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「中年期(40代〜50代)のキャリア論」をイーロン・マスクに学ぶ

これは前後編の後編という感じで、前編では、最近「生きるロールシャッハテスト」と呼ばれ、見る人の政治的立場によって「天才!」に見えたり「ワガママで無能なクズ!」に見えたりするイーロン・マスクが実際どういう人物でどこが良くなくてどこが凄いのか…を分析する記事を書きました。

後編のこの記事では、彼の成功を見ていると、30代ぐらいまでと40代以後では、成功のパターンがかなり違うように思うんですね。

一言で言えば、若い頃は「個人の思い入れ」だけで突っ走った方が強いけど、中年以後はもうちょっと「世の中の風」を引き受ける側に回ることが大事という感じ。

スケール感は全然違うけど、かなり似たような構造が「普通の人のキャリア論」にもあるなーって感じるんですよね。

私は経営コンサル業と、本を書いたりウェブメディアに文章を発表する文筆業以外に、色んな個人と文通を通じて一緒に人生について考える仕事をしているんですが(ご興味があればこちらから)、そのクライアントにはまさに老若男女、大企業で働くビジネスマン&キャリアウーマンから特殊な自営業や農家の人、はては旧帝大の学部長からアイドル音楽の作曲家まで色んな仕事の人がいて、凄い成功してる人も絶賛人生苦闘中の人もいるんですが…

その人達を見ていても、40代〜の「中年以後のキャリア」って若い頃と同じように考えていてもシンドいな、と思うところがあります。

まあ文通してる人達は結局「なんだかんだやっていけてる」人達だけど、彼ら彼女らを見ていて思うこととして、物凄いアホっぽい事を言いますけど、

「気持ち」が切れなければなんだかんだ捨てる神あれば拾う神ありでやっていける

…みたいなところはありそうです(笑)

でもね、この「気持ちが切れてしまわない」って、人間の中年以後の人生では、何もしてなくても簡単に手に入り続けるようなものでもないんですよね!

ジョジョの奇妙な冒険の有名なセリフに、「真実に向かおうとする意志」という以下のものがありますが。

そうだな…わたしは「結果」だけを求めてはいない。
「結果」だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…………近道した時、真実を見失うかもしれない
やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。
向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな……………違うかい?

アバッキオの夢の中に出てくる警官のセリフ

若い頃このセリフを読んだ時と違って最近になって凄い感じるのが、

やる気も次第に失せていく

っていう部分の圧倒的リアリティ!で(笑)

若い頃は、ある程度雑に意思決定をして、ある程度自分を妥協して「とにかく手を出してみる」をやっていくこと自体にも経験の広がりとしての意味はあるんですけど。

年取ってくると、だんだん「変に妥協して形だけやっておく」みたいなことが持つ自分の魂へのダメージがだんだん凄い深刻なものになっていく感じがします。

まあそれは「年取って柔軟性がなくなって頑固になっちゃったね」という側面ではあると思うのでそれが周りの迷惑にならないように気をつけなきゃいけないね、という話ではあるんですが。

でもそこで「頑固さが他人に対する迷惑にならないようにする」ためにも、「自分の持っていきかた」を凄い丁寧にする必要があるんじゃないかと思います。

人生80〜100年時代なんで、「気持ち」が折れてしまわなければまだまだ色んな積み重ねがしていけるはずなんですけど、「気持ち」が折れてしまったらもうほんと、残りの人生が地獄って感じがするので。

その「気持ちの源泉」は、人それぞれでいいと思うんですよね。仕事の内容でなくても、家族との絆でも趣味への情熱とかでもいい。

いかに来年も「気持ち」が折れずにいられるか…っていうのを、中年期以後は最優先ぐらいに考えておいた方がいいんじゃないかと思います。

ただここで難しいのは、「若い頃のモチベーションの源泉」ってだんだん枯れてくるからね。マズローの…じゃないけど、若い頃手に入れたかった物欲とか性欲とかその他の欲求は、ぶっちゃけたいてい実際に手に入れてみたら

