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なぜ日本人の「議論」はこれほど不毛なのか?ひろゆき&成田悠輔的言論に対抗するにはレッテル貼りじゃダメ。

(トップ画像は成田氏の著書『22世紀の民主主義』書影)

今月半ば頃から散発的にネットで話題だったのが、米国のイェール大学助教授にして日本でコメンテイター業を趣味でやってる成田悠輔氏の「老人は集団自決するしかない」発言が、ニューヨーク・タイムズなどに取り上げられて、タッグを組んで出ていることが多い「ひろゆき」氏も含めて色々と叩かれていた話です。

個人的な意見として、

「ひろゆき&成田論壇」的な方向性に自分は反対だし、なんとか克服していきたいと思っている

…ぐらいではあるんですが、彼らがどういう事を言っているか全然調べもせず断片的な切り取り発言だけを回覧して「ナチスの優生主義の再来だ」みたいなレッテル貼りをしてそれで何か言った気になってるのも同じぐらい「それでいいわけないだろ!」という反感があります。

なぜかというと、例えば成田氏のこういう発言などは、

日本社会における議論があまりに不毛な状態で放っておかれているから、結果としてああいう形でしか表現され得なくなってしまっている現象

…だからです。

お互い相手の言うことを聞かずに好きにレッテル貼りばっかりして何か「議論」をしたつもりになっている、みたいなのはそろそろやめるべきときです。

ここにある「日本人の議論の不毛さ」とは何か?結局どうすればいいのか?という話をします。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「言葉遣いの問題」はひとまず置いて、まず成田氏の主張を理解すると?

ウェブ雑誌クーリエ・ジャポンの親会社クーリエ社がやっている「みんなの介護」というサイトに、「賢人論」というちょっと恥ずかしい名前の特集コーナーがあって、「お前は自分が”賢人”のつもりか」とか言われると照れますけど(笑)去年私もインタビューを受けた記事が掲載された事があったんですね。

で、私にその企画のオファーが来た時に「参考記事」として添付されていたのが、その少し前に成田氏がインタビューを受けた記事だったんですが、なんせ「みんなの介護」というサイト内の記事だけにこの件について彼がどういうことを考えているのかがかなりよくわかる記事でした↓。

賢人論インタビュー(成田悠輔氏の回)

「老人は集団自決すべき」っていう話は、

A・老人への福祉コストが膨大すぎる事への警鐘
B・意思決定権を握り続けて若者に譲ってくれない老人に引退してもらうべき

…という両面があると思いますが、上記リンクの全3回のインタビューでは、主に前編・中編でAにあたる話を、次に後編でBにあたる話をしています。

で、「前編・中編」で話している内容から介護・福祉関連の部分を厳選して要約すると、だいたい以下のようなメッセージであることがわかります。

・自分もクモ膜下出血で倒れた母親の介護が大変だった時期があり、日本の福祉制度に非常に助けられた。米国だったらもっと大変で、見捨てられてしまっていただろう。
・しかし、世界一の高齢化で現役世代とのバランスが崩れ、今後この制度が現行のままでは維持できない事は明らかで、どこかで破滅的な崩壊が来るよりは、意図的に刈り込んで維持可能な制度に転換する必要があるのではないか?
・その部分で「効率性」の基準で工夫をすることは「人間性」と対立しない。むしろ相互補完的な事であるはずなのに、日本ではむしろそこで少しでも「効率」の発想を持ち出すこと自体を排除してしまっている。

みんなの介護「賢人論」における成田悠輔氏の発言要旨

これ↑を読むと、むしろ「気鋭の経済学者なりの真摯な問題意識から来る提言」っていう感じがしてきますよね?

私もこのレベルの内容には100%合意ですし、「集団自決」発言だけを切り取って「ナチスの同類」と思っていたような人でも、納得する人が多いのではないでしょうか。

そして、その「総論としては多くの人が賛成するであろう」発言の中の「各論」的な具体策として、成田氏が「集団自決」問題で具体的にどの程度の事を念頭に置いていたかというと、”ある程度踏み込んだ例”としては、以下のようなものがあると述べています。

多くの国で、自力で食べ物を飲み込むことができなくなるなど、移動・排泄・食事・更衣・洗面・入浴などの日常生活動作が一定以下になった場合は公的医療保険の適用を弱め、公的介護保険に徐々に移行する仕組みになってきています。これが公的負担を抑える役割を果たしています。もちろん実際は医療→介護という単線的な移行ではありませんが。
自費で延命することはできます。しかし、子どもや未来への投資を削ってまで一定以上の延命を公的に促すのは慎重になろうということなのでしょう。健康・介護保険への公的支出が膨らんでいる日本(OECD 2020)ではこういった議論が特に重要なんだと思います【参考文献 OECD (2020), Long-term Care and Health Care Insurance in OECD and Other Countries】。

