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子どもには 背中を見せるべし

 子どもが勉強をしない、という悩みを抱える親はかなり多い印象だ。

 僕はどうであったかというと、勉強は嫌いであった。古今東西のあらゆる言い訳を駆使して勉強しない理由をこじつけた。こんなもん人生のいつ役に立つんだよ、と。

 そして二十五歳を過ぎてから、好んで勉強している。大学の公開講座は機会さえあれば内容がなんであれ受講し、特に好きな数学は自分で本を買って勉強している。いつ役に立つのかと言ってわざわざ避けようとしたものを、金を払って学んでいる。

 なぜ勉強するのか。理由は簡単だ。単にそれが面白いからだ。

 僕の両親は公平に見てとてもいい親だ。僕がやりたいと言ったことに協力してくれたし、めいっぱい支えてくれた。しかし一つだけ、ここがダメだったと思うことがあって、僕は昨年両親に会ったとき、それを伝えた。

 うちの両親はよく本を読んでいたが、自分だけが読み、読み終えたら古本屋に売ってしまっていた。だから家には本が全然なかった。僕は両親が何かを学んでいるということをまったく知らず、勉強というのは子どもだけが強要されるものだという印象を受けた。なぜ勉強するのかという問いに、「面白いから」という回答をくれたことはなかった。

 昨年、これを伝えた。僕は大変よくしてもらったけれど、父さんや母さんの読んでいる本がそこらへんに置いてある、休みの日にそれを読んでいる姿を見る、というようなことがもう少しあったら良かった、と。

子どもは本当に勉強が嫌いなのか

 子ども、勉強しないよねぇ、という話をよく聞く。子どもってそんなに勉強が嫌いなのか。

 実は子どもは勉強が嫌いなわけではない。勉強よりももっと楽しそうなことをしたいだけだ。それはひっくり返せば、勉強はそれほど楽しくなさそうだ、ということになる。なぜ楽しくなさそうなのか。それは親がやってないからだ。

 親が勉強しろと言いながら自分はテレビを見ている、スマホを見ている、ゲームをしている、といった状況では、子どもだってテレビが見たいし、スマホが見たいし、ゲームがしたい。それはあたりまえだ。

 では親は勉強が嫌いなのか。

 ここが僕にはよくわからない。もしかすると、子どもの頃からやらされてしか勉強をしたことがない親だとしたら、親自身も勉強が嫌いなのかもしれない。その場合はもうどうしようもない。自分自身が面白さをわからないものを、人にお勧めできるはずがない。

 僕は勉強が嫌いだったけれど、大人になってから、実は好きだったということを知った。これはこれで悪夢だった。せっかくいい先生がたくさんいる中学、高校にいたのに、そのときは単なる消化試合として勉強をしていた。そんなもったいないことはない。

子どもは面白ければやる

 今、僕は子どもの勉強をよく見る。一人で勉強しろと言うとやりたくなさそうにしたり、見てなかったらさぼったりするけれど、僕が横で見ていると楽しく勉強する。それは僕が横から面白さを教えるからだ。

 答えや解き方を教えるのではない。その問題のどこが面白いのかを教える。もちろん子どもにも好き嫌いがあるからどの教科も全部面白くなるということは無いかもしれない。実際、うちの子も算数は好きだが他のものは面白さがわかるまでに少し時間がかかっている気配がある。

 そして、僕は子どもに勉強をやれとは言わず、一緒にやろうと誘う。宿題はやったのか、まだか、じゃぁやろう。教材はやったのか、まだか、じゃぁやろう。

 どうしてもやりたくなさそうなときはやらせない。やりたくないままやってもなんにもならないし、嫌いになってしまうという弊害もある。だからやりたくないならやらなくていい。後にしよう。(これ、子どもに勉強させるうえで一番大事なことだと思う。どうしてもやりたくなさそうなときは無理してやらせない)

「おもしろい」を伝える

 例えばうちの子は算数の文章題が苦手だ。

「かおるさんはあめ玉が14個入った袋を3つ持っていました。妹と2人でわけるといくつずつになりますか?」

 もう「妹と2人」ぐらいの時点でテンパる。空を仰いでいる。

 まて、おまえ終わりまで読んだのか。読まないうちに嫌になったのか。

 どうやらうちの子は、読みながら答えを出そうとする傾向があった。とにかく答えを出そうとする。違う。答えなどあとでいい。まずは式だ。式にしろ。

 僕はほぐして質問する。

「あめ玉14個入りの袋が3つあると全部でいくつあるかな?」

 長男はいきなり答えを出そうとする。いやいや、式だ。式で答えろ。

「14×3」

 そう答えて、すぐ計算しようとする。違う。計算するな。式だ。とにかく式だ。全部で14×3個ある。それでいい。問題文はまだ先があるぞ。これを2人わける。どうなる?

