アダルトチルドレン的「親の背中を見て子は育つ」
こんにちは!
ケミオです。
「親の背中を見て子は育つ」という格言があります。
格言となるからには、広く長きにわたり、間違いないこととして共有されてきたのでしょう。
アダルトチルドレンの私からしても、その通りだと思います。
わかるんです。
子どもの頃は、言語化できなくても。
親が家の外では、ビクビク怯えているのが。
また、それが家では一転するのが。
ビクビク怯えている親と一緒に、他人と対面させられた私はどうなるか。
「できない子」にさせられてしまうんです。
「この子の教育がなってないのは、私のせいなんです。申し訳ありません」
親は口で何を言おうと、そんなことを言いたげな態度は見え見えでした。
それは、親自身が拭い去れない、根本的な劣等感だったり自身の無さの表れに、他なりません。
言わば私は、その証拠にさせられる。
親の信念を補強する材料にされてしまう、とも言えると思います。
そういう時の親に、現実の私は見えていないはずです。
自分しか、見えていないでしょう。
一方で、それが家のスタンダードになったことで、私もその通りになってしまいました。
「この家はみっともなくて、そこに生まれた私も出来損ないの人間」ということです。
私は言葉やおまじないみたいなもので、直接洗脳されたわけではありません。
しかし、親の背中を見て、間接的に洗脳されたとは言えそうです。
また、そんな親は、家にいると一転、劣等感から目を背けられるからでしょう。
自分の主張ばかりを通そうとしました。
「ここは私の家。だからみんな同じ(もしくはそれ以下)」ということです。
そこで家でも、私は同じにさせられてしまうわけです。
この状態もまたスタンダードになっていて、かつそれを維持するには。
私が成長して、自信をつけるようなことがあってはいけないのでした。
そこには、私のケアテイカー的役割があったとも言えます。
親の背中を見ては、自らは成長しないことで、また自信をつけないことで、私は親のケアをしていた…。
ケアテイカー的役割について補足すれば、私は表面上は全くできていませんでした(ケアテイカー「的」と書いたのも、その点を考えてのことです)。
そんな親の言うことなど聞きたくなくて、毎日のように喧嘩をしていた。
しかしどうあれ、親の気持ちについては敏感でした。
喧嘩をしたり嫌な思いはしたくありませんから、それこそ、いつも見張っていなければならなかった。
そのあたりは、同じ「親の背中を見て」でも、アダルトチルドレンと無縁な人に比て、よ~く見ていたかもしれません。
このこと自体、今さらどうしようもないのはわかっています。
ただ、腹は立ちます。
訴えることはしませんし、訴えたところでどうにもならない。
自分がそう思うならそうで、仕方がないと思うところです。
そして一方では、べつに同じでいる必要なんかまるでない。
そこは堂々と、我が道を…。
以上は、アダルトチルドレンと家庭についての、個人的体験のまとめになります。
どこかでやろうと思っていたことでした。
最後に不快な気持ちになられたら申し訳ありませんでしたが、読んでいただいてありがとうございます。
今日も残り一日、良い一日をお過ごしください!
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