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ドッグ・ラン ①


私は、兄が好きではない。



有名どころ勢揃いの音楽特番は、すでに終盤を迎え、最近流行りのアイドルグループがヒットメドレーを歌い出した。

「好きだったグループが急に、歌詞の中に英語とか入れだして、しかもその発音が下手だとさ、めちゃくちゃ冷めるよね。」どう考えてもネイティブではない発音で歌い、踊るアイドルを見ながら、私はふとそう呟いた。


「それ、日本人の悪いところらしいよ。すぐ英語使う人の揚げ足とって、バカにするみたいな。そういうやつって遅れてるよな。」

「いや、それとこれとは...」
「違くねーよ。英語使う勇気がない、保守的なやつがそういう思考に至るんだよ。」

いや、それとこれとは、やっぱ違うじゃん。
と言いかけてやめた。
こんな会話に意味はないし、言い返せば兄はまたすぐに強い言葉で言い返してくるだろう。ムスッとしながらテレビを見続ける兄の顔を一瞥し、私はぐるりと部屋を見渡した。

広い部屋だ。2人ですごすには、あまりにも広い部屋。クリーム色で統一された壁。煌々と光るLEDライト。大人2人が横並びでくつろげる大きなソファ。縦長のテーブルと椅子が6つ。55型のテレビ。ほとんど使われていない大理石のダイニングキッチン。奥にトイレ。隣に広めのバスルーム。右奥は兄の部屋。手前に私の部屋。玄関横はクローゼット。

何もかも揃えられているのに、どこにも生活力がのぞかないこの部屋に、私は去年の10月から、兄は3年前から住み着いている。
たしかここは、26階だったはずだ。



去年、就職して1ヶ月で自殺未遂を起こした私は、入院を経て兄の暮らす高層マンションに引っ越しすことが決まった。

だが全ての準備が整い、入居するその日の朝なって、最後の最後で母がしぶりだした。 

曽根さんが用意してくれた、朝ごはんを食べながらゆっくりと母は口を開いた。
「奈央には幸せになってほしいの。やっぱりもう一度、働いてみない?」
兄には、すでに愛想を尽かし切っていた母も、未子の私まで、「ニート」になるのはやはりどうしても、我慢ならないようだった。

「私の幸せは、しばらくあそこで暮らすことだから。」
「あの子といても、何もいい事ないわよ。一生何もせずに生きていく覚悟はできてるの?」
「一生なんて、言ってない。」
「一度、堕落したらもう、戻れないのよ。いま踏ん張らなかったら、何年後かに再就職できたとしたって条件が悪いところしか選択肢がないのよ。わかってる?今ならもう一度、お父さんの会社にそのまま入る事だってできるし、やり直しもきくの。やっぱり、今日ここまで考えたけど、あなたには日向の道を生きてほしい。」 

「私は、生きたいように生きる。」
少し声を荒げた。キッチンで洗い物をしていた曽根さんが、心配そうにこちらを見ている。

「そんなこと言ったって...」
母は言葉を詰まらせた。

そんなこと言ったってあなたは1人で生きていけないじゃない。
母の気持ちも、1ミリくらいはわかる。
おかしな話だ。「生きたいように生きる」なら、親の迷惑をかけずに一人暮らしでもすればいい。でも、それが私にはできない。プレッシャーに打ち勝てない。現に今、全て放り投げて逃げ出して、父親が用意した、お払い箱に入ろうとしている。

母はいつの間にか泣き出していた。
曽根さんは驚いて、すぐにエプロンで手を拭き
母の元に駆け寄った。


父は、悪魔のような人だった。


三兄弟の未子で、女だった私に父は鼻から期待などしていなかった。グループのトップには2人の兄のどちらかを据える予定で、どちらも同じくらい優秀だった。父は2人にはありとあらゆるプレッシャーをかけた。ある時は言葉で、またある時は暴力で。しかし2人は一度も折れることなく、従順に王になるための道を歩んだ。

一方で父は私に対してとことん優しかった。
プレッシャーをかけられる事もなく、何をしても許されていた。ほしいものは何でも与えられたし、何でも叶えてくれた。生涯で恐らく、怒られたことは一度もなかった。
しかし同時に父は私を一度も愛さなかった。
目はいつも仕事と、2人の兄に向けられていた。それで言えば「私の相手をする」と言うことは業務のようなものだった。

そんな父が一度だけ、幼稚園の迎えにきたことがある。曽根さん以外の誰かが私の迎えに来ることなど一度もなかったから、先生から「今日は、お父さんが迎えに来てくれるよ。」と伝えられてから、一日中そわそわが止まらなかった。
帰りの会が終わり、今からやってくるであろう父になんと話しかけようか、ぐるぐると頭の中で繰り返し考え、手をぶらぶらさせながら足踏みをして父を待った。


父が来たのは、他の園児たちが全て帰ってからだった。私は疲れて、入り口付近の小さなベンチで涎を垂らしながら眠りかけていた。

「奈央、奈央。遅くなって悪かった。さぁ、帰ろう。」
目を開けると髪をシチサンに分け、銀のメガネをかけた、父が私を覗き込んでいた。
即座に、涎を拭いた。

「お父さん...」言いかけた途端、周りにいる大人たちに気がついた。
カメラを向ける人。マイクを向ける人。スケッチブックを持つ人。ライトを当てる人。

「いつも、仕事の終わりにお迎えに?」
「ええ。これが日課というか。」
「毎日ですか!?」
「ええ...仕事がない限りは。」
「大変じゃないんですか?」
「疲れてはいますが...もう上2人は小学校にあがって久しいんで、迎えに来るなって言われてるんですけど。奈央だけは。この時間が自分にとってはとても大切なんです。」

後の会話はよく覚えていない。

取材が終わり、車に乗り込むと、運転手に行き先を任せ父はさっさと寝てしまった。

お父さん、今日ね、幼稚園でね、
お父さんの似顔絵を書いたんだ。
それでね、今日ね、先生とお話ししてね、

似顔絵は、そのあとすぐに捨てた。


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