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山下洋歌集『屋根にのぼる』


あしたから生まれ変わるという少女 そんな焦らんかてええねんで

 生徒に「焦らんかてええ」と声をかけられる先生は、いま、どれくらいいるのだろう。生徒指導の目的が反省の言葉を引き出すことだけならば、「生まれ変わります」と言われたとき、多くの先生は「そうか。よし、がんばれよ」とでも答えてしまうのではないか。
 しかし山下さんは殊勝な言葉の裏に「焦り」を見出し、いたわりの声をかける。「そんな焦らんかてええねんで」と。

〈スピード〉を〈偏差値〉に読み換えてみよ事故は他業種のことにはあらず
 周囲に遅れをとってはいけないというプレッシャーは、ほとんど強迫観念のように思春期の子どもを焦らせている。そのあやうさを山下さんはよく知っているから、成績を伸ばした生徒を手放しで喜ぶことはしない。
 焦ってスピードを出しすぎてはいないか。山下さんは、そのように生徒を見ている先生なのだ。

『屋根にのぼる』は、『たこやき』『オリオンの横顔』に続く山下さんの十年ぶりとなる第三歌集である。タイトルは、結社誌「塔」の校正や発送作業を行っていた古賀泰子さんのご自宅で、屋根にのぼって柘榴をとった在りし日の思い出に由来する。
 第Ⅰ章と第Ⅲ章は月詠を中心とした小連作、第Ⅱ章は「塔」二〇〇八年の「作品連載」に掲載された六つの連作からなる。第Ⅱ章の連作「忘れ水」から、五首ほど引用してみたい。

雛の肌火影に白し四月にはふたりになってしまうこの家
跨線橋ふいにあらわれ早春の単線軌条たちまちに越ゆ

 子どもがもうすぐ、家を出る。そんな春の落ち着かない日々を反映したのか、一連には様々に流れる「時間」が描かれる。
 上の二首は、初句の助詞抜きや二句切れなど、歌の構造はよく似ているのに、そこに流れる時間の感覚は対照的だ。一首目は「雛」「肌」「火影」とハ行の重なりが、ほの暗い静謐さを感じさせる。二首目は「跨線橋」「単線軌条」という漢語のリズムが、明るく伸びやかなスピード感をもたらしている。

『アデン・アラビア』冒頭がなぜ蘇る五十五歳の誕生日来て
 小説『アデン・アラビア』の冒頭は「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」というものだ。二十歳といえば、山下さんは京大短歌会で工藤大悟らと歌作に励んでいた頃だろうか。人生の「美しさ」をめぐる問いが浮かび上がる。

落花掃く箒の音が朝の街のどこからかするいつまでもする
 落花は過ぎ去った時間の象徴だが、その儚さが引き伸ばされていくような、不思議な感覚が詠まれている。
 そして、連作の最後を飾る、次の歌。

いつの春いずこの野辺か菜の花のさなかに光る忘れ水見き
 記憶の風景を流れる「忘れ水」の美しさは、どうだろう。いつ、どこで見た光景か思い出せないからこそ、いっそうあざやかに輝き続ける。心に残しておきたい歌だ、と思う。

 歌集を読んでいくと印象に残るのが、口語というか、関西弁混じりの、ゆったりとした文体である。軽やかで、気負いがないようで、しかし定型を意識して言葉が選ばれていることに注目したい。
 ここまで引いた歌を読み返すと「そんな焦らん/かてええねんで」「ふたりになって/しまうこの家」というように、句またがりをしながら一首がきっちり定型に収まっていることがわかる。
 もっとすごいアクロバットのような句またがりの歌もある。

「成長しなくては」などと思わなくてもいいんだよ 椿が赤い
 同じように句またがりに着目すれば「成長し/なくてはなどと/思わなく/てもいいんだよ/椿が赤い」と読むことができる。口語が定型のリズムに乗って、心地よく走っていく。
 口語短歌の句またがりといえば若手歌人の作風というイメージがあるかもしれないけれど、山下さんはすでに多くの作品で、それを試みていたのだと気づく。 

 来た道を振り返るとき、僕たちは「歩き続けてきた」とも言うし、「走り続けてきた」と言いたくなるときもある。短歌でたとえれば、身辺詠は歩くこと、新しい表現への挑戦が走ることだろうか。山下さんの歌集は、なによりもまず着実な歩みの積み重ねであり、そしてそこには、走ることで培われた力の裏打ちがある。
 その道のりは、言うまでもなく「塔」の歌友と伴走してきた、およそ四十年の時間そのものに他ならない。彼らの手によって、これから本歌集の優れた批評が書かれることを楽しみに待ちたい。

実を採ると屋根に登りし日のありき かの柘榴にも花咲く頃ぞ

(青磁社・2017年)

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三年前、結社誌「塔」に書かせていただいた書評です。結社とともに歩んだ時間の豊かさがしのばれます。僕もどこかに入っていたら、実りある結社ライフが送れていたのでしょうか…(問題発言)。

■山下洋『屋根にのぼる』(青磁社通信)
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/seijisya_tsuushin/seijisya_tsuushin_030.html#yaneninoboru

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