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舞台「泡沫の空に光を飛ばした」感想

オシャレなシネコンや綺麗な映画館では絶対にかからない物語。こういうのを観に舞台に行ってる。この世の光の当たらない部分で、その他大勢の1人として、這いつくばるように生きてる人たちの物語。
まやかしのハッピーエンドとか、都会の真ん中で恵まれた家庭に育ったJKの話とかいらないんだよ。頭ン中お花畑みたいな作品見ると、あれ自分が変なのかなって不安になるけど、ちゃんとこの世が地獄だと目を逸らさずに言ってくれる作品が好きで、自分だけがおかしいんじゃないことを確かめるためにいつも探してるし自分でも書く。この世が地獄だとわかっていながら、それでも生きたい自分がいるからのたうち回って生きる物語。

唯ちゃんとチカちゃんが正反対で印象的だった。
唯ちゃんもチカちゃんも、妄想の世界に逃げる子だけど、違いは、唯ちゃんは「書く」子で、チカちゃんは「見る」子であること。
物語を書くって、単なる逃げではなくて、必ずどこかに「こうだったらいいな」という思いがこもってるもの。少なくとも自分はそう。必ずしも自分を投影したキャラである必要はなくて、自分の生きてみたい世界を書いてる、というか。
その唯ちゃんが、「私たちのことを書く」というのはまさしく、「毬井くんの生きるこの世界を肯定したい」ってことで。現実逃避して、妄想の中で理想を叶える手段だった「小説」の世界と、地獄である「現実」の世界、決して交わらないはずのこの2つの世界を敢えて交錯させる、それはつまり、地獄のような現実を、自分の手の中に収め直すことで、現実を「地獄」ではなく、「生きてみたい世界」…とまではいかなくとも、「生きていてもいいかなと思える世界」として捉え直す作業であって。だから応援したくなったし、別にみんなが嫌なら出版はしなくてもいいんじゃないかと思った。この地獄を平和ボケしてる世の中に示すことにももちろん意味があるけど、これは唯ちゃんたちがこの世界をどうにか肯定に近づけていく作業だから。

一方のチカちゃんは、ただ夢を見て逃げてるだけで、地獄とは向き合ってなくて。毬井くんのヒーロー像に縋ってるだけで、そこにあった苦悩とかには実は向き合ってくれてないんですよね。女の子は自分を想ってくれる男を選ぶのが幸せ、だなんて昭和のステレオタイプで語りたくはないけど、男女問わず自分を思ってくれる人が近くにいるなら大事にしたらええやん。それを、夢の世界に逃げるばかりだったから、近くにいる譲くんの思いにも気づかなかったわけで。
いや、気づいてるんだよなあれは。譲くんに映画一緒に見ようって言って、隣で寝るとか。気づいてるのに、鞠井くんが現れると、その夢の続きを見ようとする。唯ちゃんが「死にたがりの強がり」なら、チカちゃんはもうストレートに弱い子だった。現実と向き合う力がなかった。「一緒に殺したと思ってる」ってのも、罪の意識に向き合ってって言うより、毬井くんと一緒、っていう夢を見てたんだよね。というか冒頭のシーンでは、男子が林先生に飛び掛かってて、女子2人はそこに関しては何もしてなかったはずだし。
でもラストでは、おそらく結婚して?妊娠5か月なわけで。彼女なりに、ヒーロー毬井くんという夢から醒めることができたのかなあ。

鈴子ちゃんはなあ…彼女も被害者で、かわいそうではあるけど、でも。
確かに、父が死んでから地獄を味わったかもしれない。でも、あなたにその地獄を味あわせたのは、鞠井くん本人じゃないよね?父が死んだとき周りにいた人とか、もっと言えば、この社会そのもの、でしょ?毬井くんは関係ないじゃん、極論、事故死とかでも同じだったわけでしょ??
それを鞠井くんのせいだ、と思って復讐に縋ることだけが、彼女の生きる術だったのはわかるけど。でも、唯ちゃんの前で同じこと言えるか??消えない傷を一生背負って生きている彼女の目の前で???
最後、裁判なのかな、そこで復讐の失敗を悔いる鈴子ちゃんは、まだそこに囚われてて、救われてないんだなと感じた。いや違うな、そこに囚われていないと、それこそ彼女は生きる意味を見失ってしまうのかもしれない。恨みだけが彼女の生きる原動力たりえるのかも。毬井くん一人を恨むことで、この世のその他の部分を肯定できるのなら、それも手段としてアリなのかなあ。賛成はできないけど理解はできる。

