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東京、10年目。

東京という街に出てきて、今年の春で10年目になる。
2011年の4月28日、ゴールデンウィークの前日に上京してきた。

東日本大地震を、福島第一原発事故を、福島県郡山市で体験し、高卒で就職するために東京へ。元々は4月1日入社の予定が、震災でずれ、新幹線が動き落ち着いた頃の入社となった。

東京という街は、自分の人生を大きく変えた場所だ。
これ程までに、楽しく人生を歩めるとは、18歳のぼくは予想もしていなかった。

暗黒期の地元・高校時代

高校時代は、暗黒期といっていいほど、退屈で、窮屈で、最悪な3年間を送っていた。
進学したのは地元の工業高校の建築学科。偏差値がそこまで高い学校ではないが、学力が低い訳でもない中間的な学校。アニメ、ゲームが好きなオタク系と、万引きをしたり、メンズエッグを読み、喧嘩っ早いヤンキー系の2つのグループによって構成されている学校。

その空気感がとても苦手で、とても苦痛で、最悪の時間を過ごしていた。
授業を適当に聞く、教師や大人を馬鹿にして、反抗するのが正義で、昭和の学級崩壊ような雰囲気が漂っている教室。文化の芽も、イノベーションも産まないような退廃的な空間だった。

自分は、どちらかというとオタクの部類ではあったが、漫画やゲームはそこまで好きではないし、ニコ動は見ていたけど、当時流行していたボカロ、初音ミクなどに興味がない、オタクになりきれないオタク。
中学時代から「ROCKIN'ON JAPAN」を毎月買い、山崎洋一郎の記事と、アーティストの◯万字インタビーを読み、ラジオ「SCHOOL OF LOCK!」を聞き、楽曲の宇宙初O.A.に興奮し、毎週火曜日に地元のレンタルCDショップへCDをフラゲしにいくようなサブカル男子が、オタクとヤンキーによって構成される学校にそこまで馴染める訳でもなく、話せる相手はいるが楽しくも、仲良くもならず、スポーツが嫌いだから部活にも入らず、青春の汗と涙と恋という感覚も理解できないスクールカーストどん底の中途半端な高校生活を送っていた。
スクールカースト底辺でも、オタク仲間のいる人達のほうが充実した高校ライフを過ごしていたと思う。

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放課後通っていた地元のライブハウス

高校時代の楽しみといえば、高校2年生(2009年)のときにはじめたTwitter。月1ペースで見る地元でのライブと、年2回の仙台と東京へのライブ遠征。寝る前に聞くラジオ番組「SCHOOL OF LOCK!」と「オールナイトニッポン」くらいだった。
音楽とラジオは、心の支えだったし、「小栗旬のオールナイトニッポン」で自分の書いたネタメールが毎週のように採用され、ハガキ職人的な立ち位置になったときは、ゼロに近かった高校生活での自己肯定感を唯一高めることができた。

ニッポン放送から送られてくるステッカーが特別なものに感じていた。

上京・就職:クリーニング屋

そんな、暗黒高校時代の影響で、地元がめちゃくちゃ嫌いになった。ヤンキー文化や田舎のよくある過干渉で、陰湿な雰囲気が本当に苦手で、受験勉強などをせず、手っ取り早く地元から出て行きたいと思い、東京での就職を決めた。

建築学科だったので、建設業界への就職を。と、最初は考えていたが、ヤンキー文化が嫌いなので体育会系&現場系の業界は無理。そして、何となく就職したのが、都内にある一部上場の大手クリーニング会社だった。

脱地元が決まり、暗黒の高校を卒業し、東京での生活に夢と妄想を膨らませている最中に起きたのが、東日本大地震。
地元が今後どうなるのか、本当にこのままここで暮らしていいのか、そんな状況での東京生活が始まった。

最初に暮らした街は、東京ではなく、川崎市元住吉。東横線沿いの街。
元住吉は、会社の借り上げのアパートがあり、自分がここで住みたいと思って住んだ街ではなかったが、元住吉という渋谷に行きやすい街に住んだことが今後の人生を決定付けた気がしている。

職場があったのは、川崎から多摩川を越えた、東京都大田区。クリーニング工場の勤務だった。
毎日、スーツやコートなどのドライクリーニング品のシワを伸ばす仕事をしていた。ドライクリーニングの仕上げ作業は、スチームアイロンやスチームプレス機を使い、朝8時から夕方5時までの間、毎日数百点の洋服を仕上げるという仕事。蒸気を使うので、夏場は40度くらいになる。仕事の唯一の面白みは、当時の給料では買うこともできないハイブランドの生地や仕立て、デザインを間近で見れることくらいで、本当にきつい職場だった。