「まあ、こんなもんか」

って感じになるじゃないですか。

いや全然枯れない人とか、まだまだ手に入れたい事がある人はそれでもいいけど、それでもまあ普通は限界あるからね。

そういう「若い頃のモチベーションの源泉」とは違うところで、自分の「気持ち」を切らさない算段を必死にやる…って事が、『40代以後のキャリア論』で実は一番大事なことだと思っています。

というわけで、以後は、40代以後のイーロン・マスクはそれ以前とどう違うのか・・・という話をしつつ、そこから学べるかも?なレッスンとして我々一般人でも「気持ち」を切らさず生きていけるための方法について考えてみます。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●30代までのイーロン・マスクと、アラフォー以後のイーロン・マスクは成功パターンが違う

今回この記事を書くために「イーロン・マスク 未来を作る男」を読んでいて思ったんですが、アラサーのイーロン・マスクとアラフォーのイーロン・マスクは、仕事の成果の出し方がぜんぜん違うな、って思ったんですよね。

勿論、PayPalの売却に成功して大金を手に入れた(アラサー)事が人生を変えたっていうのは当然あると思いますが、ただそれだけでもないような。

アラサーまでのイーロン・マスクは、「自分のスキルを最大限活用して成功してやる!」みたいなエネルギーが全て…という感じなんですよね。

自分が持つ技術への目利きと、ビジネスモデルを組み上げる天賦の才能と、圧倒的な行動力で、色んな困難を力でねじ伏せて成功を掴んだという感じだった。

ただ、アラフォー以後のイーロン・マスクは、

「今のシリコンバレーってしょうもないよねと思っている人達の新しい希望の星」

みたいな旗の立て方をしていくことで、リスク取りすぎて結構何度か破産の危機みたいになりつつも、めっちゃ色んな人の助けられてるんですよね。

スペースXが倒産寸前になった時も、彼がやってる事に意気を感じたNASAの技術者たちがスペースXへの発注を政府に働きかけてくれてギリギリ助かったり、Google創業者のセルゲイ・ブリンやラリー・ペイジが、しょっちゅう私財で援助していたりする。

当時有名だった言葉にピーター・ティール(前編で書いたけどPayPalをマスクと一緒に作った起業家)の発言で、

「空飛ぶクルマがほしかったのに、手にしたのは140文字だ」

ピーター・ティール

っていうのがあるんですよ。

テクノロジーはもっともっと凄いことができるはずだったのに、世界中からお金を集めて毎年毎年何千億ドルも投資しまくって、そこで生まれている「イノベーション」とやらは、人々が140文字の罵詈雑言をぶつけあって時間を無駄にするだけのプラットフォーム(Twitterのことね)だった・・・ってそれでいいのか?おい!みたいな話(笑)

なんかGoogleが広告をクリックするボタンの色を何百何千通りと変えるABテストをグローバル規模で行って、それで何億ドルの収益アップに結びつけたっていうニュース見た事あるんですが、まあ自分は他人のしごとをくだらない”ブルシットジョブ”だと言いまくる人は嫌いだけど、それにしても希望に燃えて数理系の学問やソフトウェアエンジニアリングを学んだ有望な学生が、卒業して儲かるからってこういう仕事に人生を賭けてる…となると、さすがにちょっと微妙な気持ちになってる事は多いだろうなと思ったりして(笑)

ラリー・ペイジも、Googleでは儲かるために必要だからやってる事ではあるけど、ぶっちゃけ大した事してないからマスクに期待しちゃうよね…みたいな話をしている(笑)

以下雰囲気が伝わる部分を抜粋すると、

次々に世の中をあっと言わせるマスクのプロジェクトには、さまざまなテクノロジー系企業が投資しているが、実は、どこよりも多額の資金を投じているのがGoogleだ。
だが、大量の社員を抱え、常に投資家の目に晒されている以上、Google自体も好き勝手はできず、それなりの制約と期待を背負って経営している。
そういう現実を考えると、奇想天外なアイデアをもとにユニークな会社を作ってきたマスクを羨ましく思うことがたびたびあるとペイジは言う。