みんなの介護「賢人論」における成田悠輔氏の発言から引用

この部分については、意見が割れるとは思います。賛成の人も反対の人もいるでしょう。私も拙速な導入には反対したい気持ちがある。

ただね、上記引用部分で成田氏も言ってますが、「この程度の事は欧米含めどの国でもやっている」事なんですよね。米国は言うまでもなく北欧などでもかなりドライな運用がされている事は有名ですよね。

ここで、

いや、大変なコストなのはわかっているし、欧米でもやらないことなのはわかっているが、それでも日本は社会の意志としてこれをやるという決断をするのだ

…という意思決定をやるんならわかるんですよ。それはそれで一つの選択だなと思う。

しかし、こういう問題を扱う時にネットの議論で心底頭おかしいなと思うパターンがあって、というのは

・ある分野の現行の日本の制度が欧米よりも”物凄く手厚い”現状がある
・それが維持不能になってきたので”少し”ダウングレードしたい

…という議論が出ただけで、

・日本政府は人権の大切さを理解しないナチスと同類だ!

…みたいな事を言う人が大量に出てくるんですよね。いやいやちょっと待てと。

コロナ禍の時でもかなりこういう「バイアス」がかかった意見が満ちていましたが、こういうのが元凶となって議論をどんどん現実から遊離させていって、社会が意味不明なレッテル貼り合戦で埋め尽くされてしまうんですよ。

結果として相互憎悪が募って、「老害どもめ!」みたいな感情だってヒートアップしてくる。

だから、こういう「集団自決発言」が”出てきた”だけじゃなく「ある程度持て囃されている」現状があるなら、その手前で、

・インテリがやってる”議論”がちゃんと現実の問題を扱えていないのではないか?
・その「機能不全」で現実を処理できずにいる無理が、こういう「感情問題」として噴出しているのではないか?

…っていうことを知識人全員が胸に手を当てて考えるべきなんですよ。

そこで、

人権を理解しない日本の土人どもはナチスと一緒!俺みたいに光り輝く良識を持った人間からすれば信じられない野蛮人どもだね!

…みたいな事しか知識人が言わないとしたら、それこそ「ファシズムを生み出す最大の元凶」みたいな感じですよ。

2●老人問題についてあるべき議論の方向とは?

で、結局その「賢人論」インタビューを受けた時に、サイト内の他の記事について何か思ったことはありますか?という問いに対して私は以下のように答えました。少し長いですがそのまま引用します。(全文はリンク先”後編”を読んでください)

倉本 「賢人論。」第159回に出演されていた成田悠輔さんのようにシニカルなことを言うと、現代の日本は、高齢者にものすごくお金を使っています。

毎年税金から何十兆円という医療費を補てんしている。ものすごく頑張っているんです。それなのに、反政府的な人が「日本政府は国民のために何もしていない」と言っているのを聞くとすごく腹が立つ。人々の現状認識自体がすごくずれているところがあるんですよね。

そういう現状を何とかしないといけないというのはいろいろな人が言っていることです。

例えば、高齢者に使っているお金のほんの0.5%とか1%でも国立大学の研究室に回すだけで、多くの問題を解決できるぐらいの変化があります。

なぜかというと、社会保険料も含めた広義の社会保障費の予算は年間百二十兆円以上にもなるのに対して、SNSで常時大騒ぎしている「科研費」とかは数千億円でしかないからです。

これは科研費に限らず、子育て関係でもそうなんですが、今の日本社会は老人の福祉には世界的に類を見ないほどお金を出している一方で、未来への投資に関わる分野が随分と先細りになってしまっているんですね。

「本当はこうなっていればいいのに」というようなSNSで見るアイデアを実際にやってみるとすれば、老人に対する社会保障費の巨額さから比べると「え?これだけでいいの?」という金額であることが多いです。

別に「老人福祉をもっと削るべきだ」という話をしたいわけではないんですが、ほんの1%でも効率化を考えてくれたら、こんなこともあんなこともできるはずだ・・・という構図になっているのが日本の政治なんですね。

