純粋象徴天皇制試論

日本人は絶対的な権力に支配されることが我慢できない

 日本の王は、常にその実質的な権力を簒奪されてきた。まずは摂政や関白に、そして将軍に。将軍が王のような力を振るうようになると、またその権力を簒奪するものが出てくる。執権、得宗、管領などなど。日本人は、実質的な権力と象徴的な権力が一致することを好まない。そのような絶対的な権力に支配されることには、どうにも我慢が出来ないのだ。

天皇制と共和制

 現在の天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされるが、この象徴という考え方は、だからまったく日本の伝統に沿ったものである。天皇は「日本国憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」。現代における共和制(アメリカ、韓国、フランス、……)も、そこに大統領というカリスマ的な指導者がいるかぎり、それは選挙による王政にほかならない。そこには英雄崇拝があり、単なる契約を超えた支配関係がある。また、共和制には広く共有された支配的な理念や理想が必要である。共和国大統領はその理念や理想を代表し、象徴している。そして国民にはその理念への強い同調圧力が働く。一方で、天皇は何の理念も代表していないし、象徴もしていない。これは稀有なことだと言わざるを得ないだろう。

天皇に働く二つの力

 だがそれでも、カントロヴィッチが『王の二つの身体』で述べた生物学的身体と政治的身体を天皇が備えている限り、天皇には上へと引き上げる力と、下へと引きずり下ろす力が働く余地がある。
 上へと引き上げる力とは、簡単に言えば神格化のことだ。死後にローマ皇帝が受けたような神格化であれば害はまだ少ないが、天皇が(かつてのように)現人神とされる可能性は常に残されている。そして、神格化を防ぐには王がその生物学的身体を失うことだけでは不十分なのだ。オーウェルが『1984』に描いたビッグ・ブラザーのように、生物学的身体のないイメージが、その政治的身体だけで神のように振る舞うことは可能だ。まるで、切り落とされた手足の痛みが幻の痛みとなって人を苦しめるように。
 下へと引きずり下ろす力とは、どこの国のようにとは言わないが、天皇が冗談や揶揄やおふざけやゴシップネタの対象とされることだ。天皇という生きた人間が国民の下劣な感情のはけ口とされるところなど見たくないし、スケープゴートとされた象徴の元でまとまる国など最低だろう。

純粋象徴への過程

 こうした、上へと引き上げる力と下へと引きずり下ろす力にケリをつけるためには、天皇制を維持し共和制への移行を慎重に避けながら、なおかつ天皇からその生物学的身体と政治的身体を消し去り、天皇を、何の理念をも代表せず、「日本国」や「日本国民統合」といった形式以外には何ものも象徴しない「純粋象徴」へと移行させるしかない。身体を消し去ると言っても、なにも殺すわけではない。その過程は次のようなものになるだろう。
 まず、天皇や皇族のメディアへの露出が停止される。天皇はもう人前に姿を現さない。そのまま数年が過ぎ、天皇の存在は忘れられていく。さらに数十年が過ぎる。天皇はもはや生きているのかもわからなくなる。残った皇族たちは民間人となる。そうして国民は徐々に、天皇が「純粋象徴」となったことを理解する。天皇はもういない。同時に、天皇は永遠に生き続けるという建前が成立する。高野山奥之院にいまだに生き続ける空海のように。これは一種のダブルスピーク状態ではあるが、日本人はむしろこの気の利いたエスプリに積極的に加担するだろう。またそのことが制度を守る上でとても重要になる。東京という都市の真ん中に皇居という何もない空虚を置くことによってその都市空間が安定するように、政治システムの中心に、存在し、かつ存在しない天皇という不合理を据えることにより、そのシステムは、いわばその不合理を特異な不動点としてしっかりと政治的可能性の空間に根を下ろし、制度への揺さぶりや、さらなる不合理に対してお札や呪文のような免疫を与えてくれるのだ。

純粋象徴という象徴

 さて、これらすべてのことは何を意味するのだろう。
 純粋象徴天皇制のもっとも良い所は、それが不合理であるという点である。二世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスはこう述べている。

神の子が死んだということ、これはそのまま信ずるに値する。何故ならそれは不条理だからだ。そして、墓に葬られ、彼は復活した。この事実は確かだ。何故なら、それは不可能だからだ。

 象徴としての天皇は死に、純粋象徴として復活する。生物学的と政治的の両方の身体を失った天皇は、もはやその生身の人間としての気まぐれに駆られることもなく、「側近」や「崇拝者」たちに悪用されることもなく、週刊誌で恥ずかしめられることもない。
 象徴からさらにその実質を奪うという象徴的な行為によって、象徴は一段とその象徴としての度合いを増す。国民が合理性を越えて純粋象徴を取り入れるということそれ自体が、日本という国の新たな象徴となる。そうなってしまえば、そのような政治システムの姿に対して、そっと手を合わせて祈りを捧げることさえ可能だろう。
 しかし、それは信仰ではないのだろうか?
 われわれが祈るとき、それは天皇に対して祈るのではない。象徴の不在に、不在の象徴に祈るのである。その祈りは完全に中身を欠いた象徴的な仕草である。中身を欠いた象徴に捧げる、中身を欠いた象徴的な祈りである。
 それは崇拝ではない。崇拝なら、それは長い時間をかけて一神教に行き着いてしまうだろう。あくまでそれは内容のない、型としての、姿としての祈り、美学としての祈りなのだ。西洋人にとってみればそれは不可解だが、日本人なら何の疑問もなくそれを受け入れられるし、理解できる。日本人はいままでもずっとそれをやってきたのだから。日本人にとって、自分は無宗教だと思うことと、あらゆるものに神が宿ると思うことや、食事や神棚の前で手を合わせたりすることは全く矛盾しない。日本人にとっての神とは、実質のない型なのだ。つまり、それは象徴である。壮大な神学を構築して延々と神の本質を議論した西洋とは違い、日本では象徴の内容を問わないし、象徴についてあれこれと話すこともない。その様子は、まさしく俵万智の短歌に歌われているとおりだ。

 祈るとき人は必ず目を閉じて何もなかったように立ち去る

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