働いている人たちは、どこかしら覇気がなかったり、非喫煙者の自分にも喫煙所コミュニュケーションは大事だと言ってきたり、仕事終わりに明るい時間から駅前のコンビニでお酒を買って、その場で飲んでいるという、当時18歳の自分にとってはショッキングかつ苦手な場所だった。もちろん、馴染むように努力をしたが、嫌悪感が勝っていた。
いま思うと、どこかしら自分はこの職場にいるような人間じゃないという、上京したて、就職したての若者特有のプライドや選民思想があったのかもしれない。

そんな職場に嫌気が差し、5時の仕事終わりには東横線に揺られ、毎週火曜日にフラゲをしに渋谷のタワレコへ向かう。渋谷パルコでお気に入りのブランドをなけなしの給料で買う。下北のライブハウスに行く。そんな生活を過ごしていた。
雑誌で見ていた屋根裏やシェルター、ガレージ、クアトロ、AX、リキッドルームなどのライブハウスに行き、テレビで見ていたスクランブル交差点を渡り、Twitterで知り合った音楽好きの人と会う日々は、本当に楽しく刺激的だった。


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2011年〜2014年の3年間は色んなライブに心の拠り所を求めていた。


この刺激的な生活と退屈な仕事の繰り返しは、自分のやりたいことをやろうという気持ちを加速させた。また、震災や祖父の死という、生死という人生の終わりを身近に感じた時期も、そのやりたいことをやるという思いを加速させた。

やりたいことをやろうという決意は、クリエイターになろうという方向に向かっていく。

進学:デザイン専門学校

出て行きたくてしょうがなかった地元・福島がクリエイターになろうと思い立った原点だ。

2007年、地元の新聞「福島民報」の創刊115周年記念特集号として、『風とロックと福島民報〜207万人の天才。』というものが掲載され、そこで知ったのが、クリエイティブディレクターの箭内道彦さんという存在。
箭内さんが訴えていた"福島が嫌い"というワードと、嫌いといいつつ地元の新聞社の記念事業を手掛ける矛盾。猪苗代湖をバック撮られたサンボマスターの山口さんの写真のカッコよさに、当時中3の田舎の少年は衝撃を受けた。

その後、2009年に、箭内さんと福島民報は、郡山で『207万人の天才。風とロックFES 福島』というロックフェスを開催した。 
自分も、当時にそのフェスに参加し、ここまで心を揺さぶり、楽しくも、地元に対して愛憎半ばする強いメッセージを送る箭内さんへの憧れを抱いた。

箭内さんは、2011年の震災以降、猪苗代湖ズというバンドを結成し、福島に対する想いを歌にして応援したり、LIVE福島という震災の傷が癒えぬ福島の6ヶ所でフェスを開催したりなど、福島を広告する活動をした。

そんな箭内さんの活動や手掛ける広告やCMを見て、広告ってめっちゃ面白そうじゃん。なにかを作り、多くの人に見てもらえるって尊いことだなと思うようになった。

箭内さんが手掛けた広告で一番好きなゼクシィのCM


箭内さんのようなクリエイティブディレクターという人になるには?と色々と調べると、デザインというものを勉強して、デザイナー → アートディレクターになれば、その道に進める。広告という多くの人へメッセージを発信できる人になれるという結論に至り、仕事を辞めデザインの専門学校に進学することを決意した。


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また、2011年に岡本太郎という人物に出会ったこともその道に進むことを後押しした。
上京する前の2月に、岡本太郎の生涯を描いた「TAROの塔」というドラマを見た。破天荒かつ、困難な道を自ら選び進んできた岡本太郎の姿を知り、なぜかとても惹き込まれた。
そんな太郎さんの展覧会をやっているということを知り、上京したてで行ったのが「生誕100年 岡本太郎展」という展覧会。太郎さんの力強い絵画、彫刻作品、肉声と言葉たち。展示からは、自分で決意して生きろ。困難な道を選び進んでいけ。そんなメッセージが伝わってきた。

箭内さんと太郎さん、そのふたりの影響を受けた当時20歳だった自分は、2年制のグラフィックデザイン専門学校へ進学。
3年制などの学校も検討していたが20歳で進学すると、卒業時には4年制大学へストレートで入学した人と同じ22歳のタイミングで卒業、社会に出れると考えたのがその学校へ進学した決め手だった。

入学した専門学校は、水道橋と御茶ノ水の中間、中央総武線から見える場所にある。
20歳で入学したが、周りは高卒の18歳の子たちばかり。最初はそのギャップなどもあったが、そこは2歳しか違わないし、周りにも大卒や社会人を経験して入学した人もいて、溝みたいなものはすぐ埋まっていった。
年齢関係なく評価、批評される環境はよかったと今になってみれば思う。

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こんなものを1年生の後半に課題で作っていた。電車の中吊り広告。なんの運命か本屋のブランディングデザインをしていた。