 長男また答えを想像しようとする。いらん。式だ、式。2人で分けるんだ。「÷2」だ。それを後ろにつけろ。

「14×3÷2」

 そうだ。これでめでたく問題文は式になった。もはやかおるさんでもかえるさんでもワニでもウマでもいい。あめだろうとうんこだろうとなんでもいい。式にさえなってしまえばあとは算数の問題だ。世界のどんなことであれ、式にさえなれば全部数学の世界にもって来れるんだ!

 父さんほとんど教祖みたいにこぶしを掲げながら宣言する。なんてすばらしいんだ数学の世界。深遠な宇宙の問題も、見えないほど微小な世界の問題も、式にさえなればあとは数学の問題だ。数学の魅力は抽象の魅力。ほとんど魔力なのだ!!

 なんの話だった?

 そうだ14×3÷2。式は数字とその前についている演算子をセットにして考える。この式は「14」と「×3」と「÷2」でできている。掛け算と割り算しかないからこれは順番を入れ替えてもいい。

 そして「14」「÷2」を先にやると7になり、あとは7「×3」になってこれはただの九九だよね、ということがわかる。

 かおるさんとかあめ玉とか妹とかいったものは国語の問題であって、今は別にいい。算数としてみるのであれば式にすればいい。これが算数の魅力。抽象化だ。対象がなんであれ式になってしまえば算数の世界に来る。算数の世界に来れば算数のルールだけ考えればいい。これほどすごいことが他にあるのか?いやない!(反語)

 逆にこれを国語として考えると別の方向に面白い。あめ玉14個入りの袋を3つ、かおるさんはどこで手に入れたのだろう。3つの袋に入っているのだから普通に考えたら3人分じゃないのか。それを妹と2人でわけていいのか。もう一つは誰かほかの人の分なんじゃないのか。ここで、実はかおるさんにはお兄さんがいて、あめ玉は三人分だったのに、兄さんは表をサルのように走り回っているから黙って二人で食べてしまおう、というかおるさんの魂胆が見え隠れする。

 それに妹の名前はどうして書かれていないんだ。「かおるさんの妹」ということでいいのか。それで妹は不満に思わないか?「あたしなんてどうせかおるさんの妹ですよ」とかヒネたことになりはしないか。これが「妹のメアリーと二人で分ける」とかいう話だと疑問は膨れ上がる。どういう家庭環境なんだ。かおるさんと妹の間で、父親か母親が交代しているのではないかと推察できる。かおるさんが生まれたあと両親は離婚し、国際再婚したのだ。どっちがどのように交代したのだろう。かおるさんと妹は異母姉妹なのか、異父姉妹なのか。そういえばサルのような兄はどうした。猿丸とでもしておくか。プロゴルファー猿は猿丸って名前だぞ。弟が大丸、中丸、小丸。どんな兄弟なんだ。小丸が生まれる前に「中丸」って名前を付けることがあり得るのか。そこまで予定通りに行くもんなのか。末っ子女の子でも小丸にすんのか、どんな親だ。そういえば猿丸の親って出てきたことあった?

 なんの話だった?

 そうだかおるさんのあめ玉だ。2人でわけたあめ玉は21個もあるぞ。ちょっと食べすぎなんじゃないか。14個だってどうかと思うが。親はいったいどうなっているんだ。

 …永遠にどこまでも行ける。

 たった二行しかない問題文でこんなに楽しいではないか。なんで勉強したくないんだ。それはおまえがただ問題の答えを出そうとしているだけだからだ。そんなものは作業であって勉強ではない。

 勉強するというのは考えるということだ。問題はただのきっかけであって、そこからどこへ行こうとも自由だ。面白いだろう。

妻:「そろそろご飯よ」

長男&僕:「今勉強で忙しいからあとにしてくれ」


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