だから、成田悠輔さんが日本の問題を真面目に考えると高齢者に切腹してもらうしかない的な事をおっしゃっていて笑ってしまいましたが、切腹まで行かなくても多少は若い世代に色々と譲ってくれたら国全体に大きな可能性が開けるのは確かなんですね。

ただそこで「高齢者に切腹してもらうしかない」と言うのか、「国の未来のために1%だけ我慢してください」的に堂々と理想を語るのか、後者のような大真面目なメッセージを日本ではもっとちゃんと言うようにしていくべきだと私は考えています。

実際、家計金融資産の6〜7割を60歳以上が持っているとされるなど、統計的にも体感的にも日本は高齢者の方が圧倒的にお金を持っているんですよ。

勿論高齢貧困層の負担が増えないようにしつつ、必須不可欠なサービスが削られないように注意しつつ…であるなら、1%とか2%とかの効率化が若い世代にとって、そしてこの国の未来にとって物凄く重要な意味を持つのだとちゃんと周知していけば納得する人は多いと思います。

日本人は「みんなのために感染対策で自粛してください」と言えば従う国民性です。

話す前から「当事者は自分たちの権利を守ることにしか興味はないだろう」と決めつけ過ぎだと思います。

こういったことは、日本の社会を良くするために必要な対話ですね。アメリカは実態が伴っていなかろうと、そういう大上段な理想を言葉にすることだけはやりすぎるほどやりますからね (笑)。

この話をしたのは一年ぐらい前ですが、今でも意見は全然変わってないですね。

ネットを見てると、例えば20年前に比べて重税感のわりに色々な公的支出が削られている事が多い現象を「自民党がお友達だけに私物化してるから」みたいな事を当然のように考えている人が多いんですが、そういうのがゼロだとは言いませんが、もっと基本的には世界一の高齢化で現役世代とのバランスが崩れている事が最大要因なんですよ。

そりゃ数億円とか、数十億円ぐらいの公金が不正に支出されてるみたいなことは右にも左にもあるでしょうし、それを追求するのは自由ですが、根本的な問題は誰のせいでもない高齢化にあるんですね。

そしてその高齢化が自民党がクズなせいだ!っていうのも定番の論理ですが、日本の出生率は東アジアの経済発展した国々(台湾・韓国・シンガポール・中国沿海部など)の中ではむしろ異様に高いぐらいなんですよ。

特に沖縄とか九州地方などは、「欧州の先進的な少子化対策の成功例」扱いされる国と同じぐらいの出生率の高さだったりする。

だから「自分たちなりにできることはある程度やってきた」中で、東アジアの文化的特性としてこうならざるを得なかった運命の先で、じゃあどうするんだ?という課題とまっすぐ向き合わないといけないんですよね。

誰か「逆側の敵が(自民党が、あるいは左翼勢力が)邪悪だから」こうなっているわけではない。

逆に言えば「党派性から離れた目で見る本当の問題」にちゃんと立ち向かう意志を日本中のインテリが固く決意した時にのみ、また再度のリベラル派による政権交代は可能になるはずだってことですね。

頑張っていきましょう。

3●日本人の議論が不毛になる理由はこれ

要するに、日本人の議論の不毛さの典型的な特徴は、

1%から最大5%ぐらい時代に合わせて少し融通してください。それだけで全然違ってくるんです。

…という議論をしようとするだけで、いきなり

・お前は老人に死ねと言うのか!お前はナチスの仲間だな!

…みたいな話にぶっ飛んでいって延々と両極端に分かれてレッテル貼り合戦になるところなんですよ。

確かに、「集団自決しろ」とか「老害は去れ」とか「老人なんか無駄飯喰らいを養ってる余裕はない」みたいなことを言うのは私も嫌いです。そういう言い方をすれば余計に紛糾するだろうが!という反感も持っている。

だからこの記事冒頭で書いたように、「成田発言」的なものが出てくる現状を克服していかないといけないと私も思っている。

しかし「なぜそういう発言が出てきて、単に出てくるだけでなく持て囃されたりするのか」の背後にあるものをちゃんと考えないと。

そうすれば、結局「現実の変化に対応していくための必要な議論が機能不全化している事が元凶としてある」んだってことがわかってくるはずです。

そこの機能不全化した議論をなんとかしなくちゃ、という当事者意識も持たずに、自分とは逆側の意見の人間に、「ナチスめ!」とかレッテル貼りして何か賢くて良識的なことを言った気になっている人たちにも本当に真剣に

