見出し画像

【005】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-5】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回はバラモン教世界の概要でした。
ブラフマン(=バラモン=梵天)を信じる世界で聖典がヴェーダ。
進入してきたアーリア人と土着のインド人の混淆のなかで成立し、ヴェーダに記載されている神託「人は生まれながら、階級ごとに生きる道が決められている」によってカースト制度が生まれている。
なお、カースト制度における階級は上にいくほど進入してきたアーリア人の比率が高い。

今回はこのようなバラモン教世界においてどのように仏教が生まれたか?というお話です。


仏教哲学の世界観 1-5

https://youtu.be/YsehPx06wDU?si=mdY2IlEwQ_FtZwTi

AIによる要約

  1. バラモン主義と古代のインド社会

  2. バラモン教と神への結びつき

  3. バラモン階級とクシャトリヤの社会的地位

  4. シュードラ階級の制約と疑問の興起

  5. バラモン教への疑問とカースト制度

  6. 努力する人としての沙門(シュラマナ)

  7. 沙門とシュラマナの由来

  8. 2500年前の沙門集団の衰退と現在の残存

学習したこと

バラモン階級の社会的地位

「バラモン教」とは言っても、実態としては「バラモン主義」に近い。
現在でいうところの資本主義や共産主義などと同じく社会システムの主義に近い考え方だった。
バラモン階級は「バラモン(梵)」、すなわち世界を司る神との繋がりを持っているという意味となる。
そのため、神と人間の間をとりもつ存在であるために非常に強い影響力を持っている。

日本での神社にお参りしてお賽銭を渡す行為に関して例えると、
これは誰でもお参りすることによって何かしらの「ご利益がある」と考えている。そしてこの場合、神様が平等に参拝者の願いを聞き届けてくれる事が前提となっている。
だから誰でも初詣に出かけたりする。

しかし、バラモン教においてはそのような前提を持っていない。
バラモン教では特定の階級の人の言葉しか聞いてくれない。

逆に言えば特定の階級以外の人について神様は願いを聞き届けてくれない。

このような考え方から、人と神の仲介役としてバラモン階級が存在している。
一応、クシャトリアやヴァイシャの階級でも神との絆においては力があるが、とてもバラモンほどの強いつながりは持っていない。

バラモンは特別経済力があるとか、武力を持っているというわけではないが、権威として絶大なパワーを持っている。

クシャトリアの社会的地位

二番目の階級であるクシャトリア階級は、
現世の、世俗における権力を持っている。これは王侯貴族がそれにあたる。
どれだけ権力を持っていたとしても、神との繋がりを持っているバラモンには逆らうことができない。
したがって、クシャトリアは彼ら自身の望みを叶えるためには仲介役であるバラモン階級に対して頭を下げ、供物を捧げることで神にお願いをしてもらうほかない。

ヴァイシャとシュードラの社会的地位

三番目の階級であるヴァイシャは一般人であり、四番目の階級シュードラは小作人や召使のような立場となっている。
結婚や職業の選択は認められず、上の階級の指示に従う。
とはいえ、鞭を打たれる奴隷のようなものではない。

カースト外のチャンダーラは悲惨な状況で、生きるか死ぬかの生活を強いられていた。

バラモン教への疑問を持つ者たち

紀元前4000年〜3000年ごろのアーリア人の進入から始まり、紀元前1000年頃(現在から2500年ほど前)にバラモン教世界が成立したが、この頃からこの社会制度に疑問を持つ者が現れ始める。

疑問とは以下のようなもの

  1. 梵(ブラフマン)という絶対的な宇宙パワーにすがって生きなければならないのか?

  2. 梵からもたされた聖典ヴェーダに従って生きていくのが正しいのだろうか?

  3. 梵とヴェーダを基に作られたカーストという身分制度に従って生きていくのは本当に正しいのだろうか?

バラモン教に対してこのような疑問を持つ人物が同時多発的に出現してきた。彼らは共通して

「バラモン教の考え方は押し付けられた偽物の価値観であり、家柄・血筋をベースにした幸せ、人生の究極の安楽を求めるのは間違いである」
と結論づけ、

それではどうやったら自分の究極の安楽を手にいれることができるだろうか?
と考えるようになった。

そしてこのような考え方を持つ人々の共通した理念として
(バラモン教のような)外から与えられた枠組みから抜け出して、自分の道を進むのならば、自分が自分の為に努力をすることが究極の安楽への唯一の道であるとした。

「努力する人」、シュラマナ

このような努力をベースに人生を組み上げようとする人々
彼らのことを「努力する人」という意味の「シュラマナ」と呼ばれるようになった。
これが後の三蔵法師の時代に音写で翻訳され「沙門」(しゃもん)という言葉になっている。
なお、日本では「お坊さん」の事を指す。

つまり、仏教も「沙門」の一つということになる。

このことから、仏教の創始者であるお釈迦さまも沙門であり、お弟子さんたちもまた沙門である。
そして当然仏教だけが沙門ではなく、この時代には仏教徒以外の数多くの沙門が存在していた。
ただし、長い歴史の流れとともに現在沙門とされる教団は

  • 仏教

  • ジャイナ教

の二つのみとなっている。
ジャイナ教はインドにしかない非常に独特な宗教。

感想

バラモン教世界、というかバラモン主義社会がどのようなものであったか?
そして仏教の誕生する時代がどのような社会制度だったか?
そんな内容。
前回疑問に思った「バラモン教」のバラモンはブラフマン(梵天)のことならば、社会階級のバラモンって神ってこと?というものが
「神との絆が強い人たち」という解釈だということがわかった。
でも扱いはやっぱりワンピースの天龍人っぽい感じだったのかな?

いかに強い権力をもつクシャトリアでも、運命…例えば病気だとか老化だとかいずれはくる死だとかは逃れようがなくて、それらの苦しみをなんとか神様=梵天に解決してもらうようにお願いするにはバラモン階級にお願いするしか無いわけだ。
当時の科学なんてものが無い迷信深い時代だったらやっぱり本気で信じられていたのかもしれない。実際紀元前1000年とかの時代だし。

そう考えるとそんなバラモン主義に対して疑問を持ち、反抗しようと思った人たちは当時で考えると相当にチャレンジングだったんじゃないかと思う。
梵天様に頼ることなくいろんな苦しみを解決させる方法を、理性的に社会や人間の苦しみを観察・分析していったのであれば当時としてはかなり科学的だと言ってもいい気がする。

まあ、単純に
「梵天に頼んでも(生老病死は)解決してねーじゃん!」
って冷静なツッコミもあったのかもしれない。

そんな「努力する人」こと沙門が同時多発的に出現したというのは、中国における「諸子百家」みたいで面白い。
諸子百家の場合は宗教ではなく思想ではあるけど。


次回は「仏教哲学の世界観 1-6」
梵天やヴェーダ、カーストから脱却し、自分の努力で道を切り開こうとした沙門の考え方の解説。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?