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南京大虐殺の捏造写真

副題:レイプオブ南京掲載の写真

南京大虐殺はアメリカの宣教師と中国国民党によって捏造されたものだが、日本本土を空爆したアメリカは、アメリカの戦争犯罪を隠蔽するために、捏造された南京大虐殺を率先して世界に広めた。日中国交正常化後、中国共産党は中国の捏造した歴史を日本に押し付けることで、日本の政治家に「正しい歴史認識」を持つよう交渉を強要し、日本の官僚は中国の言うことが真実だと思い込まされてきた。さらに最近では、中国共産党は日本を悪魔化し、反日教育をエスカレートさせるという政治手法を採用し、国民の対日不満を誘発・爆発させている。

アイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京』のこの写真は南京大虐殺の直後に撮影されたとしている。しかし、傍らに立っている日本兵とされる人物は、階級章が付いた襟が折り返された軍服を着ている。このスタイルが導入されたのは、1938年6月1日の制服改正後のことである。加えて、この写真では、写真の死者がどのように殺されたのか、虐殺によるものなのか、戦闘によるものなのかがわからない。

1938年6月1日改正前後の日本陸軍軍服のデザイン。

この写真は、アイリス・チャンが著書『レイプ・オブ・南京』で、日本軍が南京に火を放ったと主張するために使用した。 しかし、この軍用車両(タイプ97 Te-Ke 戦車)には火炎放射器は装備されておらず、何より日本軍が南京に侵攻した時にはまだ生産されていなかった。

タイプ97 Te-Ke 戦車は、1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用されている。

P.178

1997年7月発刊されたレイプオブ南京のキャプション
日本軍は中国全土を移動しながら、何千人もの女性を検挙した。その多くは集団強姦されたり、強制的に軍隊売春をさせられたりした(台北の軍事委員会政治局)

1937年11月10日発行アサヒグラフのキャプションは
「わが兵士に護られて野良仕事より日の丸村に帰る女性や子どもたち」

P166
1937年11月10日発行アサヒグラフをカラー化

より詳細な情報はリンクページにあります。👇

同じ写真を朝日新聞記者である本多勝一も 中国に教えられたことを記事したとして誤用を認めた。1938年7月に蒋介石の国民党軍が世界中にばら蒔いた反日プロパガンダ写真集『日寇暴行実録』をもとにしていた。

週刊新潮2014年9月25日号

アイリスチャンのレイプオブ南京には衝撃的な写真が掲載されている。

1937年秋にAP通信は、この写真を、日本兵が生身の中国人を銃剣の練習台にしているものとして報じた。アイリス・チャンの本でも、同種の写真が幾つか載っている。しかし左の兵士は立折り襟で、当時の日本兵は誰も立折り襟ではなかったから、これは日本兵ではない。1939年1月の米国「ローダウン誌」は、これはじつは中国共産兵が中国人捕虜を苦しめている写真だとしている。

P.168

生埋めは中国の文化であり、日本の文化ではありません。中国は、事故を起こした新幹線も地下鉄も生きた人がいるのに埋めました。中国には昔から生埋めの歴史がありますが、日本にはありません。万人功を日本軍がやったというのは中国の作り話です。

左の写真では同じ顔の人がいるのがわかります。
写真の切り貼り合成のあとと思われる部分を強調した写真

日本は日本は明治になって法が整備され、1905年以降公開処刑禁止になっています。見物客がいる時点で日本兵がおこなっているものではないと判断できます。また写真の人たちの服装は冬服ではありません。
日寇暴行実録の刊行は1938年7月なので春と夏の服装の人が多いのはその時期に撮影されたためなのだと思われます。
南京大虐殺は12月13日~1月末と中国政府が言っていますのでこの写真はいずれにしても南京大虐殺のものではありません。
当時の中国は盛んに公開処刑をしており、最近まで公開処刑をしています。

左写真1938年1月20日朝日新聞 影特派員撮影  右写真 レイプオブ南京に掲載されている写真

こちらの写真も衝撃的な写真となっているが中国では馬賊への見せしめのために、斬首が行われ、犯罪抑止の目的で見せしめにさらし首にしていることが多かった。日本兵が1枚5銭で売られていたこれらのさらし首の写真を持っていたので朝日新聞が南京大虐殺の証拠と報道し、後日小さくお詫び報道をしている。

AP通信特派員C・イェーツ・マクダニエル記者は。日本人のユーモアセンスと書いていたが
日本人にはこのようなユーモアセンスはない。
このようなユーモアセンスを持っているのは、アメリカ人

