見出し画像

新刊「2020年代を日本にとっての繁栄のボーナスタイムにする方法」序文無料公開

(後日追記ですが、実際に発売された本とはかなり違う原稿になっているので、読み比べてみるのも面白いかもしれません)



ちらほらツイッターなどでも言っていましたが、問題がなければ来年1月に久々の新刊を出します。(12月予定でしたが伸びました)

過去にnoteで半分ぐらい原稿を公開していた事もありますが、アレからまた状況が変わって、かなり違う原稿に進化しました。

前のタイトル(普通の日本人が正しい)が、主にリベラル派の人からムチャクチャ評判が悪かったので、それも変えて、

「2020年代を日本にとっての繁栄のボーナスタイムにする方法」

という事に現時点ではなっています。(公刊時にはまた変わっているかもしれませんが)

過去にいろいろな記事で書いてきたように、

過去10〜20年の世界的な「ネオリベ全盛期」に日本は引きこもって自分たちの紐帯を守り続ける選択をしたので、経済的パフォーマンスは微妙でした

が、しかし今後の、

米中冷戦時代に「ネオリベのその先」が必要になってくる時代には、むしろ「分断化される世界の共有軸」となって「繁栄のボーナスタイム」を引き寄せることも可能になるはず

なんですね。

どういう状況の変化からそう言えるのか、そしてそれを本当に引き寄せて分断される人類社会に貢献するために、私たち日本人にできることは何か?についてまとめた本です。

このページではその序文(はじめに)を無料公開します。

「はじめに」以後の部分の原稿本体は、noteの定期購読会員向けに一応現時点でのものを公開します。(ちょっと月三本のノルマを今月はこなす余裕がなさそうなので)

定期購読者の方以外にも、現時点ですぐ読みたい人は一応まとめて買えるようにしています。”マガジン”形式でまとまっているものを単品購読していただくか、これを機会に「定期購読」をお考えください。

担当編集の人がかなりザクザクと手を入れるタイプの人で、「この時点の原稿」から「発売時の原稿」はさらにめっちゃ変わりそうなんですよね。

「この時点の原稿」と「発売時の原稿」を比較すると、おそらく一般的にはかなり読みやすいものになると思いますが、「毒舌的な部分」は随分とマイルドになりそうでもあるので、「現時点での言いたい放題している部分」の方が面白いと思う人もいるかもしれません。

出版社との利益相反的な問題もあるので、会員以外で買うかたは、ぜひ「ホンモノが出版されたらそっちも買うよ」という気持ちで購読していただければと思います。

それでは、ここから、序文の「無料公開」の部分がはじまります。

「無料公開部分」だけでも、ソレ以外の「全文」を読まれた方も、よろしければ私のツイッターウェブサイトのメールフォームに感想などお聞かせいただければと思います。

はじめに 果てしなく分断される世界で「共有軸」になる日本

●あなたは最近の日本が「うまく行っている」と思いますか?

「私だけかね?まだ勝てると思っているのは・・・」

このセリフは、漫画「スラムダンク」の終盤で、強豪の山王工業高校に圧倒的な実力差を見せつけられて大きく点差が開いたシーンで、主人公たち湘北高校バスケ部の顧問、安西先生が口にするセリフです。

最近の「日本国」について、全般的に見て「何の問題もなくうまく行っている!」と感じている人は少ない時代になってしまいました。

先日帰省した時に私の母親に聞いたところ、コロナ禍で色々と不自由が続いていた時期だったこともあって、周囲のオバチャンたちの集まりでも「最近の日本はほんとうにダメねえ」という論調が定番化してしまっていると言っていました。

しかし、冒頭の安西先生のセリフではないですが、この本を書いている私個人としては、ずっと前から「日本はこういう方向に進むべきだ」と提言し続けてきたようなことが、やっと実現できる状態に近づいてきている、非常にポジティブな感覚を持っています。

確かにいろいろとギクシャクしている部分があちこちにありますが、それも「古いあり方」と「新しい方向性」がぶつかりあって、単なる過去の惰性では処理できなくなってきたからこそ、生じている「産みの苦しみとしての混乱」だと感じているからです。

