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紫色の関係 | あじさい

「この写真の紫陽花、本当に綺麗。紫陽花の色、青も紫も大好きすぎて、毎日見ていたい…!」

彼女からのメッセージが飛んできた。

私も紫陽花が好きだ。

でもなんでそんなに惹かれるのだろうか。その夜はなぜかすぐに寝付けなくて、窓を開けて考えた。
蛙が大合唱している。湿気をたっぷり含んだ空気、でも夜になって少し冷やされたそれは、肌にまとわりついても案外気持ち悪くはない。

私は考えた末に、もう一度写真を見て、答えた。

「一つの花びらの中にいろんな色の絵の具を不完全に混ぜたあの曖昧な感じがいいよね」


すると梅雨明けが近いある日、
梅雨のない土地に住む、紫陽花好きな彼女から小包が届いた。


中を見ると、
紫陽花の生花をレジンで閉じ込めたハンドメイドのイヤリング、
ちょっと分厚めの封筒を添えて。


その分厚めの封筒から折り畳まれた紙の重なりを取り出す。
そこには紫陽花について、彼女が仕入れた情報が書かれていた。

・紫陽花は「あづさい(集真藍)」…藍色が集まったもの、が起源である説があること
・英名は「Hydrangea」で、ギリシャ語の「水の器」が語源であること
・育つ土の性質で色が変わるみたいで酸性の強い日本では青〜青紫、アルカリ性の強いヨーロッパではピンク〜赤紫が多いということ

まるで、花の図鑑の1ページを読んでいるようだった。とても、彼女らしいと思った。


私たちが出会った場所も、不完全に混ざり合う場所だった。
全国のいろんな場所から、いろんな背景を持った人が集まってくる大学、
文系とも、理系とも取れる学問を学ぶ教室で。

私が青に近い紫陽花だとしたら、彼女は赤に近い紫陽花だ。
お互い似ているようで、どこか違って。
でも離れていても、分かり合えているような。

その手紙は、「紫陽花図鑑」の記述だけではなかった。

彼女の近況もあわせて書かれていた。
彼女の地元の旧友が自身の人生を見つめる機会に直面したそうで(幸運にも大事には至らなかったけど)、そのことを語りながら考えた、生きることについて。「表現」することについて。

「表現」と言っても、そんなたいそうな作品を作る、とかではなく、“今この時の自分にしかできないほんの些細なアウトプット”という意味での、表現。

彼女たちの、「表現」に対する考察は、こうだった。

内側にとどまっているものを外に出すだけで、
誰かの気持ちと一瞬でも接点が生まれて、
その響き合いが跳ね返って、自分の存在を確かにしてくれる


その時の私は、すでにこれまでの自分の人生に飽き飽きしていて
何かを表現したくて、でもどうしたらいいかわからなくて、
彼女だけには、そのもどかしい気持ちを伝えていた。

まるでその闇の中に、星を散りばめるように、こう続いていた。

人生には限りがあって、だからこそ、
やってみたい、こう思う、これが好きっていうのを
内に秘めたままじゃダメだんだなって


最後に、「あなたは表現するべき人だよ」のひとこと。


心が枯れそうになった時、私はこの言葉をいつも思い出す。
心に水やりをする。心を自由にする。
小さくても、表現をする。



レジンに閉じ込められた紫陽花は、実は時間が経って、色あせてしまった。色あせたイヤリングを見つけた時、少し寂しい気持ちもあったけど、これがありのままの姿だから、むしろいいな、と思い直した。


「いつまでも色あせない思い出」なんて聞こえがいいけれど、そうであってほしいと願うけれど。
願うばかりに、私たちはいつも、その朧げな、不完全で曖昧なものを、時には勝手に飾りをつけて解釈しようとする。ある時には、でこぼこな出来事を丹念につるりと磨き上げて納得しようとする、自分たちが都合のいいように。
「色あせない」を追い求めることは、本当にそこにあったものを見失うこと、なのかもしれない。


あの時ほど、お互いの人生が色濃く混ざり合うことはきっとこの先もうないのだろう。色あせる一方だ。私の部屋の箱に眠るイヤリングの紫陽花みたいに。7月になって色を失っても枝にとどまり続ける紫陽花みたいに。


だけど、少しずつ輪郭が柔らかくなる少し遠い日々の記憶ー 彼女と同じ土地で過ごした季節も、表現の接点が生まれた瞬間も、淡く、淡く、どこまでも不完全なもののままで、曖昧なままであってほしい。そう、願う。


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梅雨の季節に、青と赤が混ざり合った紫色の紫陽花を見ると、私の頬は少し緩む。

たとえ雨が降っていようとも。


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