自分で言うのはあれだが、そこそこ優秀で、アウトプットもしっかりしていた生徒だった。
また、根っからのディグり癖が影響してか、グラフィックやアート、写真などの展示に足繁く通った。展覧会のトークイベントがあれば行き、有名デザイナーの話を聞き、質問するような学生時代を過ごしていた。俗に言う"意識高い系"だったのかもしれない。

その"意識高い系"みたいなやつは、学校外へ出て行こうという意識へ変化させていった。専門学生は、大学のようなインカレサークルなどはなく、学校内で繋がるというのが精一杯。

そんな状況が嫌になり、マンネリになりかけていた学生生活を打破すべく、運営として入ったのが「my Japan」という団体だった。
CMコンテストを主催し、学生や社会人から日本の魅力の発信をテーマに30秒の映像を募集するということをしていた。
入った理由は簡単で、箭内さん審査員をしていたから。

運営として入ってみると専門学生は自分ひとり。周りは俗にいうMARCHのような有名私大の子たちばかり。
勉強から逃げて、高卒で働いて、専門学生になった自分にとってはなかなか衝撃的な環境だった。高校時代にいなかった学力や環境の同年代の人たち、OB、OGは起業したり、広告代理店や大手ITベンチャーに就職している。
まったく知らない世界に来た感じ。そのまま専門学校で過ごしていたら交わらない人たちと交れた。

その団体で運営をしていく中で痛感したのが、東京は自分自身が行動、アクションを起こせば、どんな環境にも身を置けるということだった。

地元・郡山市のトップの進学校でも、毎年20名程度しか進学していない大学の子とフラットな関係を築き、仲良くなっていく。一緒に仕事をしていく。学歴や生まれ育ちの溝を、自分の力で、行動力で埋めれるのは、東京のような大都市でしかあり得ない。このような学生主体の団体も東京でしか生まれない。

my Japanでは、デザイン系の学生であることを活かして、ポスターなどの広報物一式をデザインを担当し、デザインオタク、広告オタクの知識を活かした参加者のサポートもしていた。
成果物や知識、働きを正当に評価してもらえる環境は、高校3年間で失われた自尊心を満たしてくれた。

my Japan以外にも、箭内道彦botという箭内さんの言葉を集めたbotを作ったことをきっかけに箭内さんの事務所で短期だがインターンをさせていただいた。在学中にデザイン事務所でバイトもし、充実した2年間を過ごした。

大好きな箭内さんの事務所でインターンさせていただいた経験は、本当に貴重だった。先述にもある通り、アクションはちゃんと実を結ぶということ、会いたいと思った人にその気になれば会えちゃうという、東京の凄さを実感した経験だ。

展覧会期間中にインターンとしてお手伝させていただていた。

就活失敗・就職:グラフィックデザイナー

充実した専門学生だったが、その後がなんともうまくいかない。
充実しすぎていたが故に、就活に力を入れず、その楽しい時間をただ過ごしただけ。俺は出来るぞという謎の自信とプライド、会社など高望みしすぎたせいで、卒業までに就職できなかった。
デザイナー職は、新卒だけではないため、焦りもしていなかったのは駄目だったなといま振り返ると思う。

その後は、細々と知り合いから仕事をもらい、my Japanの活動をサポートし、業務委託でデザイン事務所働くなど、不安定な日々が卒業後1年半くらい続いた。高校以来の第2次闇の時代になりかけ、追い打ちをかけるようにまともな会社かと思い就職した先がデザイナーとエンジニアの派遣会社で、給与形態も職務内容も求人や面接で聞いていたこととは違く、お金の面、メンタルの面でやられていた。

そんな中、派遣された外資系ネット広告代理店の人に良くしてもらい、その会社にインハウスデザイナーとして引き抜かれ、安定した生活を送ることができた。不幸中の幸いというか、いい人たちに巡り会えたと今でも思っている。
副業もOKな雇用にしてもらい、平日昼は会社、夜と休日は自宅で別のデザイン業という忙しい日々を送った。

忙しい日々を送る中で、同世代のクリエイターがどんどん有名になり、専門学校時代の数年上の先輩が賞を受賞、同級生が大手企業の広告をデザインしたりしていくのをSNSで目の当たりにし、気付かないフリをしていた自分自身の実力や才能の無さを確証に変えてしまった。

学校卒業後3年間、そこそこデザインはできるけど、そこそこの域を超える訳じゃない。別に大手企業や広告代理店の案件をこなしている訳でもない。賞に応募できるようなものも作ってない。誰かの役には立っているが、世の中の多くの人に見てもらえるものも作ってない。

