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感覚の不得手/2月16日

帰り道の途中にある大きなため池からバタバタバタと水面を叩く音と、鳥が短く鳴く声が聞こえてきた。夜の帰り道、視覚で捉える情報は少なく、その音に、確かに聴覚が反応した。

耳のみから情報を、というか「言語情報」を入れることに、昔から、どうも苦手意識がある。
聴力に問題がある、というのとはまた違って、聴覚から得る言語情報を処理するのに時間がかかる、みたいな感じだ。

さかのぼれば小学生の時、電話があまり好きではなかった。友達と遊びたい、でも電話をかけて約束しなければ遊べない、の葛藤で、電話をかけない方を選択した自分がいた、そんな記憶がある。
その「好きではない」の理由を分解していくと、幼いながらに耳に届く音だけで、100パーセントの情報を拾い、それを脳に届けて、判断して、自分の口から言いたいことを絞り出す、というひとつづきの作業に、苦手意識があったのではないかと思う。

その後、私が育った時代は、(運よく)テキスト・ビジュアル文化の最盛期に突入した。インターネットの情報のほとんどは視覚から。「携帯電話」と言いながら、電話の機能よりもメールのやりとりが大半を占める。「Re:Re:Re:Re:…」が連なる、あの人とのやりとりが懐かしい。
それは「携帯電話」から「スマートフォン」へ進化し、視覚で捉える情報量は圧倒的に増え、精彩さも一層高まった。
もはや、人が視覚で求めている情報の量と、与え続けられるテキスト・ビジュアルの量は、バランスを保てていない。

では視覚がいっぱいならば、次は聴覚だ、と言わんばかりに「Clubhouse」という音声版SNSが登場した。どうやら、すごいムーブメントらしいぞ、というのはなんとなく察しているが、どうもそこに飛び込めない私。

私にとって「耳からのみ入れる情報」の中の例外は、音楽だ。音楽なら、聞けるし、聴ける。
音楽が、他の音声情報と異なるのは、そこにある「情報の少なさ」なのかもしれない。
電話やラジオは「言語情報」が主であり、常に音に「意味」が伴う。「意味」があると、それを勝手に理解しようとして、脳を回転させなければ気が済まなくなる。
一方で音楽は、「歌詞」に意味はあっても、それは楽器と同じような「音」の一部にもなりうるし、「言語情報」ほどの強い明確な意味を持たない。心地よく、一定のリズムを刻み、ストンと頭に、身体に入ってくる。


「Clubhouse」、やってみればいいのはわかっているけど、すぐにほったらかしそうな未来が見えてしまって、手をつけられないでいる。
もうちょっと気長に、みんなの様子を、この目で眺めよう。
そんな私は、視覚派。目を養って生きていきたい。

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