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放送も不可能にした「沖縄戦」:一戸信哉の「のへメモ」 20221228

先週、2022/12/23から二回にわたり、私のゼミの4年生たちが沖縄に関連して取り組んだ映像制作について、お送りしています。9月に実施した現地取材では、「平和の礎」のある沖縄県営平和祈念公園も、学生たちと私で、訪問しています。広い敷地の中に、32府県の慰霊碑が建てられており、新潟の戦没者を弔う「新潟の塔」も建てられています。

新潟の塔

こうした各県の慰霊碑とは別に、戦没者や戦地別の塔もいろいろ立っています。その中で、私が注目したものの1つが、「沖縄放送局戦歿職員慰霊碑」です。なるほど、日本放送協会で、沖縄の放送に携わった人の中にも、犠牲になった方はいるのだろうと手を合わせただけだったのですが、帰ってきて調べてみると、「放送史料集 沖縄放送局」という資料が残されていることがわかりました。NHK放送文化研究所の雑誌「放送研究と調査」の2013年1月号に、 宮川大介「『放送史料集 沖縄放送局』~戦火の中に消えた放送~」という記事が掲載されています。

https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/pdf/20130101_0.pdf

「放送史料集 沖縄放送局」は、1971年3月に発行されているもので、内部資料だそうです(したがって、まだ原文を読むことはできていません)。

沖縄放送局は、昭和17年に開局していますが、試験放送のスタートは昭和16年12月、「臨時放送」として、太平洋戦争の勃発を伝えています。そしてその後の電波管制により、場所を特定されないために、電波を止められてしまいました。結果、その後の放送は、電波ではなく、「有線放送」として、沖縄電気の送電線を介して放送が送信されることになりました。聴取可能範囲は、沖縄電気の配電区域である、那覇市周辺に限られました。
有線による限定的な放送も、沖縄戦の開始により放送スタジオなどが破壊され、昭和20年3月25日、すべての放送機能を失っています。

こうした「挫折」の中で、職員30人余りのうち8人が死亡しました。戦後、戦没職員の冥福を祈り慰霊碑を建立されています。

2022年9月に、沖縄県立博物館で撮影した写真を確認したところ。開局当時の写真などが展示されていたことに気が付きました。

昭和17年の開局時の写真


沖縄戦の際の出来事を記録した岩崎命吉局長の手記
本土復帰後のNHK開局に関連した資料


戦後沖縄で放送がスタートした頃の話は、川平朝清さんに、息子のジョン・カビラさんがインタビューしたJ-WAVEの番組が、公開されています(2019年6月23日放送した内容を再構成したもの)。この番組の中で、「親子ラジオ」が始まる経緯も紹介されています。


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