「シリコンバレーに限らず、企業経営者なら普通はお金に困ってはいません。察するに使い切れないほどあるんだと思いますが、だとしたら、どうして大したこともしていない会社に自分の時間を捧げているんですかね。イーロンは本当に刺激になる存在です。以前彼は”何をしたらいいかな。自動車、地球温暖化の問題を解決して、人類を惑星間で活躍できるようにして…”なんて言ってました。注目せずにはいられないでしょう?実際、そのための会社を作って取り組んでいるんですから。火星に行くと言っている男がいるのなら、そういう男のために一肌脱ぎたくなりませんか。」

こんな感じで、イーロン・マスク本人の力というよりも、アメリカ社会全体とは言わないまでも、少なくともシリコンバレーに夢を見ている人達全体の、「気持ち」のバックアップを受けてテスラやスペースXは成功している…と言えそうなんですよね。

普段の自分の仕事は果てしなくABテストを繰り返して世界中の人にスマホであと一回アプリゲームの広告をクリックさせる事かもしれないが(笑)、でもそうやって出来上がっているエコシステムの先に、イーロン・マスクが人類全体の課題解決を行うようなチャレンジをやってくれていると思うと人生捨てたもんじゃない気持ちになる…みたいな構造がここにある。

勿論これは”気持ち”自体が成功を引き寄せてるって意味ではなくて、”気持ち”で繋がっているからこそ、資金調達や技術者採用や雇用した社員たちの必死の献身を引き出すとか発売した製品に良い評価が付くといった”具体的なサポート”に繋げることができている、という意味ですけどね。

2●要するに「自力」のアラサー、「他力」のアラフォー以後ってことかも?

アラサーのイーロン・マスクと、アラフォーのイーロン・マスクの成果の出し方の違い…という話が伝わったでしょうか?

なんせ現時点で世界一の大富豪の話なんで、壮大な話すぎて参考にならないと思いましたか?

まあ確かに、そのまま普通のひとに応用できる感じは全然しないですけど、ただ、冒頭で書いた「文通」のしごとで繋がっている色んな人を見ていると、40代以後も活躍している人には、結構共通して「こういうパターン」があるように思うんですよね。

ベタな言い方をすれば、アラサーまでは「自力」でなんとかやることが大事で、アラフォーからは「他力」が大事というか、自分ひとりの能力でどうこうでなく、色んなひとの「気持ち」を引き寄せて仕事につなげていくことが大事になってくるってことですね。

では、今アラフォーだったり、あと5年10年でアラフォーになる…っていうひとのために、どうすればこの「モードチェンジ」をしていけるのか?っていうことを考えてみたいんですけど。

「文通」の仕事で、あるいは経営コンサル業で出会う色んな人を見ていて思うことは、「自力」から「他力」へのシフトに必要なのは以下の三点だと思っています。

A・キャリアを急ぎすぎずに、”ちゃんと考えていくテーマ”を持つ

B・仲間を作る(プライベートでも仕事でも)

C・仲間内におけるある程度の甘えあいを許す(変な潔癖主義的独立志向を諦めてWin-Winな相互依存関係を目指す)

以下順番に見ていきましょう。

3●「考えていくテーマ」を持つとはどういうことか?

アラフォーに向けての「自力から他力へのシフト」3か条の一個目、

A・キャリアを急ぎすぎずに、”ちゃんと考えていくテーマ”を持つ

…について考えてみます。

「自力」の優秀さが自分のコアだと、中年以後だんだん辛くなってくると思うんですよね。若い人で優秀な人がいくらでも出てくるからね。

それでもあくまで「自力」の処理能力の大きさこそが自分のプライドの源泉…て感じでアラフォー以後も頑張り続けると、どこかで結構深刻な「気持ちが折れる」タイミングを迎えてしまうように思います。

じゃあ中年以後に本当に価値を出しつつけるには、「経験」を活かすしかないんですよね。

で、「経験」って何かというと、要するに「決断する力」「選び取る力」なんですよね。

でも、「経験」って、悪い意味で制約になることも多いですよね。特に今の時代なんかはね。

何が「古い時代の悪い囚われ」なのか、何が「物事の隠された本質を捉えた洞察」なのか・・・っていうのは本当に難しいわけですけど。

アラフォー以後において、若い人たちと協業してちゃんと価値を出していくには、この「”囚われ”でない”経験”」っていうのが何なのか、自分なりに暗中模索して答を見つけておくことが大事なんじゃないかと思います。