もちろん、「今のまま」でいいわけではありません。協力し合って「変えるべきところ」をシッカリと、共有された意思を持って変えていくことが必要です。

●「議論という名の罵り合い」があふれる時代


 ところがです。ツイッターなどのSNSを見ていると、「党派的な罵り合い」は年々ヒートアップし続けているように見えませんか。ありとあらゆることが、「紋切り型のいつもの罵り合い」にすぐに還元され、強烈な言葉で「敵」を攻撃しあう言論に、「いいね」が沢山ついて大量にシェアされ、そして結局何も変わらない。
読者のあなたがどういう立場の、どういう考え方の人なのかはわかりませんが、こうした「党派的な罵り合いだけが先行して、何も問題解決が進まない」現象に対しての違和感を持っておられる方が多いのではないでしょうか。

「”議論という名の罵り合い”が溢れるだけで、山積する問題は全然解決しないこの世の中で、双方がなぜそういう物言いをするかを汲み取ってちゃんと問題解決に向かうためにはどうすればいいのか? という本を書いてください」

 これが、今回この本を書くきっかけになった、編集者からの依頼でした。

この本を編集してくれるKさんは、長い間ある「いわゆる保守派・右派」の有名な雑誌の編集部で働いていたのですが、あまりに「この国がどうすれば良くなるか、ではなく、敵対する派閥(いわゆるリベラル派・左派)をとにかく攻撃できればいい」という方向で突っ走る業界の風潮に限界を感じ、雑誌社をやめてフリーランスになった人です。

日本を見渡せば、問題は「右側」だけにあるのではありません。「いわゆる左派・リベラル派」の方でも、彼らが大事にする理念をどうすれば日本で理解を広げ、実際に実現していけるのか・・・よりも、「彼らの敵」である「今の日本政府や保守的な考え方を持つ人々」を攻撃できさえすればいい、という方向で突っ走る言論家やそれを掲載する媒体が多い。

結局「社会がよくなることよりも、格好良く”敵を攻撃する”言論」だけが溢れている現状には変わりがないことに気づいたそうです。

確かに、そうやって「右だとか左だとか」の紋切り型で整理できる話だけでなく、今の日本では多くの人が「うまく行っていない事の犯人探し」にだけ忙しく、自民党の政治家が悪い、いや野党が悪い、官僚が悪い、メディアが悪い、老人が悪い、若者が悪い、氷河期世代が悪い、ゆとり世代が悪い、男が悪い、女が悪い、中国や韓国が悪い、欧米が悪い、新自由主義者が悪い、共産主義者が悪い・・・という罵り合いばかりが盛り上がる一方で、違う立場同士の事情を持ち寄って一歩ずつ問題を解決していくような方向の議論がなかなかできにくくなってしまっていますよね。

…というのが、長い間マスコミ業界の狂騒の中で働いてきたKさんの問題意識からくる、切実な依頼でした。

しかも、こうした現象は、日本や特定の「業界」だけでなく、世界的に共通して起きています。

最近では2019年10月29日にシカゴで行われたイベントで、アメリカ元大統領のオバマ氏の発言が話題になっていました。とにかくSNSで非妥協的かつ「純粋」に「敵」を攻撃する事だけに集中し、いかに「自分が意識が高い存在か」をアピールしあうような風潮を批判し、こう述べたのです。

「こんなやり方で世の中を変えることなどできない。そうやって気に入らないものに石を投げつけているだけなら成功には程遠い」

全くその通りだと思います。では、どうすればこの「罵り合い」が「意味のある問題解決」に転換できるのでしょうか?


●ノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロが主張する「縦の旅行」の重要性

果てしなく「分断」されていく時代に、両者の「共通性」を取り出して具体的な問題解決に向かうには、どうすればいいのか。逆説的なようですが、「今を生きる私たち」が「いかに違った立場・環境を生きているのか」を理解することが重要です。

日系イギリス人のノーベル文学賞作家、カズオ・イシグロは、東洋経済オンラインのインタビューに答えて、こんな話をしています。

「いわゆる「インテリ」の人は、世界中を飛び回っていても実は凄く「狭い世界」で生きていることを自覚する必要がある」

つまり、特権的なインテリ階級や世界を飛び回るエリートビジネスマンたちは、パリやロンドン、東京、ニューヨークといった大都市に住む「仲間」とだけ繋がっていて、それは非常に「多様性」に富んでいるように見えるかもしれないが、しかし結局そういう人は「自分と考え方が似ている同類」の間だけで生きていることに気づいていない。

