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名前のない猫が来た


「"なつめ"がいいんじゃない?」

まだ僕が高校生だった頃、中学生だった妹が学校帰りに子猫を拾ってきた。
道の脇に、1匹でミャーミャー鳴いていて、母猫を待ってみたものの、現れる気配がなかったから、可哀想で連れて帰ってきたらしい。
片手の掌に乗るくらい小さくて、耳が大きく、逆三角形の輪郭をした、虎柄のハチワレ顔をした、可愛い猫だった。

なんて名前つけようか?と家族で考えていた。

名前がないのか。
名前はまだない。
吾輩は子猫である。名前はまだない。

夏目漱石。
漱石。
いや、こんなに可愛いのに漱石はないか。女の子だし。


「夏目は?ちょうどこれから夏だし」
家族みんな気に入ったようで、"なっちゃん"とあだ名がついた。


その数年前、両親が僕が生まれる前にペットショップで買ってきた猫2匹が亡くなった。その猫も20年近く生きたので、生まれた時からずっと一緒にいた家族だった。
その悲しみが癒えてきた頃に現れたのがこの猫だ。

数年経ったけど、やはりそのことがフラッシュバックしたんだろうか、猫好きな母は「飼おう」とは言わなかった。

「猫は飼い始めると大変だから、元の場所に返しにいこう。今は母猫がいるかもしれないし。」

母が言うと、飼う気満々だった妹は抱いている子猫を見たまま、「わかった」といった。

すぐ車出すね、と母が言って、身支度を始めた。妹はずっと掌の迷子を見つめていた。

車で5分くらい行ったところに中学校があり、学校から大通りに出る途中の脇道の植え込みで妹は子猫を見つけたらしい。
通学路なので、日が落ちても、街灯で明るかった。

街灯下の元いた同じ場所を見つけ、妹は掌からそっと植え込みに子猫をおろした。
落ちていた葉っぱで周りを覆ったのは、妹なりの配慮だったのだろう。

妹と一緒についていった僕は、なかなか離れようとしない妹に「いこう」といって、手を引いた。
妹は元気なく頷き、車に戻った。
子猫らしい甲高い声で泣き続けているのを聞いていると後ろ髪を引かれる想いだった。

「えらかったね。お母さん猫が来るか、待ってみようか」
車の窓から、子猫を戻してきた場所を見つめる。
車からは少し離れているが、まだ泣き続けているのがかすかに聞こえる。

「お母さん猫来ないね」
「ねー」
なんて、会話なのかどうかも、あやしいやりとりをしつつ、通りすがる人がいると、持っていってしまわないか、ヒヤヒヤした。

どれくらいの時間が経ったか、分からないけど、結局母猫は来なかった。

その時はまだ梅雨の只中で天候が崩れやすかった。

「一回お父さんに相談してみようか」
母の提案に、さっと振り返った妹は大きく頷いた。車内灯が消えていたので顔は見えなかったけど、明るくなったのはよく分かった。

車のドアを開けて、一目散に子猫の場所へと走り出した。
妹の後を追う。
子猫の鳴き声がだんだんと大きくなっていった。

妹はそっと子猫を拾い上げて、掌で包んだ。
「寂しかったね。もう大丈夫だよ」

まだ飼うと決まってないけど、期待も込めて、妹は子猫を元気づけていた。

車に戻ると、持ってきたタオルケットに包んであげた。
ニャーニャー鳴いていた声が止み、タオルの中で丸くなっていた。

「さ、帰ろうね」
母は妹と僕と、おそらく、この子猫に向かって言っていた。

僕らが帰った後、少しして父が仕事から帰宅した。
僕らが居間の一箇所に集まっているのを見て、「どうしたの?」と驚いていた。

ことの経緯を母が説明して、父は注意深く聞いていた。
その間、僕らは受験の合否発表を待っているような心持ちだった。

「そうか」と父が言って、視線を母から子猫に移した。
「可愛いね」

それから、妹に向けて言った。
「ちゃんとお世話できる?」

妹は父と、母猫に決意するように、うん。と言った。
4人と1匹の生活のキックオフだ。


「なつめだったら、なっちゃんだね。」と夏目を撫でながら、妹が言った。

あだ名というのは往々にして、本名よりも多用される。
それでは、"なたね"だろうと、"なつき"だろうと、"なんばら"だろうと"なっちゃん"になっていまう。

あ、"なんばら"は、"なんちゃん"か。

とにかく、名付け親としては、その名が霞んでしまうのがいやで、僕はずっと"なつめ"と呼んだ。

それからは、なつめは家族の中心になった。
みんな帰ってきたら、真っ先になつめの様子を伺う。

「なつめどう?」
「ちょっと大きくなったかな」
「ちゃんとミルク飲んだ?」
「次動物病院行くのいつだっけ?」

子供が1人産まれたような、野良猫としては超VIP対応だった。
猫だからある程度自由に生きたいはずなのに、妹は一緒に寝るんだと言って、どこかに行くなつめを捕らえて、一緒の布団に入った。
最初は嫌がっていたけど、ふわふわの猫用布団を用意したので次第に進んで一緒に寝るようになっていた。