そのためには、30代でキャリアを急ぎすぎない方が良いことも多くて、いわゆるサンドボックス的に手元でしっかり握ってリアルな経験ができる場で色々やってみては失敗する…みたいなことが大事だと思う。

その30代のうちの色々な経験の中で、「世の中的にこうだと言われてるけど実際にはどうか」っていうのを自分なりに掴んでいければ、40代以後にそういう「考えてきた経験の蓄積」が、若い優秀な人から頼りにされる回路がだんだん仕事の中で成立しはじめるところがある。

いや、これ30代でバンバン成功できる風に乗れちゃった人は、別にそれを恥じる必要もないし、追い風受けて走れる時期は走っちゃっていいし、そういう人なりの「経験」のたまり方だってあるから心配いらないと思うんですけどね。

でも多くの人はそんな「凄い追い風」を人生で捉えたりはできないわけで、それでも腐る必要はないし、むしろそういう時期に「考える」ことが大事ってことですね。

別にそんな無茶苦茶成功してるわけではない…っていう時期に、自分なりの理想を持って色々と試してみて、失敗したり成功したりイマイチだったり大事なヒントを掴んだり…ってことの積み重ねをやっておけるかが大事な感じがします。

4●”若い人をチヤホヤしてくる年上の人”には気をつけた方がいい時もあるかも?

今年のワールドカップを見ながら思い出したんですが、8年前のブラジルワールドカップの時に当時アラサーの僕が適当に書いたサッカー関連のブログがむっちゃバズって、民放テレビのサッカー番組に呼ばれたことがあるんですよね。

で、自分はフィーリングが合った時限定ではあるけど、何に関しても結構適当にコメントしたりするの得意なタイプな時もあるんで、そういうキャラとして世の中との歯車がハマったらちょっとそこそこ売れていったりしかねない状況だったんですが…

でも実際スタジオに行ってみたら結構深刻に「テキトーなこと言ってここでフワッとした気分で評価されたりしたら人生間違っちゃうな」って気持ちにものすごくなっちゃって(笑)結果として全然喋れなかったんですけど、それはそれで良かったなと思ってる部分はあるんですね。

当時言っていたことを今読むと、今の自分につながるようなアイデアや着眼点は変わってないんだけど、でもその後積み重ねた「地味に色々やってみた経験」の裏打ちがないから、あのまま「何に対してもちょっと鋭くて面白いことを言える人」みたいな感じで売れてたりしたら相当今ヤバいことになってただろうなと思ってたりする(笑)

30代前半って、「尖ってみせる」と結構簡単に評価してもらえるから、上昇気流を捕まえようと思えば捕まえられるんだけど、それって案外世の中の側からすると

「評価してるふりをしてるけど実はある程度以上に真剣に話を聞いてもらえているわけではない」

…みたいな袋小路的現象に追い込まれがちで、これはほんと凄い警戒しておいたほうがいい部分はあるような?

「若い人をチヤホヤしてあげる自分」に酔っているだけで、実は本気でその意見を聞く気はない年上のオジサン(いや女性もいるけど)・・・って結構やっかいだからね。

ロックバンドOASISの「Champagne Supernova」っていう曲

が自分は好きなんですが、「レッドカーペット歩いてる有名人」たちに「スゲー!」って思ってたけど、でもなんか彼らはすぐに守りに入っちゃってカッコつけてるだけでどんどん中身はオカシクなっていって、「あの時俺がスゲー!って思ってた気持ち返してくれよw」って気持ちになることよくありますよね?

そうやって「世の中に絡め取られない」ためには、ちゃんと自分なりの納得を積み重ねるペースを崩さないことが大事で、必死にアピールするというより、むしろ「蓄積が隠しきれなくなった時に世の中から発見される」ぐらいのペースである方が、本当の意味で「社会」に対して主導的にアクションを起こしていける場合が多いと思う。

繰り返すけど、20代〜30代で凄い追い風を捉えてバカでかい成功を掴んだタイプの人は、気にせず行ける限りアクセルを踏み込んで突っ走るのが最適解だと思うんですよ。

でもそういうふうな成功はしなかった普通の人は、「中途半端なチャンス」に飛びついて世の中にがんじがらめにされてしまうよりは、着実に積み重ねていく道を選んだ方が最適解である事が多いと思います。