社会の中にある「本当の多様さ」とは完全に切り離されて生きているのであり、そういう「特権階級の内輪の話」の延長だけで社会のすべてを運営しようとすれば、時々考えもしなかった反発を受けるのは当然である。

だからこそ、「世界中の恵まれた立場にいる同じ仲間とだけ付き合う”横”の旅行」ではなく、「同じ国で暮らしている、普段は考え方や生活の違いから接することの少ない人と出会う”縦”の旅行」こそが今重要なのではないか・・・という指摘でした。

「特権的なインテリ階級の閉じた価値観」が「リアルな同胞の考え方や感情」に無頓着すぎることが、昨今の欧米社会における政治的混乱に繋がったのだ・・・とする立場ですね。

これには深く共感しました。というのも、私は20年ほど前から同じような問題意識を常に持っており、この「縦の旅行」の中から「新しい共通性」を立ち上げて、分断を超える問題解決の基盤を再生する試みを続けてきたからです。


●自分がいる場所の「逆側」の立場の人と協力しあわないと何も解決できない

どういう試みだったのか。それについて、少しだけ自己紹介をします。

私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカの外資系コンサルタント会社に入り、「当時最新鋭とされたグローバルな経営手法」を「遅れた日本企業」に導入する・・・という仕事をしていました。

しかし、「グローバルに流行っている経営手法」と「日本社会の色々な事情」とのギャップは非常に大きくて、全体としてこの流れに全く反対というわけではないが、なにか「大事なもの」が知らないうちに壊されていっているのではないか? という違和感を日々抱いていました。

特に、日米の名だたる経済学者が参加した共同研究プロジェクトに参加し、「日本の中小企業の数を減らしてチェーン化すれば経済が良くなる説」のような結論を出した研究に関わるにあたって、「本当にコレでいいのだろうか?」という違和感からメンタルを病んでしまいました。

当時私が考えていた事は、外資系コンサルティング会社が唱導しているような「新しい経営の考え方」には、日本もぜひ取り入れるべき有効な美点は当然、ある。けれど、「社会全体の見方がこればかりになってしまう」ことの副作用は、今後10年~20年たった時に無視できないものになってしまうだろう・・・ということでした。

結果として当時の私の懸念は、20年近くたった今、現実のものとなりました。たとえばアメリカにおける「トランプ元大統領の支持派とそれ以外の対立」といった形で、世界中で同じく顕在化する大問題となっています。洗練された手法を合理的だからと推し進めるリベラル・エスタブリッシュメントと、古きよきものを重んじたい保守派の対立は深まるばかりです。

規模や度合いは違えど、日本国内でもそれは起きており、だからこそ不毛な罵り合いが起きているのです。

その「グローバル経済が社会を2つに引き裂いてしまう」大問題が、世界中で引き返せないところまで顕在化してきたこの20年、私は逆に、その「分断された2つの世界」を結びつけて新しい希望を生み出すにはどうすればいいか? について、色々と実験と模索を続けるキャリアを歩んできました。

具体的には、まずは「都会の良い大学を出て良い会社に入って・・」的な立場から見ていてはわからない社会の現実を知らねば・・ということで、いろんなブラック企業や肉体労働現場、ときには駅前でたまたま勧誘されたカルト宗教団体に潜入したり、ホストクラブで働いてみたり・・・といったような事をやっていました。
まさにカズオ・イシグロ氏の言う「縦の旅行」そのものですね。

その後、「マッキンゼーのようなアメリカ型のコンサルティング」とは非常に対照的な存在に見えた「純和風」のコンサルティング会社として有名な船井総合研究所を経て、現在は日本の中小企業相手のコンサルティングの仕事をしています。
同時に、電子メールによる「文通」を通じて個人の人生を考える・・・というコーチング的な仕事もしています。

そのクライアントには上は60代から下は20代まで本当に老若男女、都会に住む人も田舎に住む人も外国に住む人も、普通の勤め人の男女もいれば、政治家もいれば、学者さんも、変わったところではアイドル音楽の作曲家さんや合気道の先生もいます。

彼らを通じて、この複雑な社会において、「単に自分とその周囲の立場」からだけでなく「色々な立場」から社会を見る・・・という事を続けてきました。

その私から見て今の日本の最大の問題は、次の一言に尽きます。

「みんな「自分の立場から見える世界観」でしか問題を見ておらず、「自分とは逆の立場」にいる人との対話関係が完全に途絶してしまっているので、ワアワアと責任のなすりつけ合いの罵倒合戦だけが続いて疲弊しているのだ」

