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松井大将は中国を深く愛された方でした。

松井大将が責任を問われた「南京大虐殺」は、我が国の歴史教科書においても史実のごとく書かれていましたが、驚くべき事にアメリカの戦争犯罪を隠すためのに捏造されたものでした。

早坂隆さんの著書『松井石根と南京事件の真実』を読むと、松井大将が生涯、中国人民の幸福と独立を願って活動していた事が明らかとなります。

現代日本人が「国家」という観点を失ってしまったのは、この様に、史実を誤って教えられ、自らの歴史に誇りを失わされた事が大きいので
日本人が自分を取り戻すきっかけとなる、必読書の一つと言えるでしょう。

この本の感想で もゆるり さんは次のようなnoteを書かれています。
読み手はどのように思われるでしょうか。
私もその一人でしたが、かなり勘違いされている方がいるように思います。

さて、書籍の中でも触れられているのですが、
松井大将は南京攻略にあたって《南京城攻略要領》を下命し、南京入城の兵は各師団とも選抜せる歩兵1大隊のみと限定し、
次のような細心の注意を与えています。

抄出すると、
(1)部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。
(2)別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざること、外交団が設定を提議し我軍に拒否せられたる中立地帯(難民区のこと)には必要の立入を禁し所要の地点に歩哨を配置す、又城外に於ける中山陵其他革命志士の墓及明孝陵には立入ることを禁ず
(3)掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す、軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ

 松井大将はこれでもなお安心できず、さらに自ら筆をとって次のような末端将兵に対する訓戒を重ねて示達した。

 「南京は中国の首都である。之の攻略は世界的事件である故に真に研究して日本の名誉を一層発揮し中国民衆の信頼を増す様にせよ、特に敵軍と雖も抗戦意志を失いたる者及一般官民に対しては寛容慈悲の態度を取り之を宣撫愛護せよ。」
 この一文は、下士官兵にいたるまで徹底せよと命じた。

南京城攻略要領

降伏勧告

南京城を包囲した日本軍が城内の中国軍南京防衛司令官・唐生智に対して攻撃の前に24時間の猶予を与えて降伏を促した勧告文を飛行機から投下したという報道。この時点で総統・蔣介石夫妻や南京市長らはすでに南京から逃亡しており、南京城内は無政府状態であった。

1937年(昭和12年)12月10日 朝日新聞

唐生智(トウ・セイチ)南京防衛司令長官は退却口になる挹江門(ゆうこうもん)に督戦隊を配備させ、逃げてくる中国国民党軍兵士を銃殺するよう命令し
1937年12月12日20時、唐生智南京防衛司令長官と1万5千人の主力部隊は下関の超大型フェリーボートで逃亡した。

中国国民党軍の降伏拒否の回答は毒ガス攻撃だった。

中山門外に整然と整列し、今まさに南京に入場せんとする富士井部隊。

支那事変画報 1937.12.13撮影 朝日新聞社

日本軍の南京入城




南京に安民布告 1937年(昭和12年)12月15日朝日新聞

このように入念に、くり返し注意、厳命したにもかかわらず、1937年12月17日に行われた入場式の夜、「若干の暴行・掠奪事件」があったと憲兵隊長から松井大将は聞かされ、松井大将とすればどんなに口惜しく、情けなく、残念に思ったことでしょう。
犯罪を犯した日本兵は厳罰となったため、南京での軍規運用の厳しさに兵士たちからは苦情が出ていたそうですが。

さて、ラーベ委員長は1937年12月14日に松井大将に手紙(ラーベの手紙1号)を書いています。ラーベ委員長が設定した安全区で安全委員会の抗議にもかかわらず、中国国民党軍は塹壕や砲台をつくり、いそがしくしていたが、日本軍は安全区への攻撃を避けた。

1937年12月14日から、日本軍は安全区に潜んだ便衣兵士を民間人から分離する兵民分離を始めました。

南京占領直後に撮影された兵民分離の実際の記録


日本軍は兵民分離で子供を除く南京市民に善良な市民であることの証明書を 16 万枚発行し、必要な食料の確保し、良民たちに配布しました。
日本軍からの食糧配布がなければラーベ委員長は20万人の難民に餓死者が出るだろうと手紙に書いていましたが、日本軍が難民に食料を配布したので餓死者は出ませんでした。

