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「昼間は老鄧(鄧小平)のことを聴き、夜は小鄧(鄧麗君)を聴く」:一戸信哉の「のへメモ」20220515

5/6放送のテレサ・テン特集に関連して、二回記事を書きました。新しく得られた学びはいろいろあるのですが、そろそろ今回のシリーズは終わりにします。もう一回だけおつきあいください。

テレサ・テンの生涯をおいながら、彼女の「文化パワー」の側面を再度位置づけ直した論文に、丹羽文生「鄧麗君(テレサ・テン)と「二つの祖国」 : その政治的パワーについて (特集 世界に浸透する文化パワー)」海外事情68 (5), 94-107, 2020-09、があります。彼女のことを扱った「先行研究は見当たらない」としたこの論文では、彼女と親交のあった人々の著作をベースに、テレサ・テンの「政治的パワー」を明らかにしようしています。

「外省人」の居場所

敗走する国民党とともに台灣に移住してきたテレサの家族は、いくつかの土地を転々としたあと、台北県蘆洲郷にある眷村に移り住みます。「眷村」は、台湾語を話せない「外国人」であった人々が、肩を寄せ合って暮らす場所であったと、この論文では書かれています。「眷村」で暮らす外省人は、1947年の二二八事件以降、もともと台灣に暮らしていた本省人を支配し弾圧した側と見られるわけですが、実際には「大陸反攻」を前提にした仮住まいで暮らしていて、「外国人」として優雅に暮らしていたわけではなかったようです。この論文の記述には、そのようなニュアンスがあります。そして家族を豊かにするという希望を背負って、香港ー日本で歌手としてデビューするのが、テレサ・テンであったということになります。

「テレサ演歌」の原点

テレサ・テンが日本でデビューしたのは1974年、デビュー曲の「今夜かしら明日かしら」は、営業的にはうまくいきませんでした(この曲は、のちに中国語版「不論今宵或明天」として「再利用」、セルフカバーされています)が、次に演歌路線に転じた「空港」が大ヒットします。今回の放送では、クレイジーケンバンドのカバーでお届けしました。

アグネス・チャン、欧陽菲菲に続く形で日本に登場した彼女を、「テレサ演歌」というヒット路線で売り出そうとした経緯は、あまりよくわかりません。ただ、平野久美子「テレサ・テンが見た夢―華人歌星伝説」(晶文社、1996年)を見た限りでは、台灣、香港時代にも、情感のこもった歌が歌えるように訓練されていた様子が書かれています。台灣のレコード会社ライフレコードのプロデューサ、姚暑笙さんは、「語尾を上げて歌うクセ」を矯正し、スローテンポの指導もしたとう答えています(51-52ページ)。また香港RTHKのプロデューサ張文新は、日本デビューの後「歌い方が数段うまくなった」として、情感のこもった歌い方ができるようになった点を指摘しています(57ページ)。

「昼間は老鄧(鄧小平)のことを聴き、夜は小鄧(鄧麗君)を聴く」

1979年、日本に再入国する際に、不正発給されたインドネシアのパスポートを使ったことにより、テレサ・テンは1年間の国外退去処分になります。これは日本と台灣「中華民国」が断交したことにより、出入国の手続きが煩雑になっていた状況が原因で、他の台湾人たちも同様に複数のパスポートを持っていたようです。結果彼女は、日本はもちろんのこと、台灣にも戻れなくなって、アメリカで1年数ヶ月を過ごすことになります。そして、台灣の国府は、彼女を不起訴とする際の条件に、「国府への協力」を求めたとされています。

「反共」に協力することになった彼女の歌は、大陸にほどちかい金門島から、大音量で大陸向けの宣伝として再生され、彼女自身も金門島に慰問にでかけています。国民党の意図が功を奏した、というべきかはともかく、1980年代前半から、テレサ・テンの曲は中国大陸で幅広く聞かれるようになり、それゆえに鄧小平の指導による「精神汚染一掃」のやり玉にあげられたといいます。ただ面従腹背、「上に政策あれば下に対策あり」の中国の人々、ことのときも、「白天聴老鄧、晩上聴小鄧(昼間は老鄧(鄧小平)のことを聴き、夜は小鄧(鄧麗君)を聴く)」といわれて、密かに人々はテレサ・テンの歌を聴いていたといいます。

このほか、日本語の歌を多くカバーしたテレサの功績、中台関係の雪解けにより大陸でのコンサートが実現されるかに見えたところで天安門事件が起きたこと、政治的色彩の非常に強かった彼女の告別式のことなどが、丹羽論文には書かれています。全体的には、一歌手としてスタートした彼女が、日本と中国語圏にかけて大きな影響力を持つにいたり、亡くなる頃にはソフトパワーとして大きな力を持ち、その影響力は今も健在である、といった内容になっています。

中国国内には、「鄧麗君音楽主題餐庁」(テレサ・テン音楽テーマレストラン)が各地にあるといいます。おそらくは中高年ターゲットの店かと思いますが、依然としてその影響力の大きさを感じさせられます。今回いろいろ調べて見る中で、一度行ってみたいと思うようになりました。

Photo by Wang Fonghu on Flickr.

鄧麗君紀念公園


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