別にどんな分野でもいいんだけど、30代〜40代でもまだ間に合うと思うから、「自分なりのテーマ」を持って常に色々と考え続けて、いくつかの自分のコア的な関心に関して、「ここはこうあるべきなんだな」というような確信めいた結論を出せるようになっていくと、中年以後のキャリアが全然違うものになっていくと思います。

別にイーロン・マスクみたいな天才にだけそういう可能性が眠ってるわけではないと思うんですね。

どんな地味な分野にも、そういう「結局どこが重要なのか」を経験から選び取って「決断」することで成果が段違いになる部分というのはあるので。

だから現時点で自分が関わっている分野、流れ流れて特に思い入れもなく結果として関わっているジャンルの端っこでもいいから、そこで自分が何らかの「テーマ」を持って考え続けるってことをやり続けていれば、アラフォー以後に見えてくる景色が全然変わってくるはずだと思います。

5●「仲間」を集めることについて

アラサーからアラフォーになるにつれ「自力」から「他力」で価値を出すようになるための三カ条2つ目は、

B・仲間を作る(プライベートでも仕事でも)

です。

個人的に自分は若い頃「仲間」って言葉が結構嫌いで、特に日本の漫画とかで絶対視される「仲間思想」みたいなのは積極的にウザいと思ってたんですけど(笑)

でも、アラフォー以後に「自力でなく他力」で価値を出して生きていくためには「仲間」は絶対的に必要なものだと思います。

ただなんか、ナアナアにベタベタしてれば「頼れる仲間」ができるかっていうとそうでもない気がしていて、ある時期まで毎日つるんでお酒飲んでたけど、ライフステージが変わったらもう全然会わない(Facebookだけ繋がってる)みたいな関係とかも誰しもあるはずで。

で、個人的にはアラフォーになった今、10年前と全然違うのは「仲間」的な存在が結構いる安心感があるところなんですよね。

それは、長年のクライアントだったり、文通のしごとでずっと色々話してきた友人や、編集者とかの仕事相手とかなんですけど…

まあ僕は家族以外では、「仕事関連」以外の「友達」って現時点ではあまりいないタイプなので、「仲間」って結局全員仕事の繋がりみたいになっちゃってるんですけど(笑)

仲間って、「消去法的に」人生の中に残っていくものだな…と個人的には思っています。

最初は色んな人と平等に接してるわけですけど、Aという人と一緒にやった時は色々と自分が無理してる気持ちになっていたけど、Bという人と一緒にやってるとお互いあまり無理してる感じじゃなく凄い自然にやっていけるな…っていう感じになることで、だんだんBさんとの関係が人生の中で消去法的に残っていく。

なんか、将来的に凄く大事な「仲間」になる人って、最初は印象が薄いこともありえると思うんですね。「自然な関係」ってショック成分が少ないからいまいちその大事さがわからなかったりして。

でも、「色んな人と付き合う」経験を積み重ねてくると、「ああ、この話が簡単に通じるっていうのは、凄くレアなことなんだな!」みたいな気付きが大事になってくる。

プライベートでも仕事でも、できる限り「自分が無理をして相手に合わせる」ことをしないといけない関係じゃないところで、ツーカーに協業できる人を、30代のうちに見つけておけると、中年以後の人生がかなり楽になると思います。

結婚相手とかもそうで、若い頃憧れるような「刺激になる!」関係というより、『平熱で自分たちらしくいられる』関係を選ぶと幸せになれると私は思いますよ!

