サブカルで学ぶ社会学⑩ 『手段としての戦争』と『絶対戦争』 ~『機動戦士ガンダムSEED』及び『HELLSING』より、両作の”戦争”は何がおかしかったのか~
はじめに(注意書き)
はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。
さて、記念すべき『サブカルで学ぶ社会学』第十回です。
新作はソーシャルワーカーに関しての話なのに、心の底では戦争を書きたくて堪らず(なんとマジ)、「なんか、目指してたラノベ作家像からどんどん離れていっている気がするな……」という危惧を抱いている吹井賢(なんとこれもマジ)が、社会学やその周辺科学、つまり、政治学・哲学・精神医学・文化人類学・生理学・組織科学・比較社会学・発達科学・戦争学・等々に出てくる概念を、サブカルチャーを絡めつつ、分かりやすいが論文で引用すると怒られる程度にはふわっとした感じに、解説していこう、という記事です。
最初にお断りをば。
※あくまでも娯楽として楽しんでください。
※興味を持った概念については、この記事を読むだけではなく、信用に足る文献を読み、講義を受けることをお勧めします。
※そして僕に分かりやすく教えてください。
それでは始めます。
前回に引き続き、『機動戦士ガンダムSEED』のお話
皆さん!
『機動戦士ガンダムSEED』シリーズの最新作、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』はご覧になりましたが?
主に、アスラン・ザラが面白い話でしたよね!
映画の細かな感想は、まだ映画館で上映中ということで伏せるとして、では、この『機動戦士ガンダムSEED』内でヤバ過ぎるシーンと言えばどれでしょう?
そうですね(ぶっちゃけヤバいシーンが多過ぎる)!
パトリック・ザラ議長の発言ですね!
最終話である第48話において、ザフトの最高権力者であるパトリック・ザラは、既に大勢が決したのにもかかわらず、ジェネシス(大量破壊兵器)を地球・ワシントンに発射しようとします。
作品・作中での戦争共に終盤となって、パトリック・ザラが既に正気ではなかったと明かされる印象深いシーンです。
「そりゃ敵がいたら撃たなきゃならないだろう」
と思うバリバリの武闘派の方に向けて解説しますと、僕達の世界における戦争、つまり、21世紀の”戦争”はそういうものじゃないとされています。
『機動戦士ガンダムSEED』序盤に出てきた、
「戦争には制限時間も得点もない。スポーツの試合のようなね。ならどうやって勝ち負けを決める?」
「……敵である者を全て滅ぼして、かね?」
という、バルトフェルドさんの名台詞も思い出しつつ、解説していきましょう
現代における”戦争”の基本的な考え方 ~『手段としての戦争』と『絶対戦争』~
さて、現実……というより、現在の政治学の元となっている、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』の話を今からしたいのですが、その前に、理解しやすいよう、「明らかに間違っている戦争の例」を一つ、出しましょう。
(「正しい戦争ってなんだよ」って話ですが)
漫画『HELLSING』の登場人物である少佐(※世界一カッコいいデブ)は、『ミレニアム』を率い、イギリス侵攻を企て、また実行しますが、こんなことを言っています。
「我々には目的など存在しないのだよ」
「世の中には手段の為なら目的を選ばないという様な どうしようもない連中も確実に存在するのだ」
そして、続けます――「つまりは とどのつまりは 我々のような」と。
要するに、「俺達は戦争が好きだから、戦争をする為に、戦争を仕掛ける」ということです。
……常識で考えると滅茶苦茶ですよね。
完全なる『手段の目的化』です。
(主人公の一人であるセラスは「そんなに死にたきゃ勝手に首くくれ!50年前に首をくくれ!」という感想を述べていますが、侵攻される側にとっては、そうとしか言えないでしょう)
少佐が思い描き、また、実行した”戦争”は、明らかに間違っているので、非常に分かりやすい反例になるのですが、これの真逆がクラウゼヴィッツの言う”戦争”です。
即ちは、『手段としての戦争』ですね。
クラウゼヴィッツの『戦争論』について良い記事があったので、引用しましょう。
「」内の文章は、『戦争論』からの引用です。
政治クラスタや軍事クラスタの方が、時折、「戦争というのは外交手段の一つであるから~~」という風に語られる場合、クラウゼヴィッツのこの考え方が前提にあると思われます。
戦争は外交カードの一つなのです。
ですから、『手段としての戦争』であると。
『手段としての戦争』に対し、「相手を殲滅することを目的とした戦争」を、政治や軍事の分野では『絶対戦争』と呼びます。
相手の土地を奪う為ではなく、相手を討ち倒し、滅ぼす為の戦争。
最初に挙げた『機動戦士ガンダムSEED』の”戦争”は、どうやら、『絶対戦争』になってしまっていたようです。
コーディネイターはナチュラルを、ナチュラルはコーディネイターを滅ぼす為に戦争行為を行っていた。
少なくとも、パトリック・ザラはその認識で指揮を行っていた。
……恐ろしい話ですよね、本当に。
戦争を否定しつつ、しかし、その裏にある意図を探る――単に「反戦」を唱えるだけでは戦争は終わらない
クラウゼヴィッツもそうですし、マキャベリの『君主論』なんかもそうなのですが(※「目的の為には手段を選ばない」の元ネタ)、現代日本においては、戦争について学ぶことは推奨されても、戦争”論”を勉強することはタブーとされがちです。
しかし、僕は思うのです。
もし本当に、戦争が外交の一つであるのならば、政治的な努力で戦争を防ぐことも、止めることも可能だろうと。
そしてそれを実行する為には、戦争”論”を学んでいなければならないと。
……皆さんはどう思われますか?
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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