「ふざけんなよ。知識人ぶるならちゃんと知識人の努めを果たせよな!」

…という怒りが私にはあります。

このパターンの「議論の停滞」は日本のそこら中にあるというか「ありとあらゆる場面がそうなっている」といっていいぐらいなんですよね。

例えば、以下は元マッキンゼーの大先輩、安宅和人氏の著書「シン・ニホン」からの図ですが、

シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成(安宅和人氏)

日本の大学は理系学生が少なすぎるんですね。

なんでも「スペック」だけを見るカルチャーらしい韓国が63%も理系学生なのはちょっとやりすぎな感じもしますが、日本は23%でしかない。韓国やドイツの3分の1弱、英国の半分。結構少ない米国よりさらに少ない。

この「比率」があまりに違いすぎるせいで、韓国は人口が日本の約半分なのに、理系学生の卒業生は「実数」で見ても日本の1.7倍ぐらい毎年いるんですよ(笑)

さらに言えば20年前、40年前と社会の中の『IT技術』の存在価値が全然違うレベルになっているのに、日本では情報系の学部の定員を時代に合わせて拡充するような動きもあまり実現できていない。

結果としてソフトウェアエンジニアが足りない足りないと言って嘆いている。

で、これで「理系を23%から一気に3倍弱にもして韓国なみに63%にするべき」みたいな話をするわけじゃなくても、

・現状あまりにも少ないからもうちょっと理系分野(特に情報系)の学生を増やすべき

っていう話が当然出てきますよね?

そしたら日本では皆さんご存知のとおり、

・役に立つ学問だけが学問だと言うのか!
・こうやって土人国家日本では本当の「知性」というものが欧州ほど尊重されないからダメなんだ!

…みたいな話の大合唱になるじゃないですか。そしたら売り言葉に買い言葉で、「文系の無駄な学問など潰してしまえ」みたいな話にもなる。

さっきの成田氏の発言についての問題と一緒で、「文系をやたらディスる言論」をするのは私は嫌いですが、一方であまりにも「専門知」「実用知」側から「現状こういうのが必要です」って言ってきたものを全部否定して大上段の理想論に引きこもることが「文系の学者の責任」と思っているような人が多すぎるんですよ。

こういうのの親玉的な事例が安倍政権時代の集団的自衛権云々の話なんですよね。

爆発的な経済成長で2030年には米国をGDPで抜くかもしれない中国が隣にいて、相対的な米国の衰退の中でただほったらかしていたら軍事均衡バランスが崩れて、プーチンが「キエフなど3日で落とせる」と思ってしまったようなレベルで戦争になりかねない状況は火を見るより明らかじゃないですか。

「何か」しないといけないのは別に安倍氏が汚らわしい戦犯の息子で戦争がしたくてたまらない狂人だから…じゃないわけですよ。

米軍との一体化を進めて、豪州やインドなどとも同盟関係を強固にして、「火を吹いたら無事では済まないぞ」とお互い明確にわかる状況を維持するのは喫緊に明らかに必要なことで、別にそれは中国人を蔑視してるとかましてや「そんなに戦争がしたいのか」みたいな話では全然ない。

その「現実的な対策」についてちゃんと対応する理屈を展開してくれたら、その拮抗状態の上で「もっと外交で」「無駄に関係を悪化させるな」「やはり象徴としての憲法9条は大事だ」みたいな理想論だって意味を持つし、今後の防衛費増が本当に防衛力強化に繋がっているのか、専門家をちゃんと組織して細部の議論をして詰めていくことも可能になる。

「現実的な必要性」に目をつぶって「そんなに戦争がしたいのか!汚らわしい戦犯の息子め!」みたいな事ばっかり言ってるから、実際の防衛議論の蚊帳の外に置かれてしまうわけじゃないですか。

それでも「必要な措置」をやるために当時の安倍政権に強固な権力を与えざるを得ない情勢にもなるし、それが色んな意味で忖度を産んで不幸な事例だって生まれてくるわけですよ。

とにかくこの「実践知」と「教養知(とでも言うべきか)」の間が全然「双方向」のコミュニケーションになってなくて、レッテルの貼りあいに終始しているからどんどん険悪な罵り合いに堕していくわけなんですよね。

4●「ひろゆき&成田」は”浅はかなプログラム思考”かもしれないが、あなたたちがやってるのはもっと「高尚で深遠な」ことが本当にできているのか?