6●潔癖主義的な「自立志向」でなく相互依存を目指す

アラサーからアラフォーになるにつれ「自力」から「他力」で価値を出すようになるための三カ条3つ目は、

C・仲間内におけるある程度の甘えあいを許す(変な潔癖主義的独立志向を諦めてWin-Winな相互依存関係を目指す)

…だと思っています。

なんか、旧時代的な「強引な相互依存」を引きちぎりたいからといって、何でもかんでも「自己完結型に自立」をすることを今の世の中は目指しすぎてると思うんですよね。

「夫婦といっても他人なのだから、自分の機嫌は自分で取るべき」とかね、「常にプロフェッショナルとしての自覚を持って自分に与えられたモジュールを完遂するべき」みたいなのって、なんか「個人単位で完結」する事を目指しすぎて、人それぞれぜんぜん違う能力やキャラクターを徹底的に活かすことができなくなる問題があるように思うんですよね。

今年書いて結構読まれた以下の記事で、「理解のある彼くん」とか「オタクに優しいギャル」とかがダメだという発想は良くないって話を書きましたけど…

お互いの「凹んでいる部分」を自然に埋めあえるなら、その先でより大きな価値を出せる人生をオリジナルに作り出していけるはず。

そういう意味で、信頼できる「仲間」を作った上で、そこではある程度「甘えあい」というか、潔癖主義すぎる自立志向ではない協力関係を作っていくことが、本当に「オリジナル」な仕事をやるためには大事なことだと思っています。

7●”仲間を信頼する”とはどういうことか?

なんか結局、人間「個人単位での完成」だけに引きこもるよりも、以下のスラムダンク世界みたいな感じの中で生きていきたいと多くの人は思ってると思うんですよね。

赤木がスクリーンをかけてくれる。俺がフリーになるぞ…俺を使え…

三井寿

「限界ギリギリの三井を支えているのは――――
 自分のために赤木がスクリーンをかけてくれる…
 その一瞬を逃さず宮城がパスをくれるはず…
 落ちても桜木がリバウンドをとってくれるはず…」
「という信頼―――」
「奴は今 赤んぼのように味方を信頼しきる事でなんとか支えられている………」

観客席で解説してくれる海南大付属の高頭監督

でもそれは単に「仲間」とか「家族」とかを無理やり押し付けるというよりも、ある程度「個」を尊重していこうとする意志の先に、自然にそういう構造が生まれてくるように持っていく必要があると思っているんですが。

「相互依存」関係に持っていくということは、「理論的に構想される個人の完成」とは違う方向を目指すことになるわけで、お互いをちゃんと尊重できない着地点になりかねない危険は常にあるわけですよね。

だから、なんか丁寧に「相手の個」を尊重していく必要があるというか、そういう意味では、「消去法的に仲間が残っていく」というプロセスがあってこそ、「本当にWin-Winな相互依存的な関係」ってのは生まれてくるような?

仕事関係でも…たとえばもう10年ぐらいの付き合い(といっても実際に仕事してるのはここ数年ですが)のウェブ編集者がいるんですが、彼は彼なりの「自分自身のしごと」として僕の記事をやってくれてるんで、そこの信頼感がかなりあるんですよね。

その「信頼感」があるから、彼が彼のペースで納得行くまで原稿を直したりそのための調べ物をしたり…っていう部分で凄い時間を使っていても、「まあ彼がそう言うなら自分の人生にとっても意味があるってことだと信じよう」みたいな感じで乗り切っていくことができる。

あとは折に触れて直近の仕事と全然関係ないしょうもない雑談を積み重ねておいたりね。そうやって「ココはこないだのアレみたいな感じで」みたいな蓄積ができていくのも大事な蓄積だと思っています。

そういう風にやっていくことで、結果として、「個人単位」として完全な「プロフェッショナル」として四角く完成させていくよりも、より大きくてオリジナルな仕事ができる可能性が生まれてくるはず、だと思って現時点ではやってるわけですね。

家族関係でも、他人から見ればイビツな関係に見えても、お互いにとっての欠乏を埋めあい、得意な部分を提供しあっているならそれこそが「完全な関係」なんだ、っていう発想が必要だと思う。

夫婦関係とかで、「大学時代の恋人とかがこんなこと言ってきたら”はあ?”って思うけど、一緒に人生過ごすと決めたこの人がどうしても必要だって言うんなら、まあそりゃ受け入れて生きるしかないよな」みたいなことは結構あると思うんですよ。

その分自分も、相手に受け入れてほしいワガママを、この人には受け入れてもらおう・・・っていうある種の「下心」も込みでね。

そんな感じで30代〜40代のうちにできる限り「仲間」を作っていって、自分が苦手なことを無理にやらなくっても仕事がまわり、自分は自分の得意なこと、無理なくやれることだけに集中して時間とエネルギーを使えるようにしていくことが、アラフォー以後の「他力」の価値の出し方をするためにはかなり大事なことだと思っています。