寝はじめは妹のところだけど、しばらく経つとなつめは母のお腹の上に移動した。
本能だろうか、母が寝ている布団の上で足をふみふみするようになった。

僕は遊びの担当で、猫じゃらしで遊ぶのが仕事だ。
15cmほどの棒にネズミのような、小さいもふもふがついていて、それをチョロチョロと動かすと、なつめが狙って飛びかかってくる。

飛びかかる前に伏せをして、準備体制に入るとお尻を浮かせてその場で後ろ足を足踏みする。
その姿が面白くて、可愛くて、つい遊びすぎてしまう。

父は心配性なので「そんな遊ばせると、なつめが疲れちゃうよ」と言っていた。

そんな心配をよそに、遊びまくった。
おかげで夜はよく寝てくれた。
元気が有り余っていると夜中にご飯が食べたいと、餌の皿の前でニャーニャー鳴きわめく。

昼間は授業、夕方は部活、帰ったら、なつめと遊ぶというサイクルになっていった。
よちよち歩きだった歩き方はみるみるしっかりしていき、あっという間に部屋中を駆け回るくらい大きくなっていった。
睡眠のサイクルも、以前まではおもちゃで遊ばせないと夜に寝てくれなかったけど、だんだんと人間のペースになって、部屋の明かりを消すとなつめも睡眠モードになっていった。

ほとんど妹か母としか寝ない猫だったけど、ごくたまに僕の布団に入って寝る時がある時は嬉しかった。
どんな気分で僕の布団を選んだのか、すごく気になったけど、寝顔を見てると、そんなことはどうでも良くなった。


大学受験が終わり、僕は実家を離れた。
両親と離れるのはそこまで寂しくなかったけど、なつめと離れるのは結構寂しかった。
毎日のように遊ぶ親友と離れるようだった。
引越しの前はいつもよりたくさん遊んだ。

引っ越しをした後は、帰宅しても、なつめの鳴き声が聞こえない空間にすぐには慣れなかった。
帰っても、冷蔵庫とテレビの音が虚しく聞こえるだけだった。

こんなこと書くと寂しいやつに見えるかも知れないけど、大学生活はしっかりエンジョイしていた。
ただ、夏休みと年末年始の長期休みに実家に帰省して、なつめと遊ぶのが楽しみだった。

ある年の夏休み、大学のほうが忙しくて帰省できなかった。
寂しいのを察したのか、家族がなつめの写真を送ってくれたのを見て、癒されていた。

その年の年末がきて、やっと帰省する時間ができた。
実家に着くまで、どうやって遊ぼうか、いろいろ考えていた。
ねこじゃらしで遊ぶのもよし、テレビ見ながら撫でて過ごすのもよし。

実家の玄関の扉を開けると、居間のドアの向こうでニャーニャー騒いでいる。
夕方だったから、お腹を空かせてるのだろう。
ドアの一部のすりガラスから、なつめの影が見えた。

すぐそこにいる、なつめの姿を思い浮かべながらドアを開けた。

なつめの鳴き声がパタっと止まった。
そして、こちらを見ているけど、その目はまんまると見開いていて、少し身構えていた。

え、会わない間に存在を忘れたのか…?

人間はエビングハウスの忘却曲線があるように、要らない情報は忘れる生き物だけど、猫もそうなのだろうか。
会わない間に要らない情報として処理されてしまったんだろうかと思うと悲しくなった。
しまいには近づこうとしたら、逃げていったので絶望した。

それを見ていた母がケラケラ笑っていた。

「会わない間に忘れちゃったのかもね。何日かすればきっと思い出すよ。」

そう願いながら、自分の荷物を肩から下ろしたけど、身体はあまり軽くならなかった。

なつめには構わずに自分の部屋でくつろいだ。
まぁ、猫の脳みそなんてそんなもんか。と言い聞かせた。

ご飯ができたと母に呼ばれて食卓へ向かった。
ご飯の支度をしている横で、なつめは母にご飯をくれとニャーニャー鳴いていた。
母が動くとぐるにゃん、ぐるにゃん言っている。
あまりに邪魔なので、途中から妹がなつめを抱っこして通路を開けていた。