もう全部、この社会が根本的に地獄だから、ってことに行き着く。
父親ひとり死んだだけで生きづらくなることもそう。
親ガチャが外れだっただけで、あんな閉鎖的で暴力がまかり通る空間に閉じ込められなければならないことも。
林先生については完全な悪だし、何かの被害者だとか言うつもりは全くないけど、あの場所の仕組みが何か一つ違えばああはならなかった。でも現実に、この世のどこにだって地獄が転がってる。

最後。唯ちゃんが毬井くんに語って聞かせた物語は、まさしく毬井くんの「こうだったらいいな」を叶えてあげたものなんですね。しかも地味に「次回作は青春もの」もしっかり叶えているという。書けるん、って言われてたけど、書けたんですよ。
序盤でみんなが制服で出てきたときは、存在しない思い出、架空の妄想、って思ってたけど。
最後の制服姿は、毬井くんの夢が叶った世界。もちろんこれも妄想、と言われてしまえばそれまでかもしれないけど、でも、唯ちゃんが語っている瞬間だけは、二人の間では確かにそれは「現実」として立ち現れる。
ここで演劇の力なんですよね。映画とかでここで妄想実現シーンをやっても、なんか興醒めというか、妄想は妄想だなって感じにしかならない気がする。でも舞台だからこそ、時間も空間も曖昧に語れて、夢を「現実」として演じることができる。そう、まさしく、実際に知り合った茶谷兄妹とかに、夢の中で「演じさせて」いるわけだし。二重の演技の構造になっている。
あの大縄跳びは毎回、続くまでやってるのかな!?49回続いてみんなすごい(笑)

らんくんのお芝居はやっぱりすごかった。序盤、行き倒れるシーンで、雨が降っていて過去を思い出すような瞬間。最前列席が取れてスピーカーの真ん前で、雨音のエフェクトがダイレクトに聞こえてたのもあってか、空を見上げたときのらんくんの周りに、雨の線が見えるような気がした。
あとはヨゼフ3世と、お互いの素をふと見せあう瞬間…。それまでも、幼馴染たちと笑ってるシーンとかで十分に素を見せてるようにも感じられるんだけど、ここのもう一段階内側の素の部分を取っておいてたんだ、というその演技プランがもう。このシーンがあることで、その前の飲み会とかの印象もガラッと変わる。そうだった、この人は「終わるために」来ていたんだ、って思い出させられる。

(追記)
しかし最後、鞠井くんは幸せなんだろうか。唯ちゃんは幸せなんだろうか。鞠井くんは、あの状態になって、自分の罪を覚えているのだろうか。
自分は、残酷だけど、鞠井くんには殺し方の一つ一つまで詳細に、あの罪を覚えていてほしいと思ってる。なぜならそれが唯ちゃんの救いになると思うから。
「唯の裸を見たから目をえぐった」。これをやってくれたことで、唯ちゃんの傷は一生癒えないとはいえ、多少救われる部分があると思ってて。自分を見た目がこの世にもうないこと、それを自分のためにやってくれた人がいることが、唯ちゃんの生きる支えに少しでもなってると思う。だから、鞠井くんにもそれを覚えていてほしいと願ってしまう。本人が忘れてしまったら唯ちゃんの救いも軽くなってしまうような気がしてしまうから。
そして何より鞠井くん自身にとっても、それは確かに罪でもあるけれど、唯ちゃんを少しでも救ったという誇りでもあるはずだから。忘れてしまってほしくない。

地獄を生きる物語を期待して観に行って、ちゃんと地獄だったけど、でも残るのは絶望ではなく、かといってわかりやすい希望でもなく、なんというか、唯ちゃんの「死ぬのが怖いから生きてるわけじゃない、生きたい自分もいる」でした。観に行って良かった。

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