また逆に若い人にとってもこれは同じで、若い人に対する「これが正解、コレ以外ダメ」みたいな圧力は凄い高まってる感じがしていて、見ていて結構しんどそうに見えるところがあるんですよね。

でもそれを「仲間」を作ってその内側においてはある程度「許し合う」部分を持てるようにできれば、自分にとっての「無理なくできる長所」の部分だけで勝負できる舞台は徐々に出来上がっていくと思うので。

若い頃から爆速で大成功した偉人…みたいなのではない普通の人ほど、長期的視野で「信頼できる仲間との信頼できる関係性」を作っていくことは凄い大事になってきていると思います。

8●イーロン・マスクを中心にアメリカ社会全体が大きな価値を出したように…日本も大域的な連動性を取り戻せるかが問われている

結局、アメリカ社会は個人個人が叩きあいをしているようで、本当に大事な局面では「協力しあってナニカ大きな事をやる」という文化が崩壊せずに残っていることが大きな特徴だな、と思うんですよね。

日本社会も、「個人個人で孤立無援にもっと頑張る」とか、逆にある意味で巨大な護送船団方式みたいなものでもなく、そういう「本当に個人の力を引き出すための相互依存的関係」を大事に育てていくしかないな…と思っています。

アメリカは「世界一の富豪」レベルのスターに対して大量の人がフォロワーになって大きな変化を起こす社会って感じですが、日本の場合は世の中に無数にいる普通の人が、ちょっとずちょっとずつ「自分たちなりのリーダーシップ」を発揮して社会の連動性を高めていくしかない。

そういう意味じゃあ、今後の日本社会においては、目覚めた中年世代の間の適切な高速バケツリレー方式みたいな感じで、丁寧に時代に合わせた転換を起こしていくことが、どうしても必要になってくるんだろうと思います。

若い世代からの「グローバル」な突き上げと、上の世代の「古い日本」との間を取り持って、適切な場合分けと適切な話のツナギ方を常に高速で実現していくことで、漫画版ナウシカの最後に出てきた巨大粘液生物みたいな感じでどんどん形を変えていける経済に持っていけるかどうか。

色々大変なこともあるでしょうけど、一緒に頑張っていきましょう。

長い記事をここまで読んでいただきありがとうございました。

ここ以後は、さっきちょっと貼った「スラムダンク」の話をします。

今、作者の井上雄彦氏がめっちゃ関わっているスラムダンクの映画が公開されてるんですけど、まあ凄い出来でびっくりしたんですよね。ほんと良かったです。(ただし原作知らない人が見て楽しめるものかどうかは正直よくわかりませんw)

久しぶりにスラムダンクを見て思ったんですが、この作品ってここ10年20年の日本に凄い影響力持ってた作品だったなと。

色々な後続の漫画が、明らかに井上雄彦の影響で出来てる部分あるなとか。

ともあれ、結局作品全体のハイライトは、全国大会の「決勝」ではなくて、最強の山王工業と湘北との戦いであり、それが今回の映画のテーマでもあったんですけど。

なんかあの、「古い強豪高校で、皆同じ髪型、同じシューズ」の山王と、皆バラバラの髪型とシューズの湘北の戦いで、しかも湘北の方が「一歩ウワテの”チームワークへの献身”によって勝つ」という展開・・・っていうのは本当に考えさせられました。

今にして思えば、スラムダンクの大テーマは、

「古い日本社会の、抑圧的だけど強固なパワーの源泉でもあった絆」を一度解体して、でもその「解体」した「個」同士を結びつけて、「古い日本社会にあったもの」以上のチームワークを再生するという話

…なんじゃないかと。

そういうテーマで読み直した時のスラムダンクの功罪とか、今回の映画のめっちゃロックな音楽が凄いフィットしてた話とか、現代的に見ると謎な「ヤンキー同士のバトル」的な要素が持つ意味は何なのか?とか、そういうフィーリングを今後の日本社会はどうやってもっと活かしていけばいいのか?みたいな話を以下ではします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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