しかし、「本当の対話」さえ実現できて、ちゃんと「現地現物の問題」を一個ずつ協力しあって解決していけば、今「どうしようもない」ように見えている困難でもスルスルと解きほぐして前に進むことが可能です。

細かい「立場の違い」を丁寧に紐解くことで、私達が普段忘れがちな、「同じ国、社会を共有して生きているのだ」という「共通性」を掘り出してくることができる。

そしてその「探しだした共通性」をベースにして、具体的な問題解決を積み重ねていけば、ワアワアと罵り合いだけが続いていた時とは比べ物にならないほど、そして自分たちでも驚くほどスムーズに現実が改善していくものなのです。

大事なのはいつでも、「犯人探しの罵り合い」で疲弊するのをやめて、「具体的な問題解決」に人々の注意を振り向けていくことなのです。

●「対話」から大きな改善を引き出したクライアント企業の事例

 第一章でも詳しく説明しますが、それにはある成功体験があります。

私のクライアントのある企業は、ここ10年で平均年収を150万円ほど引き上げることに成功しました。その企業は中小企業といっても、家族事業という感じではなく、「ある地方都市を代表する中堅企業」程度の規模を持っています。
あらゆる事業は、「利益=売上ーコスト」とか、「売上=単価×顧客数×購入頻度」といった方程式から決して逃れられません。そのため、ある程度以上の規模の会社において、ここまでドラスティックに平均年収を引き上げるには、ちょっとした工夫とか「社員の一丸となった頑張り」とかだけでは実現不可能です。時代の変化に合わせて深く考えられたビジネスモデル全体の変化が必要になります。

そして当然、そういう「変化」に抵抗するタイプの「古参社員」もいる。

今の日本では、「抵抗する人」と「変革をしたい人」がお互い罵り合うだけで、全然具体的な話が積んでいけないことはよくあります。

結果として、「抵抗勢力をぶっ潰せ!」的な掛け声で「改革」っぽいものをぶち上げてみては、掛け声倒れの混乱状態に陥り、結局10年ずっと「責任を押し付け合う罵り合い」しかやっていなかった・・・というような事にもなりがちです。

ここで重要なのは、その「抵抗勢力」を糾弾し、攻撃して排除する・・・のではなくて、「敬意」を持ってその「抵抗勢力」がこだわっている理由を解きほぐしていくという姿勢です。

はっきり言って、「何の正当性もない抵抗勢力」が時代の変化にも関わらず温存され続けるということは、ほとんどありえないと私は感じています。

つまり、「逆の立場」の人から見れば「単なるエゴ」に見えるようなことでも、本質的に見れば何らかの「意味」が存在する。だから、ただ単に糾弾して排除しようとするだけでは抵抗されて押し合いへし合いになってしまいがちなのです。

特に従業員の平均年収を大幅に引き上げられるほどの「ビジネスモデル全体の転換」を行うには、何らかの「効率性の追求」が必要になってきますが、そういう行為が、顧客へのサービスの劣化を招いたり、必要な技能の継承を難しくしたり・・・といった「マイナス面」は当然出てくる。

「抵抗してくる敵」は「そういう側面」を思い出させてくれているのだ・・・という「抵抗勢力の機能」をちゃんと尊重するようにすれば、「進めていく改革」が細部まで配慮の行き届いたものになるんですね。

これは「正義」をぼやかすというよりも、自分側の正義の、もう一方に存在する「相手側が持っている正義」というものの存在を同時に認め、その上での解決策を考えていく・・・ということです。

結果として、「抵抗勢力」の代表的存在だった役員の権限を徐々に毎年の人事変更の時に話し合いの上で削っていって、最後は一年間ぐらいの移行期間を経て次の株主総会で退職していただく・・・というかたちで、横から経緯を見ている私から見てもちょっと歯がゆいぐらい気を使って「変化」させていきました。

正直言ってここまでの配慮が必要なのは地方都市だからで、大都会の環境ならばもう少しドライにやってもいいとは思います。が、そういうプロセスを経ることで、「新しい考え方」に「古い時代のへ配慮」を乗せることが可能になり、以降は社が一丸となって「新しいビジネスモデル」を、無理せず徹底的に追求していくことができるようになった。

