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「和をもって貴しとなす」だけでよいのか

「礼の和をもって貴しとなすは、先王の道もこれを美となす。小大これによれば、行われざる所あり。和を知って和すれども、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり」(論語、学而第一)
(「礼の活用は、和と一緒になってうまくいく。かつての聖王のやり方も、礼と和が両輪となって立派だった。実際には和を大切にするだけではうまくいかないことがある。和の精神がわかっていて仲よくしても礼でけじめをつけないとうまくいかない」)

 
この論語の一節に目がとまった時、古代日本の聖徳太子の憲法十七条の第一条の「和をもって貴しとなす」を思い出しました。これは日本人の精神性を表わす表現としてよく引用されるものです。
 
この論語の一節は、「和をもって貴しとなす」だけではだめで、礼を大事にし、けじめをつけないといけないと言っています。礼とは世の中で決められているルール等も入っていると思います。
 
かつての日本は、良くも悪くもですが、一定の規律やルールを守りつつも、規律・ルール一本やりでもなく、和を大事にして調整するような面があったのではないでしょうか。結果的に、規律・ルールある行動が取られながらも、ギスギスするようなことも最小限に止められたのではないでしょうか。
 
しかし、今はどうでしょうか。和を大事にする文化はある程度保たれていると思いますが、規律・ルールを一定程度強化しようとすると、コミュニケーションを間違えるとブラックやハラスメントのように取られることさえあります。そのような風潮がまた、規律・ルールの普及を躊躇させるような空気を増長させていないでしょうか。
 
和を大事にした優しさと、規律・ルールを守る厳しさの両面がないと、なかなか日本社会の再興は厳しくないかなと個人的には考えます。

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