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伊吹山中に逃れた石田三成が考えたこと

大河ドラマ「どうする家康」の11月12日放映分は「関ケ原の戦い」でした。
関ケ原の戦いはコンパクトにまとめている一方で、徳川家康と石田三成との最後の会話にはメッセージ性があり、印象的なシーンとなっていました(史実では家康と三成の最後の面談は行われたものの、ほとんど会話は行われなかったようです)。
 
東海道新幹線に乗っていると、戦いの舞台となった関ケ原の前を通るとともに、関ケ原から京都・大阪方向に進むと、伊吹山(標高1377m)という山が見えてきます。古くからの霊峰とされ、「古事記」などの神話にも出てくる山です。
関ケ原の戦いで西軍が敗れたのち、石田三成など敗れた西軍の武将たちはこの伊吹山山中に逃れていったと言われています。
 
私は、東海道新幹線から伊吹山を見ると、敗れた石田三成はどんな思いで逃げていったのだろうと考えることはあります。もしかしたから、「なぜ敗れてしまったのだろう」という思いで一杯だったのではと思うのです。
 
三成にとっては、この戦いには相当の勝算があったと考えます。
三成が主導する西軍は、総大将として中国地方の大大名、毛利輝元を担ぎ上げていました。また、島津家(鹿児島)、宇喜多家(岡山)、長曾我部(高知)等の西国の有力大名も味方にしています。
また、関ケ原の戦い当日の布陣は、西軍が家康側の東軍を囲むような布陣となっていました。
後年、明治時代にドイツから日本に来た名参謀のメッケル氏は、この布陣を見て、「西軍が勝ったのだろう」と言ったという話しが残っているほどです。
 
しかし、実際には西軍が負けたのです。
西軍として布陣していた島津家や、毛利家が全く動きませんでした。その上、西軍に味方すると思われていた小早川家などが東軍に寝返った結果、西軍は敗北したのです。
このようになった理由としていくつか考えられますが、三成は段取りや配置などの企画は優れていたものの、味方の心のケアが不十分だったことがあります。
実際、夜討ち等の奇襲攻撃を提案して却下された島津家は三成に反発し、関ケ原の戦いではほとんど戦いに参加しませんでした。過去に三成により領地縮小の危機に直面した小早川家も素直に三成に従えない感情があったでしょう。
 
いくら企画が優れていても、味方の心のケアが不十分では人は動いていくれない。
この現代にも通じる反省が伊吹山中に逃れた三成の心に去来したのか。それは今となっては三成にしか分かりません。

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