この件に関連して、岩波書店の「世界」という雑誌の3月号で、伊藤昌亮という社会学者の方が「ひろゆき論」というのを書いておられました。

結構多面的で良い論考だったと思っています。

伊藤氏の話をまとめると、基本的にひろゆき&成田がやっているのは

・「プログラミング思考」「実践的な情報知」的なもので、アナログで旧態依然とした知的権威とされる存在へ反抗してみせるポピュリズム

…だと言う。まあそりゃそうかもしれない。

そしてそういう方向性がウケる理由は、

・旧来のリベラル的発想が「自分たちが助けたい弱者像」以外に冷淡なところがあり、現実の社会で不遇になっている存在に”自分たちの為に考えてくれている”という信頼感を持ってもらえていない問題があるのではないか?(米国のトランプ元大統領が”忘れ去られた人たち”の支持を得た…的な話ですね)

この指摘もまあ、ナルホドという感じではある。そしてその上で、ひろゆき&成田的言論を批判するメッセージとして、

「自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠いもの」

であると批判し、

彼らは自らに都合よく情報を加工し、ときに捏造しながら、自らが見たいように世界を見るようになる。そこからもたらされたのが、恣意的にねじ曲げられた解釈に基づく陰謀論的な言説の数々だ。

元来、プログラミング思考を追い求めていけば、いわゆるシステム思考に行き着くはずであり、そこではシステム論的な複雑さをいかに処理するかという点が眼目になってくるはずだ。

その結果、自己や社会の複雑さに目が向けられるとともに、自らの思考法による再帰的な影響関係にも検討が加えられ、その制御と修正が行われることになるはずだ。しかし彼の思考はそうした発展性を持つものではなく、あくまでも未熟なレベルに留まっている。

…と論評している。

私はこの伊藤氏の論評は結構読ませる文章だったと思っているんですが、ネットで「ひろゆきをちゃんと叩いてくれた!」と絶賛している人たちはこの論考の本質部分を結局は受け取っておらず、

・「ひろゆきはバカ」「ひろゆきはバカってわかってる俺たちは知的だ」ってちゃんと言ってくれた!

…みたいな(笑)単純な受け止められ方をしているのがなんだかなーって思うところなんですよね。

この文章を読んで考えるべきは、

この文章で描かれている、『プログラミング思考を突き詰めた先にある、奥深いシステム的思考』ってやつを本当に自分たちはできているだろうか?

ただ単にレッテル貼りあいしてバーカバーカって言うことしかしてこなかったりしないだろうか?だから”ひろゆき”に負けてるんじゃないんだろうか?

ってことじゃないんですかね?ねえ?

個人的には、SNSで伊藤氏ご本人が紹介しているのを見かけて期待して街の本屋さんまで買いに行って読んで、この記事自体は凄い良かった…と思ったあと、SNSでこの記事の評判を見たら結局「いつものレッテルの貼りあい」しかしてなくて凄いがっかりした気持ちになりました。

5●「実践知が提言してきたことの足りない部分を双方向的に補うのが”深い知性”ってやつじゃないんですか?」

ひろゆき氏が連発する雑な議論と、成田氏が言ってる事との間には「精密さ」にかなり差があると思いますし、さっきの理系学生の数の問題など、もっと精密で実地に即したレベルで「実践知」側から色んな提言は常に出されているわけじゃないですか。

でも、そういうのは「実用主義的」すぎて、社会の本当の全体像から見てのがしているものがある…それは確かにそうだと思います。私もそう思っています。

ただ、

「数%見直してくれるだけで全然違うんです。現状あまりにイビツな構造になっているんです」

みたいな話が「実践知」側から提言された時に、

「お前は老人に死ねと言うのか!優生主義だ!ナチスだ!」

…みたいな意見の「大合唱」になるのは、本当にあなたが考える「深い知性」ってやつなんですかね?

そうじゃなくて、そういう「具体的な変化の提案」に対して、それが社会の大事な絆や価値観を崩壊させることがないように専門的に深い知見から双方向的に「補って」いくような対話をすることが、本来文系の知識人に求められていることではないんでしょうか?