テレビを見ながら、家族からの大学生活の質問に答えていた。
「何か困ってることはない?」
「ちゃんと食べてるの?」
「お金足りてるの?」
「どんな勉強してるの?」
矢継ぎ早にくる質問に淡々と答えていると、足のほうがモゾモゾするので、テーブルの下に目をやると、なつめが靴下の匂いを嗅いでいた。

「何してるの?」
かなり強めに鼻を押し付けている。
10秒くらい嗅いだ後、身体をすりすりし始めて、僕の顔を見てニャーと言った。

いや、思い出してくれたのは嬉しいけど、足の臭いで思い出すのやめてくれる?
と心の中で思いながら、いつもの関係に戻れたことが嬉しかった。

その後も大学の研究が忙しくなったり、就職活動で忙しくなると帰れなくなることがあり、久々に帰省するとやっぱり僕のことを忘れて警戒し、足の匂いを嗅いでは思い出して擦り寄ってくる。
そんなことを繰り返しながらも、やっぱり帰省する楽しみの一つだった。

そうこうしているうちに、妹が結婚し、それを機に妹の家でなつめを預かることになった。
それを聞いたのは、僕が社会人になって3年目になった時だ。
社会人になってからも、一人暮らしだったので、帰省してなつめに会うことが楽しみだった。

なつめが妹夫婦の家に行くことになるとなると、これまでよりはなつめに会いにくくなるななんて、少し残念な思いがした。
でも、妹は年始の挨拶のときには、なつめを連れてきてくれた。
年に一回、会うだけになったので、なつめはもう完全に僕を忘れていたと思う。
それでも、なつめの顔を見るだけで、撫でられるだけで、癒された。


「なっちゃんがここ数日で具合が悪くなって、今日は寝たきり。先は長くないと思う。会いにくる?」

用事で外出している時に妹からラインが入って、道のど真ん中で足を止めた。
この一年ほど、動物病院に通っていたことはちょこちょこ連絡を受けていて、知っていたので、いつかこの日がくるとは思っていた。
でも、まさか今日なんて。

ほんの3ヶ月前に妹の家に行ってなつめに会った時は、あんなに動いていたのに。
大好きな猫用おやつを持ってると膝に乗ってきて、食べたいアピールをしてきた。
ちょっと痩せてはいたけど、動いていたし、ご飯も食べていた。
だから、余計に僕の頭では現実感のない情報だった。

「わかった。明日お父さんお母さんの家行って、一緒に行くよ」

3日前に入籍して、実家から離れたところに引っ越したので、当日中に行くことはなかなかできなかった。
頼む。もってくれ。

なんとか落ち着くためにカフェに入った。
ホットコーヒーを頼み、空いた席に座って、本を読み始めた。
しかし、全く落ち着かなかったので、熱々のうちにコーヒーを飲み干して、お店を後にした。
お店の自動ドアが開くとやけに空気が寒く感じた。



「さっき、なっちゃんがお空に旅立ちました。」

帰りのバスの中、この通知が目に入った。

間に合わなかった。

バスの車窓の外の景色を見たり、ケータイの画面を見たりを繰り返したけど、そのメッセージが変わることはなかった。

すぐ僕のことを忘れるから、最後に顔を合わせて、僅かなメモリーの一部に入りたかった。
だって、名付け親だし。


家に帰っても、さっきのメッセージが現実離れしていて、心は落ち着かないけど、実感がなかった。
本当なんだろうけど、本当だろうか?とわけのわからない気持ちだった。


翌日、実家へと向かった。
行きの電車の窓から外の景色を見ていると何回も通ったことのあるルートなのに、色々な変化に気がついた。
いつの間にかホーム柵ができた駅、以前は外装工事していたマンション、昔は居酒屋だったところにできたカフェ、綺麗になったホームの待合室…
いろいろ変わってはいたけど、本質的には何も変わってなかった。

母から昼は外で食べてこいと言うので、少し早めの昼食に駅構内の小さなカフェに入った。
縦長の店内にカウンター席が5席、テーブル席が4席のみ。
カウンター席に座って、メニューの間に挟まっているおすすめメニューとコーヒーを頼んだ。

妹からの続報はないか、ケータイを見るけど、何もない。
良かった...のか?
あれ以上の続報などないか。

後からキャリーケースを持った40代くらいの女性が入ってきた。
席をつくなり、「セットメニューはないですか?」「どれくらいかかります?」と質問責めしていた。
店員が勧めたもので即決していた。
せかせかした人だな、と思っていたけど、僕もそれなりに急いでいる。

