、何でも良いから娘の欲望を重視することが大切になると結論付ける。しかし、無制限に娘の欲望を肯定することが是とされるのか。社会的にみれば、ホストによる売掛問題がある。ここでは、「娘」の欲望が搾取されていることが社会問題になっている。そのような社会状況の中で、「娘」の欲望のみを無条件に肯定することが果たして妥当なのか。

 第四に、社会に目をやるなら、「パパ活」の問題に目を向けてもよい。弱者男性が「娘」に経済的に搾取されている。これも言ってしまえば「娘」の欲望の発露の一つである。果たして、こうした「娘」の欲望を肯定できるだろうか。

 第五に、無制限な娘の欲望の肯定という点では、同書では、母娘関係のがんじがらめから脱する娘の欲望の形として、『私ときどきレッサーパンダ』を挙げて、アイドルの「推し」をつくることを提示している。これにも、アイドルの「推し活」はいつか終わってしまうという問題がある。例えば『推し、燃ゆ』で語られたようにアイドルは「人」であるからである。

 こうしてみていくと、「母と娘の相互依存構造を他者に対する欲望によって解除する」という主張のラインはある程度支持できるものの、実現するには困難が待ち構えていることがわかるのだ。

 最後に、言葉の話なのだが、脱構築の意味の問題がある。
 本書では、「ちなみに、絶対的な二項対立で人間を捉えることをやめ、複雑な関係性を取り戻そうという概念を、哲学の世界では「脱構築」と呼んだ。」と書かれ、千葉雅也「現代思想入門」が引用されている。
 しかしながら、同書にそのような記述はない。
 同書には、「物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということ」と説明されている。
 間違ってまで、脱構築という言葉を使う意味はないのであるから、撤回してしまった方がよいと思われる。

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