その「合意」が取れるまでの時間はジリジリとじれったいものでしたが、いざ「立場を超えた合意」ができてからはスルスルと物事が進んで次々と問題解決が行えるようになり、本来人間社会というのはこうあるべきものだよなあ、という思いを強く持ちました。

この話は本書の中でももっと詳しく考察していきますが、ここまでの話だけでも、「責任のなすりつけあいの罵倒合戦」を超えて、「立場を超えた具体的な対話」をしていくことが、これからの日本にとって大事なことなのだ・・・ということがイメージできるかと思います。


●過去30年間経済が不調だったからこそできる「逆襲」


「立場を超えた対話」による具体的な解決を模索するセンスを、私は「メタ正義感覚」と呼んでいます。

あなたが考える「正義」と、あなたとは社会の逆側に生きる人たちが持つ「正義」、それは対立する事が多いでしょう。

しかし、どちらの正義も絶対化せず、「メタな視点(一段高いところから見つめる視点)」で、それぞれの正義を”対等に”扱った上で、具体的なレベルで解決していく事ができれば、延々と「正義」どうしをぶつけあって何もできないよりもよほど素晴らしい世界が開けるでしょう。

過去30年間、日本の経済は不調でした。そして日本社会全体で見ても、自信を持って進める方向性を見失って右往左往してきたことは否めません。

しかしそれは、過去30年間の日本は「片方だけの正義」を無理やり導入して押し切ってしまうことをしなかった・・・というポジティブな側面もあるわけです。

結果として、社会が完全に分断され、「同じ国民」としての共有軸を失ってしまったアメリカのような国にはない可能性を持っているということでもあります。

ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットのような上の世代の「アメリカの富豪」は、(実際に毎日食べているかどうかは別として)「好物はビッグマック」などと答えて「同じ国民としての紐帯」を確認することが「良いこと」だとされる倫理観を持っていましたが、今やアメリカの富豪はありとあらゆるライフスタイルの面で「普通のアメリカ国民」とは隔絶しきっており、むしろ「時代遅れのライフスタイル」だとバカにするような傾向すらあります。

一方で日本では、かなりの富裕層でも貧困層でも地方でも都会でも、コンビニとラーメンと漫画を共有しており、既に幻想に近くなっているとはいえ「みんないっしょ感」の紐帯が一応は維持されている。

日本人の「みんないっしょ幻想」がギリギリの土俵際で完全な分裂を防いでくれたおかげで、私が意図的に長い時間をかけて職業的にやったほどのものでなくても、日本に生きる日本人であればそれぞれなりの「縦の旅行(by カズオ・イシグロ)」をして生きてきた体験が残っています。

「俺たちvsあいつら」と陣営分けをして「あいつら」を排除していく「アメリカ型の改革」を必死に拒否して、内輪で固まってグズグズと過ごしてきた時間があるからこそ、「アメリカのやり方が全てではない」となっていく今後の時代に、

「どちらの側の言い分も吸い上げて具体的に一歩ずつ対話的に変化させていく時代」

…のトップランナーになれる可能性を持っているのです。


●「メタ正義感覚」を取り戻せ!

「メタ正義感覚」という聞き慣れない用語は難しげですが、「縦の旅行(by カズオ・イシグロ)」的なセンスを持っていることが多い日本人なら、本来自然的に備えた「特技」であったはずのものです。

しかし、そういう「日本的な調和」なんかぶっ壊さないといけないのではないか?もっと徹底的なアニマルスピリッツによるイノベーションが生み出すディスラプティブな変化なしには、このグローバルエコノミーにおけるメガコンペティション時代をサバイブできないのではないか?…という横文字の焦りゆえに、自分たち本来の強みを失っていた部分でもあります。

とはいえ、「メタ正義感覚」というのはグダグダで何もできない、何も変えられない社会になることではありません。あるいは「間を取って」式に安易に妥協するのでもない。

思い出してください。過去30年の平成時代に行なってきた、「○○をぶっ壊す!」「改革を断行せよ!」という掛け声ばかり勇ましく、現場的に一つひとつちゃんと変えていく事を軽視しすぎたために、「変えろ!」「変えるな!」的な全力の押し合いへし合いに時間とエネルギーを空費してきた事例の数々を。
しかし、立ち止まって考えてみれば、そもそもの最初から「抵抗勢力側の事情」もちゃんと吸い上げて細部の調整を重ねていれば、スルスルと「変革」だって進んだのではないでしょうか?