説明文から「1944 年 4 月 30 日。オハイオ州コロンバス出身の E.V. マクファーソン中尉 (3 等兵) は、米国海軍のモーター魚雷艇 341 のマスコットとして使用されている日本兵の頭蓋骨を持っています。」

アメリカ兵が日本兵の遺体で遊んでいたという報告はたくさんあります。

https://twitter.com/salwiho/status/1593284710494400513

こちらの写真もこの本を見た人が盛んに投稿している写真です。

The Rape of Nanking Page 172

この写真のおかしさに気が付かないなら、あなたはかなり洗脳されています。刀を持った男は明らかに日本軍の軍服ではありません。そしてこの男は日本刀の使い方を知らないようです。日本刀を使うときの足の配置が違います。人々の影も人の大きさも違和感、ありませんか?

100人切り競争も中国人は盛んに投稿してきます。発行日13日だったものを30日に変え、日付等の捏造投稿もお構いなしで行っています。こちらの二人の写真は常州で1937年12月12日に撮影されたもので南京とは関係がありません。
向井・野田両名を撮影された東京日々新聞 佐藤振寿カメラマンは
「よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです」と語っておられました。

中国人の投稿した新聞記事をチェック

百人斬り”超記録”

→12:12 【紫金山麓にて十二日浅海、 鈴木両特派員発】 南京入りまで『百人新リ競争』といふ珍 競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井巌少尉は、十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って、十日正午野田少尉とさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが貴様は ?」向井「おれは百六だ !」両少尉は「アハハハ」結局いつまでにいずれが先に百人斬ったかこれは不問。結局「ぢやドロンゲ—ムと致そう。だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよ いよ百五十人 斬りがはじまった。十一日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少財が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語ってのち、知らぬうち

これが百人斬り記事の実際の内容です。
①記事には民間人を殺したとは書かれてない
②写真は南京ではなく常州で撮られた
③記事は南京陥落前の話で中共の言う大虐殺とは関係ない
④記事を書いた毎日新聞社自身が百人斬りは創作と認めている

野田少尉遺書

「俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断りいたします。死を賜りましたことについては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て、残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願いいたします。
宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨み晴らさんが為、一方的裁判をしたりなされない様祈願いたします。我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願いたします。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」

向井少尉の遺書

私は、神、天、地、そして人類に誓って、一人の捕虜も殺していないことを誓います。南京大虐殺の責任を一切認めません。私は死が私の運命であり、日本の少年として中国の土となることを信じています。そして、私の魂は大安に帰るのです。私の死が、日中友好、東洋の平和、中国との8年間の戦争の恨みを払拭することになるなら、私は捨石となることも厭わない。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、私は死んで国防の鬼となる。

戦後に南京事件の責任を問われ、松井大将、谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田毅少尉の5名が、連合国の誣告で死刑になりました。
南京裁判で有罪になった谷中将は1937年12月21日までしか南京にいませんでした。具体的には1937年12月10日、第六師団は、国民党軍が守る南京城の中華門を攻撃。13日に陥落させたものの、部隊のほとんどは南京城に入ることが認められず、中華門の外に駐留しました。その後、同師団は南京から約60キロ離れた蕪湖(現・安徽省)の警備を命じられ、15日より同地に向けて順次出発。一方、師団長の谷中将は、南京に留まり、17日の松井石根大将の入城式や、18日の日本陸海軍の合同慰霊祭などに参加した後、21日に部隊が待つ蕪湖に出発しました。

ビニ本並の内容のこの本が図書館においてあることがおかしいと思いませんか?

https://howitzer.jp/nanking/page01.html

誤った情報ですが、通州事件の写真として投稿されている方がいますが、このもともとは、写真ではなく、女性の体を知らない人が想像で書かれた絵です。この写真は日寇暴行録実録にも掲載されている写真でキャプションでは
徐州の北の「台児荘」で「日本軍に刺殺された後、蘆の管を下部に挿入された老婆」となっています。

「ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。」と松井大将の元私設秘書であられた田中正明氏は語っています。
1927年に起きた中国の広州蜂起でも同様の事件が起きています。

5ケ月前に起きた1937年7月29日には日本人が同じような被害を受けています。通州にあった旭軒という飲食店では、17歳位から40歳位の女性7、8名が強姦され、女性たちはみんな裸で、陰部を露出したままの姿で、女性として耐え難い行為が行われた後、陰部を露出した女性たちは射殺されていました。その内の4、5名は、陰部を銃剣で刺されていたのです。


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