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神話の社会的意義

かくして人は「嘘」が大好きだ。お世辞や社交辞令など礼儀としてつく嘘や、恋人や友達、飲みの席などでの相手を喜ばせるような嘘など、社会では様々な嘘が蔓延っている。正直、人間社会は嘘をなくして、生きていくことなどはできやしない。かつて、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、人間社会は太古より「虚構」によって成立した、と供述した。あながちこの主張は間違ってはない。

現在では、嘘を現実のように見せることなども技術によって可能となった。しかし僕がここで考えていきたいのは、嘘を現実に見せる方法などではない。そうではなくて、「なぜ人間は嘘と分かっていてもそれに縋ろうとするのか」という命題である。世の中には嘘が飛び交っているのだが、なぜ人は嘘とわかっていても、それに夢中になるのだろうか。

では、人が嘘と分かっていても夢中になるのは何であろうか。それは、「神話」という物語である。

「神話」は確かに、一種の「虚構」だ。しかし、太古の昔から人間は、この神話という作り話に夢中になり、2000年近くにかけて語り継がれてきた。これだけの年数を通じて語り継がれてきているのだから、人間がそれに夢中になるのにはなんらかの背景があるのだろう。今日は簡単に、神話がどこから生まれたのか、を基にこの背景について考えてみたい。

・神話の起源と崇拝の誕生

数千年前からイエスキリストの誕生やアダムとイブの物語など、人は長らく非現実的な物語を生み出してきた。またそれに通じて、人間は宗教なども生み出してきた。僕はこの神話の起源を考える上で、宗教の誕生は切り離しのできないお話しだと思っている。

かつて、社会学者のデュルケームは『宗教生活の原初形態』のなかで、人間の宗教の根本的な原始諸形態は「トーテム」であると主張した。「トーテム」が何であるかについては、私の過去のnote記事を参考にされたい。
https://note.com/ken311/n/n2dfb97bef12c

トーテムが、初期の宗教の一端を担ったというのであれば、それは自然崇拝や動物崇拝ということになるのだが、こういう宗教崇拝の起源がどこにあるのであろうか。

よく古代の社会では、女性のことを「月」に喩えたり、男性のことを「トラ」に喩える風潮があったという。元々は、この月やトラという表現は、あくまで「月のような女性」「トラのような男性」など、男女を修飾する形容詞的用法として捉えられてきた。

しかし、太古の人間がこれを比喩ではなく文字通りの意味で取ることがあった。「月ような女性」ではなく「月=女性」であり、「トラのような男性」ではなく「トラ=男性」である。このような解釈法により、様々なものや人間に名前をつけるようになり、その異名を持った、物や人間が同一視され、それにまつわる物語が様々なところから出てくるようになる。

つまり、崇拝は「言語の思考的錯誤」から生じたものなのだ。このような錯誤で、生まれた神話や神話的崇拝は、やがて人間の生活や社会の表現としても使われるようになるのである。

・感情表現としての神話

人間は、感情を様々なところで表現しながら生きている。しかし、人間は感情そのものがなぜ生じるのかという問題を理解はできていない。感情が生じる理由については、諸説があるのだが、心理学者のWジェームズとCランゲが面白いことを言っている。彼らに言わせれば、感情というのは運動の次に来るのだという。つまり、人間は悲しいから泣くのではなく、「泣くから悲しい」のであり、怖いから逃げるのではなく「逃げるから怖い」のである。(僕はこの仮説が絶対に正しいというつもりはない)。

人間の感情表現においては、様々な仕方があるのだが、この仮説が唱えられて以来もしくはそれ以前には、人は感情表現の仕方にとても興味を抱くようになった。この感情表現の方法として、考えうるのがいわゆる神話や、祭儀といた類であろう。

祭儀や神話を通じて、経験した感情を表すようになった。祭儀や神話のなかで、人間は、深い社会的願望や衝動に駆られて行動するようになり、その結果一つの感情を生み出す。つまり、祭儀や神話というのは、感情を客観化できる機能を持ち合わせているのであろう。

・名前をつける行為

このように感情を表現することによる神話や宗教という働きがけの根本的作用により、人間は、様々なものや人に名前をつけ、それに対して情動を表現するようになった。例えば、幼い女の子がリカちゃん人形に全く関係のない女の子の名前をつけてあたかあも自分が母親になったかのうように愛情を表現する。

宗教や神話の世界でも、ものや自然に名前を与えそこに生命を見つけて、それらに対して感情を抱いたり表現をしたりする。

人間が神話や宗教に夢中になるのは、こうした人間が感情を表現することに対しての根本機能が神話にあるからであり、神話いわゆる「虚構」は、人間の感情表現を助けるものであるのかもしれない。

では、人間が死んだ時、その死を表現するのは神話で可能なのか、という命題も生じるが、改めて別の雑記で考えてみることとしよう。



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