先述の「平均給与を10年で150万円上げることができたクライアント企業」で起こした「変化」は、ある意味で「口を開けば改革が必要だと言うが何もできない」タイプの企業よりもよほど大きな「改革」が起きていますが、それはわざわざ「抵抗勢力」を名指しで罵倒して、強引に押し切ろうとしたからできたことではありません。


●「ウサギと亀の競争」の「亀」のように「ちゃんと本当に変えていく」

それでも10年ぐらい前までは、「グーグルやアマゾンやフェイスブックのような巨大IT企業に、もう社会全体の運営を任せてしまった方が、時代遅れの”国”なんていうシステムに頼っているよりいいんじゃないか」といった、今考えるとメチャクチャな事を大真面目に言っている人がいっぱいいました。

しかし、今はそういう巨大IT企業が人間社会にもたらした「マイナス面」の方にちゃんと着目する動きが強まり、彼らへの目線は物凄く厳しくなってきています。
確かに短期的には、「抵抗勢力をぶっ壊せ」方式で一切コミュニケーションを取らずに排除してどんどん変革を進めた方が効率的ではあります。

しかし、「抵抗勢力をぶっ壊せ!」で「ぶっ壊された」方も同じ社会の中で生き続けているので、いずれ「ぶっ壊された恨み」は積み重なって反撃してくる。

今後さらに「アメリカ的世界観がそれ以外を完全に排除できる時代」が退潮してくれば、「ぶっ壊す!」型のイノベーションもどんどん難しくなっていきます。
「アメリカ型に抵抗勢力をぶっ壊して変革した」ぶんは、今後「アメリカ的世界観による世界支配力」が退潮してくると、どんどん維持が難しくなってくる。その時に、「ウサギと亀の競争」で言う「亀の戦略」を取った日本社会が、社会内部における分断を癒やし、具体的な変革を地道に積み上げていき、いつの間にかウサギを追い抜いてトップの躍り出る世界が今後やってくると私は考えています。
 なぜ、そんなことが可能なのでしょうか。


●「日本にとっての繁栄のボーナスタイム」が来る理由

少し「歴史的に大きな視野の話」をします。

日本にとっての「繁栄のボーナスタイム」が来る理由は、人類社会における「アメリカ」の役割の変化によってもたらされます。

2021年8月の米軍アフガニスタン撤退劇では、機体にしがみつく現地の人々を振り落として空港から飛び去る米軍輸送機の生々しい映像が、世界中に衝撃を与えました。

20世紀の歴史を扱ったドキュメンタリーで見る、1975年のベトナム戦争末期の「サイゴン陥落」の映像をそのまま再現したような、衝撃的なシーンでした。

結果として、「アメリカが中東で戦争をし続けていた20年間」が終わり、もっと広く見れば20世紀の米ソ冷戦終結以降「世界がアメリカのやり方に無理やり付き合わされる30年間」が終わったと言えます。

あの映像がショッキングだっただけに、「もうアメリカの時代は終わったのだ、これからは”アメリカの秩序に挑戦する側(たとえば中国)の時代が来るのだ」という短絡的な意見も見られますが、私はそうは考えていません。

上記の1975年「サイゴン陥落」の時も「アメリカの時代は終わった」とさんざん言われましたが、その後どうなったでしょうか?

むしろ、その後「アメリカに挑戦する側」の共産主義圏の国々ではベトナム・カンボジア戦争や中越戦争などの内輪もめが続き、それぞれの国の中でも非常に強烈な強権的支配が数々の悲劇を生むなど、むしろ「アメリカに勝利したはずの側」の混乱が続きました。

一方のアメリカは、ソ連との経済規模の格差が大きく広がったデータを元に勝算を持って軍拡競争を仕掛け、ソ連の疲弊を招いて後の共産圏崩壊に繋がる流れを引き起こしました。

だから、むしろアメリカが「自分単体だけでなんでも無理やり支配しよう」という野心を捨てたことは、結果として見れば逆に「アメリカ側の陣営の勝利」に繋がったことになります。

そして、ここからが私たちにとって重要なことなのですが、その時期に日本では、世界の時価総額ランキングの上位のほとんどを日本企業が占めるような世界一の繁栄を謳歌し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれる時代に繋がりました。
20世紀の「米ソ冷戦」における米軍ベトナム撤退以後の状況変化によって、世界一の「繁栄のボーナスタイム」を昭和末期の日本が引き寄せられたのです。