「あれ俺ってデザイナー向いてないんじゃない?」
「なんのためにクリエイターを目指したんだ?」
ということに気付いてしまった。

このデザイナーに向いていないという気付きは、本職としてのデザイナーを辞めるという決断をさせた。

働いていたネット広告代理店も、良くしていただいた方が次々に退職し、組織変更で上長も変わったので、デザイナーを辞める、退職するという決断にいいタイミングだった。

転職:書店員になる

デザイナーじゃないことをしよう!と思ったが、デザインは大好きだし、デザインの知識はそこらへんの人よりはあると思っている。
そんな知識があるからこそ、できる仕事、デザインする人を支援するような仕事、自分がいいなと思うクリエイティブを作る人を多くの人に知ってもらう、意外と知らないデザイナーやクリエイターを知ってもらうことをしようと考えた。

途中は、ギャラリースタッフやクリエイティブエージェンシーのマネージャー、編集者のようなことを考えていたが、昔から抱いていた地元で本屋さんをやりたいという気持ちが様々な方向を考える中で強まっていった。

色々と考えに考えて、入社したのは現在の書店だ。
アルバイトとして入社。デザイン業を主たる収入源として、書店員を副業としてやっていた。当初は夜勤として働き、朝に帰り、昼に起き4、5時間デザイン業をするというサイクルをしていた。まあ、これが辛くて辛くてしょうがなかった。
デザイナーをやる気は減っていたから、この生活が続くわけもなく、半年後くらいには書店員一本に絞って仕事をし始め、この頃から色々とお店での仕事を任されるようになった。

年代やジャンルなどテーマを決め、古書を販売する企画や好きなクリエイターが経営してしているお店のフェア、好きなイラストレーターの展示と作品集の販売など、アルバイトながら自由に仕事をさせてもらった。
もちろん、予算や売上などのお金、数字はついてまわるが、好きなことをして、好きなものや人、本を紹介して、お金をもらえるなんて夢のような仕事だ。

いままで培ってきた、高校時代の建築学科の知識、クリーニング屋で覚えたブランド名とファッションの知識、専門学校時代のデザインの知識、my Japanで得た、イベント運営経験と広告、SNSの知識、足繁く通った美術館やギャラリーで得たアートや写真の知識、このすべてが繋がって、現在の書店員としてのスキルセットになっている。

大変なことばかりだし、やること多いし、書店員の給料低すぎだし、そんな環境ではあるけど、人生の中で1番やりがいと楽しさを感じている仕事だ。
デザイナー時代も多くの人と会ってきていたが、書店員になり今の職場で働くようになってからはさらに多くの人と出会い、深い関係を築けている。

自分は、もちろん本が好きだが、本だけが好きというよりは、本とその周辺のカルチャー、本屋という場が好きで、本屋で働いている。だから書店員が向いているのかもしれない。
本とほどよい距離を保ちつつ、自分の培ってきた知識と経験を売り場に落とし込みながら、クリエイターのための支援、いいクリエイティブ、いい本、いい商品を世の中に伝えることを今後もしていきたい。

4月より脱バイト。社員として腰を据えて書店員をやります。


東京、10年目。

地元では、あの頃(中高時代)の、勉強できないアイツ、スポーツできないアイツ、不良のアイツ、陰キャなアイツ… そんな周りの目や記憶によりあの頃という型に押し込められ、あの頃の自分かからまったく抜けだすことができない。
でも、東京では、過去の型にはめれた自分をリセットし、本来の自分を取り戻し、フラットに色んな人と関係を築き、再起することができる。
過去の周りに決めつけられた自分ではなく、元々持ち合わせていながらも決めつけによって出せなかった自分を、東京は出すように後押ししてくれる。

2010年代は地方創生、2020年になってからはアフターコロナ、ウィズコロナという盛り上がりによって脱東京、脱大都市が叫ばれているが、地元福島にて10年間で出会うであろう10倍以上の人と東京で出会い、その東京での出会いをきっかけに様々な地域で様々な人と出会い、尊敬するクリエイターの元でインターンながら働くことができ、地元で出会えるであろう何十倍もの知識と経験とチャンスを東京は与えてくれた。

男らしさ、女らしさ、ジェンダー、LGBT、家族の在り方、ルッキズム、貧困、経済格差、文化資本格差などなど、地元にいたら何も気付けなかっただろうし、旧来的な価値観に囚われていたんじゃないのかなって思ってる。長男は、男子たるものは、色々と渦巻く謎の伝統。
東京は、常に思考のアップデートをしなきゃいけない面倒な環境ではある。でもその反面、面倒でさえ楽しいと思えてしまう、エンタテインメントやクリエイティブに昇華できるのが、東京という場所だ。


ぼくは、10年経っても東京が大好きです。


東京と縁を切らず、何かしら東京と繋がりや居場所をもって、地元に本屋を作る方法がないかを模索していきたいと思う。



東京をテーマに考えたナガサワケンタのプレイリスト

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