良民証
日本軍の南京での食糧配布


日本兵は1937年12月24日には、4,000人の警備員を残し、日本軍の部隊は転戦のため、南京を離れました。また翌年の1938年1月1日に南京自治会発足祝賀会があり、南京自治員会による自治が始まりました。発足祝賀会の当時の映像が残っています。

1938年1月10日には「南京警察庁」が発足し、8つの警察局を支配下に置き、中国人による治安維持体制が確立し、漢口には警察学校もあり、維新政府成立時は1000人以上に上る規模でした。画像右は中国人警察官、左は中国人婦人警察官。

南京自治会の中国人警察官と婦人警官

また早坂さんの著籍には『わらわし隊の記録』があります。

"わらわし隊の公演に主として使われたのは国民大会堂であり、収容人員は
中国側の資料によれば『2500人』である。この大会堂が連日、満員となっていた。この当時、南京にいた日本兵の数は約4000人。南京陥落戦の後、つまり昭和12年(1937年)の年末から昭和13(1938年)年正月にかけて、既に多くの部隊が南京から他の戦場へと転進していた。その後も南京に留まっていたのは、奈良の38連隊、津の33連隊が中心で、各連隊それぞれ約2000人、合わせて約4000人という人員である」
南京で警備にあたっていた約4000人のうち、わらわし隊の舞台に約2500人が集まっていたことになる。実に駐留部隊の約62.5パーセントの
兵力が一ヵ所に集まり、しかも演芸を観て腹をよじって笑っていた。それが昭和13年1月23日~27日にあった南京の本当の光景だ。"


さて、松井大将は、偽証罪の規定がなかった東京裁判で被告人として裁かれ、死刑になりました。

東京裁判で松井大将の弁護人を務めたフロイド・J・マタイスは松井文子夫人への手紙で次のように語っています。

「彼(松井大将)は起訴中の五五訴因中、僅かひとつの訴因すら有罪であるという証明もできなかったのであります。松井大将は釈放されるべきでありました。」

東京裁判における有罪無罪一覧表

松井大将は南京大虐殺の実行および命令者としては無罪だった

東京裁判の訴因45=1937年12月12日以後の南京攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害。訴因45は訴因54に含まれるが、松井大将の判決では訴因45には触れられていないが、訴因54では無罪だった。即ち、松井大将は南京大虐殺の実行および命令者として有罪とはなっていないのです。

南京の焼け跡から孤児を助けた松井大将

軍司令部が湯水鎮に進出した夜、岡田通訳官が焼け跡から女の赤ん坊を救出した。
松井大将は目を細めて抱き上げ、風呂に入れ毛布に包んで大切に保護した。その子を「松子」と名付け、入城式には当番兵がその子を背負って行進した。

松井大将の養子となった松子

南京の中国負傷兵を看護する日本兵

暴虐無頼な抗日支那軍ながら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈悲に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽(むせ)んでいる支那傷病兵。

南京野戦病院の支那兵 昭和12(1937)年12月20日撮影 朝日新聞
南京の国際安全区(難民区)で支那人を治療する日本軍

南京でも行われていた捕虜の解散式

天皇陛下より松井大将に勅語

松井大将日記によると、内地に帰還した大将は、1938年昭和13年2月26日、葉山御用邸に伺候して出征以来の軍状を復命するのであるが、日記にはこう書かれている。
 「陛下には特に予に対し優渥なる勅語を賜ひ感激恐懼に耐えず、又銀製花瓶一対及金七千円を賜い、宮内大臣、内大臣に依りて賜餐あり・・・・・」
 そのときの優渥なる勅語とは次の通りである。
 卿前(さき)に上海派遣軍司令官に任じ次で中支那方面軍司令官としてこん外(筆者注・国境の外に出征する軍隊のこと)の重任を荷ひ錯綜(さくそう)せる国際関係と困難たる戦局との間に処し克く皇軍の威武を中外に宣揚せり 朕親しく復命を聴き更に卿の勲績と将兵の忠烈とを惟ひ深く之を嘉す