同様に、今の「米中冷戦」における米軍アフガニスタン撤退以後の状況変化によって、世界一の「繁栄のボーナスタイム」を引き寄せることが、今回も可能になると私は考えています。


●「アメリカ側」に立つ世界第三位の経済大国

なぜそういう「国際的状況変化による繁栄のボーナスタイム」が日本にやって来るのか。その理由を非常に単純に説明すると、要するに日本が「日米同盟によって強くアメリカ側と結びついた、世界第3位の経済大国」であるからです。

「アメリカ単体」だけで「世界の秩序を完全にアメリカ流に取り仕切るだけのパワーがある」時代には、日本なんてある意味では「いてもいなくても同じ」です。黙ってアメリカさまの影に隠れて黙々と付いていく以外にやることはありません。

しかし、「アメリカ側」と「アメリカの秩序に挑戦する側」がどんどん拮抗してきて、アメリカ単体だけでは世界を統治しきれなくなった時、「アメリカ側にいる世界第三位の経済大国」が持つ意味はとてつもなく大きくなります。

「キャスティング・ボート(casting vote)を握る」という言葉があって、これは政治において1位と2位の勢力が拮抗すればするほど、3位のまとまった大きさを持つ勢力の決定が持つ意味が物凄く大きくなる構造を指します。日本人にとって一番身近な例は、最近の自公連立政権における公明党の役割がそれにあたるでしょう。
同じように、「アメリカ単体」で世界を統治しきれなくなるにつれて、「アメリカサイドに立つ第3位の経済大国日本」の意味が非常に大きくなり、アメリカから見ても日本の繁栄を邪魔することはできなくなります。そして一位の国と三位の国にガッチリ組まれると厄介だと考える中国サイドから見ても、日本は敵対しづらい存在になる。

もちろん、「アメリカの影に隠れて大人しくしていればよかった平成時代」とは全然違う主体的な意志を持った一貫したアクションが必要になりますが、その「情勢」をうまく捉えれば、 昭和末期の日本が世界一の経済的繁栄を引き寄せることができたような「繁栄のボーナスタイム」を、今回も引き寄せることができるでしょう。

読者のあなたにこの本でお伝えしたいことは、昨今の人類社会全体の「こうした変化」により、日本にとって『繁栄のボーナスタイム』のようなものを引き寄せることが可能な情勢になりつつある、ということ。

そのアクションの「方法」について書くのがこの本のねらいです。


●「果てしなく分断される世界」の共有軸となる日本


単に「経済的繁栄」だけの話でありません。これからの日本には、果てしなく分断されていく世界の「共有軸」のようなものを提供する運命が巡ってきます。

米中冷戦時代の世界的な対立構図を一言で言えば、それは「欧米的なシステム」と「それ以外のローカル文化」との対立です。

バイデン大統領が「アフガニスタンの女の子の人権のために米軍の命を危険に晒すことはない」と断言したインタビューが非常に話題になっていましたが、そうやって「欧米以外の価値観」で社会を運営したいエネルギーが世界中で噴出するのを「欧米社会による仕切り」だけでは押し止められなくなってきている。

「女性の高等教育禁止」「音楽を楽しむのも禁止」といったレベルのアフガニスタンのタリバン政権ほど「欧米的価値観」を全否定するようなものでないにしろ、中国共産党政府も「欧米のやり方」に真っ向からぶつかる国の運営方法を強烈に推し進めています。

「人類社会における欧米のGDPシェア」が下がり続ける今後の時代には、単に欧米的理想を上から目線で現地社会に押し付けるだけでは成り立たなくなってきています。

日本社会は、既に明治維新から150年以上「西側諸国」の一員として生きてきた歴史と、「欧米とは全く違った歴史的バックグラウンド」を”両方持つ”稀有な国です。

つまり、「欧米諸国側の事情」もわかるし「欧米的理想」にも馴染んでいるが、「欧米文明にのしかかられている側の気持ち」も我が事としてわかる。そして、世界経済の中で一定の大きさを占めていて、その気になりさえすれば、まとまった発言力を確保して状況を変えていくだけのパワーも持っている。

単純な欧米的理想の上から目線の押し付けだけではその理想ごと吹き飛んでしまいかねない時代に、あくまで「アメリカ側」の主要国の役割を確実に演じつつ、「欧米文明にのしかかられている側の気持ち」をちゃんと理解して、両者を繋いでいくことができる。