ただし、個人的にはあまりに過去に失望することが多すぎて、「文系アカデミア」ってこういうレベルの人ばっかりなのかな・・・って思ってたんですが、いざ普段読まない岩波書店の「世界」を買ってパラパラ読んでると、そういう人ばっかりじゃないんだなって思う部分はありました(笑)。

だから日本のどっかには「マトモな文系学者さん」もいるらしいとは思った。でもそれ全然シェアされない。

目立つ人は全員単なるレッテル貼りでバーカバーカって言い合ってるだけだし、そんなんだから「ひろゆき」に席巻されるんだよ!っていうことについて真剣に危機感を持っていただきたい。

冒頭にも書いたけど、「ひろゆき&成田的言論」は克服するべき課題だと私も思ってますが、それは単に「ナチスだ!」とかレッテル貼りをすることではなくて、「彼らがどういう意図でそれを言っているのか」を理解した上で、「自分たちならもっと良い解決を導けるのだ」ってことを専門知とのコラボレーションの中で示すことでしかないはずです。

その課題から逃げるな。向き合って知識人としての勤めを果たしなさい。

すぐには有効に機能できなかったとしても、ちゃんとまっすぐその課題に向き合う誠実さを真剣に保持してさえいれば、日本人の大衆だって「お、学者センセーの言うこともたまには聞いとくもんやな!」ってなりますよ。

ちなみに、今の段階で、「ひろゆき&成田」的論調にある種のNOが突きつけられる流れになったのは、単に

「海外事例を持ってきて日本国内のあらゆる地道な活動をバカにする論調」
vs
「ここは日本だ黙ってろ!」

という幸薄い二分法ではなくて、「グローバル知見を利用して、日本のローカル事情もちゃんと勘案して具体的な答えを出す」というある意味当たり前の論調が立ち上がりつつあるからだ・・・という観点もありえるなと思っています。

それは、この記事とツイになっている以下の電気自動車の事例で、「ルネサスエレクトロニクス」の話をしているところの論点に近い。

過去20年、グローバルな潮流と「日本国内の事情」の間を丁寧につなごうと地道にやってきた人たちの積み重ねというのが実際にはあって、それが徐々に日の目を見る段階まで来たからこそ、

・米国みたいにできない日本てダメだよね
vs
・ここは日本だ黙ってろ

みたいな思考停止な議論は両方とも徐々に説得力を失いつつあるんではないか?そうだといいな・・・という気持ちはありますね。

そうやって今の日本の議論の機能不全をどうすればリアルなものに転換していけるのか?という内容を、実際に、グローバル多国籍企業から日本の中小企業の仕事まで関わった知見から書いた以下の本にまとめていますのでぜひお読みいただければと思います。

日本人のための議論と対話の教科書

長い記事をここまで読んでいただきありがとうございました。

ここからは、「議論の内容」とは別の次元での「ひろゆき人気」の秘密について考察します。

そんなにひろゆき氏の番組見る気がなくても、You Tubeが勝手に切り抜き動画をおすすめしてくるからチラホラ見る事になっちゃう事ってよくありますよね。

だから僕も別にファンでもないけどたまに見てたんですよね。

あと、ウチの母親がひろゆき&成田氏の番組のファンで、帰省するとよくその動画の話をしてくるんですよ。(変な陰謀論テキスト系動画にハマってるよりいいなと思うんで基本的にポジティブにとらえています 笑)

で、私はひろゆき氏の「人気の秘密」ってここまでしてきたような議論の内容とは別のところにあるなと感じています。それは「反ひろゆき派」の人も取り入れるべき内容がありそうなんですよね。

それは一言でいうと、「相手によって態度を変えない」ってことです。この点においてひろゆき氏はマジで凄いというか、徹底してるものがあって尊敬できる。

彼はなんかロケ行った時とか対談してる時とか、ウェブ番組出てる時とかYou Tubeライブしてる時とか、

相手が有名な芸能人でも、末端の番組スタッフさんでも、街歩いててすれ違った人でも、論争的に「敵」な人でも、ライブ中にチャットで話しかけてくる知らない人でも、全然態度を変えない同じトーンで話す

↑これが凄い徹底してる感じなんですよね。

こういうの、「今の時代の理想」的なあり方ではあるけど、なかなかできないですよね。特にオフショットで末端のスタッフさんとちょっと会話してるシーンとか、街歩いてる時に誰か知らない人と話すシーンとかでの腰低い敬意ある振る舞いは凄い尊敬に値すると思う。

ある意味で”平等主義者”というか、”平等主義を極めるためにあらゆる「権威」に反抗する必要が出てくる構造”になっているというか。

この「ひろゆき的ふるまいの人気の秘訣」で、さっきの「世界」の論考とかネットの議論で見過ごされがちな点についてもう少し書きます。

一個前の記事でも書いた「これから無駄に断罪しないマーケティングが必要になってくる」という話にも通じる、「徹底的に人それぞれの価値観で生きている時代における必要なマナー」がそこにはあって、それは「反ひろゆき派」の人も学ぶべき点があるはずだという話をします。



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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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