この時、天皇陛下から7千円を賜っていますが、松井大将は上海戦の時に中国人難民のために命を懸けて救済活動されているジャキノ神父の働きに感激して中国人避難民救済のために1万円を贈っています。

1937年(昭和12年) 11月 15日朝日新聞

上海の難民区で30万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語った。

日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝しているところです。

1937年(昭和12年) 12月 8日 通常号 735号 8~9 アサヒグラフ

ジャキノ神父は南京陥落11ケ月後、漢口で
「正義の日本軍の庇護を千秋の思いで待っていました」
「日本軍が来ればもう大丈夫です」
「日本軍の軍規風紀の立派なことには漢口市民は皆感謝を捧げています」
と語っています。

1938年10月30日 朝日新聞


今までアメリカ軍に誣告され、冤罪で殺された松井大将のことを書いてきましたが、アメリカ軍はどうだったのでしょうか。

アメリカの組織的戦争犯罪 焼夷弾爆撃

東京大空襲を指示した指揮官ル・メイは、『東京には婦女子しかいない事はわかっている。婦女子は怖がる。だから東京郊外に先ず爆弾を落とす。
怖がり、山手線の内側に逃げ込んだところを上から焼夷弾で焼き殺す。』
と語っています。

民間人の殺害は戦争犯罪ですが、指揮官がそれを計画し実行させています。
焼夷弾も日本家屋が最も燃えるように研究開発していたことがわかっています。

1943年、米国ダグウェイ実験場に小さな日本村が作られました。住むためでなく、ただ焼くために、でした。

畳や布団、雨戸、狭い道路まで再現されました。

米国は、ダグウェイ実験場に木造建築の日本村を作って、市民の家を効果的に焼く「焼夷弾実験」をして、軍事的に意味のない市民を狙った虐殺を計画し実行しています。国家として組織的に戦争犯罪をおこなっていました。

ヘンリー・アーノルド米陸軍航空軍司令官は1945年6月16日の日記に「ジャップを生かしておく気など全くない。男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」と書いていました。

原爆

ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、原爆を「日本人」に「繰り返し」投下し、日本民族をほぼ全滅させることで合意していました。非人道性を感じます。

第2次世界大戦の主な空襲による死亡者数

東京青山に集められた焼死体1945年5月25日

東京裁判で南京事件を持ち出し、日本軍が南京で30万人の虐殺をしたとアメリカが言い出した理由は自分たちがおこなった空襲で日本の民間人が30万人虐殺されていたことを知ったからでした。
東京裁判で連合国は南京で民間人30万人が虐殺されたと誣告しはじめたが、弁護人に南京には20万人しか住んでいないといわれ、20万人の虐殺があったことにしました。生きていた20万人は死んではいませんせんでした。
それでも20万人の虐殺があったとされ、松井大将は死刑にされました。

日本兵の頭部で遊ぶ米軍中尉

1944年4月30日、ニューギニア、アメリカ海軍魚雷艇341甲板にて

ここまで読まれていかがでしたか。
松井大将は中国人が言うようなヒットラーでしたか?
私はヒットラーに近かったのは日本民族大虐殺をおこなったルーズベルト大統領と思います。

人道の罪、戦争犯罪を犯していたのは連合国でした。
死刑になるべきは連合国の将軍たちだったと思います。

神様のなさること

神様のなさることは不思議です。
松井大将の死刑執行責任者であった日本駐留軍司令官ヘンリー・ウオーカー中将は、昭和25(1950)年、奇しくも死刑執行の同じ日、同じ時間に事故で亡くなっています。

聖書には、終わりの日に神様は私たちを右と左に分けて
左のものには、永遠に燃える火に入れと命令されるそうです。

聖書にはまたこのように書かれています。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
マタイ7章

栄光の主の裁きを称え、感謝します。裁きを主に委ねます。

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