そんな国は私たち日本以外にありません。

●「欧米的理想」の先鋭化に対する反発が高まっているのは欧米諸国内でも同じ


「果てしなく先鋭化する欧米的理想」への反発が高まっているのは、「欧米諸国vs非欧米諸国」の間だけではありません。

「欧米諸国の中」でも、一部の果てしなく先鋭化する「欧米的理想」と、それ以外の保守派との対立は強烈になってきています。

なかでも最も深刻な分断があるのがアメリカで、「トランプ元大統領の支持者層」とそれ以外の米国民では、もう全く違った世界を生きているような状況になってしまっている。

2021年1月には、選挙結果に納得しない一部の人びとによる議会議事堂占拠事件すら起きてしまった。

しかし日本では、アメリカほどの社会の分断は起きていません。

なんとなく「自分たちの普通」を共有できているので、ほんの一部の過激な意見だけが通ってその他の「普通の人」との断絶が社会を麻痺させてしまうような事は起きていない。

もちろん、「最も先端的」な意見を持っている人にとっては、その状況自体が腹立たしいということもあるでしょう。

日本では「諸外国では当たり前になっているような先進的な考え方がいつも否定されてしまって息苦しい」という不満を持っている人も一部にはいるでしょう。

しかし、過去20年の「人類社会に対するアメリカの支配力が強すぎた」時代に、変化に抵抗して「立場を超えて共有できる土壌」を守ってきた日本だからこそ、これからの「米中冷戦時代」において「両者の言い分を両方尊重しながら一歩ずつ変わっていく」ことができるのです。

過去20年間「変われない日本」と嘆かれ続け、「日本がダメな理由」だった部分が、これからの時代の「世界を統合する希望」となるわけです。

そのためには、「俺たちvsあいつら」と敵と味方に分けて延々と糾弾し続けるだけしかしない、過去30年の平成時代の日本に染み付いた「議論のパターン」を克服しなくてはいけません。

私たち社会の内部における「俺たちvsあいつら」的な分断を、一歩ずつ具体的な積み重ねで乗り越えていくことが、果てしなくふたつに分断されていく人類社会を繋ぐ架け橋となり得るのです。


●あきらめたらそこで試合終了ですよ?

確かに、昭和末期の世界一の経済的繁栄を謳歌した日本と、今の日本では色々と事情が違う部分もあります。

特に人口構成が全然違っていて、世界一レベルの少子高齢化が経済的なパフォーマンスにおいては大きな障害となることは間違いない。

しかし人口ピラミッドが年長者に寄っていることは、時流に流されすぎずに深く達観した決断を社会全体で持てる可能性にも繋がるでしょう。

昭和末期のように、ニューヨークの有名なビルを次々と買い占めるようなことはできなくても、逆に「分断され続ける人類社会を繋ぎ止める共有軸としての尊敬」と、「それに伴う1億数千万人が普通に豊かな暮らしができるレベルの繁栄」ぐらい手に入れば、私たちとしてはそれで十分な成功といえるはずです。

日本のネットのSNSでは、「日本なんてもうダメだ!という理由」をいかに賢そうに述べられるか競争のようなものが開催中ですが、そういう競争に参加して「いいね!」をたくさんもらっても、それによってなにか未来が開けてくるわけではありません。

議論の仕方を変えて、繁栄のボーナスタイムを招く。

冒頭で紹介した「スラムダンク」の安西先生のセリフのあとには、以下の非常に有名なセリフが続きます。

「あきらめたら、そこで試合終了ですよ?」

絶望的な状況に見えた「湘北vs山王工業」戦において、桜木選手のリバウンドといった「この部分なら自分たちが勝てる要素」に着目してそこから徐々に戦況をひっくり返していったように。

色々と絶望的にも見える日本の将来を、一歩ずつの具体的な積み重ねによってひっくり返してやりましょう。

私たちならできますよ。

序文(はじめに)は以上です。

定期購読者の方は、ここ以降の原稿もお楽しみください。

第1章

第2章

第3章

第4章

第5章

定期購読者以外の方も、以下のマガジン形式で購入されればいちおう読めます。(ただその場合、来年1月に本が出たらそっちも買ってくれたら嬉しいです。随分とまた違った原稿になりそうなので、読み比べる価値もあるかと思っています)



ここから先は

0字

最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?