「失礼します」と店員さんがきたけど、パスタ用のフォークと粉チーズとタバスコを置きにきただけだった。
僕はクリームソースのパスタを頼んだので、タバスコを置かれたのが不思議でならなかった。
まぁ、粉チーズとタバスコをセットで置くのがマニュアルなのだろうと目を瞑った。
タバスコを置かれた場所から少しだけ自分より遠くに移動させてみた。

数分してパスタが届いた。美味しくなかった。心を無にしてパスタを飲むように食べ、コーヒーを啜った。

そろそろ出ようとした時、後から入ってきたキャリーケースの女性が先に会計をして出ていった。
その後に僕が会計をした。
あの味に1,000円。

「これはどなたの?」
とおばちゃん店員が若い男性店員に聞く。
「確かに!」

確かにってなんだ。

「さっきの白いコートの女の人です。行ってきます!」
といって、男性店員はキャリーケースを引いて駆け出ていった。

すみませんねぇ。とおばちゃん店員が言ったので、「間に合うと良いですね」と言って、1,000円を渡して店を出た。


「ただいま」
居間の扉を開けて部屋に入ると、父と母がテーブルで何か作業していた。
いつも通りの「おかえり」を受け取ったけど、少しいつもと違う感じがした。

「うまくいかないわ」
「まぁ、これでも良いけどね」

どうやら、なつめの写真を印刷したいけど、用紙設定が合っておらず、うまく用紙に収まっていない。

設定をいじって、しっかりと用紙に合うようにした。
プリンターから出てきた写真を見ると、いつか撮った、なつめが床で寝そべっている写真だった。
頭では分かっているけど、実際に起こっていることはまだ信じられなかった。
こんなふうに今も寝そべっているんじゃないか。


インターホンを押すと、数秒後に妹が出てきた。
顔は涙でくしゃくしゃになっていて、水を吸ったティッシュのようだった。

「泣かないって決めてたのにぃ。」
「仕方ないよ。それが普通だよ。」

部屋の中に入り、なつめのところにいった。
なつめは毛布に包まれていた。
なつめは寝る時はいつも片方の前足を枕にするように寝ていたけど、まさにそんな格好だった。
見た感じ、いつも通りに寝ているように見えて、ボーッと立ったまま、その姿を見つめていた。

父が僕の前に行って、なつめに近づき、頭を優しく撫でた。
それと同時に、鼻を啜り、眼鏡を外して、涙を拭っていた。

「よく頑張ったね...なつめ...」

それから妹がここ数日の一部始終を話してくれた。
ここ最近は排泄に介助が必要であったこと、ソファに登るのでさえ、苦労していたこと、みるみる痩せていったこと。
1日前に急に体調が悪化したこと。

「きっとみんなに心配かけないように、すぐに天国に行ってくれたのかもね」と母が言った。

そうなのかもしれない。
弱っている姿を見ていたら、きっと家族全員一日中心配していただろう。
僕も妹も実家にいた頃、なつめは常に中心にいたから、よく分かっていたのかもしれない。
みんなでご飯を食べていると必ず、4人の真ん中にきて、ニャーニャーと何かを訴えていた。

「そういえば、今日はニャンコの日だね。」
11月25日。
2(にゃん)5(こ)日ということか。

なるほど、と思ったけど、後で調べるとニャンコの日ではなかった。
"良い笑顔の日"らしい。
まぁ、この日ばかりは間違いなくニャンコの日だ。


母が花を買ってきていたので、茎の先端のほうを切って、花をなつめの周りに飾りつけた。
花を顔の横に置いて、頭を撫でた。

いつもはグルグル言って、気持ちよさそうに寝るけど、今日はただ静かだった。
そんな状況でも、ただ寝ているだけのような気がした。
頭では、もう生命活動を終えているとは分かってはいるけど、心の奥底では、そんなことはないと意地を張っている自分がいた。
自分でもよくわからない、整理のつけようのない気持ちのまま、妹となつめと別れた。


「今日のお昼に送り出してきたよ」

翌日の昼休みに、ご飯を買いに外に出ている時に、妹から連絡が入った。

パッと空を見上げると、青空に綺麗な羊雲がかかっていた。
炎に焼かれた細胞は、小さな破片になり、温められた空気と共に空高く舞い上がっていくのだろうか。
今見上げている、この大気のどこかになつめがいるんだろうか。
空を見上げながら、唇を噛んだ。


今までありがとう。なつめ。



fin

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