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日本サッカーも日本社会も個人が分断されている

サッカー日本代表の東京五輪が終わりました。

とても素晴らしい戦いを見せてくれた選手たち、スタッフのみなさん本当にお疲れ様でした。

大会を終えて感じたことを書き残しておきたいと思います。

サッカーはチームでプレーするということ

元日本代表監督のオシムさんが準決勝のスペイン戦の後にこんなコメントをしました。

日本もプレーができることは示し、ボールをキープして連携を深めようともしたが、あまりにひとりでプレーしすぎた。あんなふうに個人プレーに走れば、コントロールとキープだけなら容易にできる。その結果、最後にあんな形で負けて何も得られなかった。

日本の中盤を牽引した田中碧選手はこんな言葉を残しています。

2対2だったり3対3だったりになったときに相手はパワーアップするけれど、自分たちは何も変わらない。それがコンビネーションという一言で終わるのか、文化なのか分からないですけれど、サッカーを知らなすぎるというか……。彼らはサッカーをしているけれど、僕らは1対1をし続けているように感じるし、それが大きな差になっているのかなと感じている

世界では「自分たちのサッカーが選べない」。U-24日本代表MF田中碧が東京オリンピックで実感した“11人対11人”で勝つという意味

試合の中で柔軟に変化をして、戦い方を変えてきたメキシコ、常にグループでの優位性を生かしてボールを保持し続けたスペイン、日本は統率されたディフェンスと久保建英選手と堂安律選手を起点に個人の力でチャンスをつくるチームでした。

サッカーの違いを見せつけられたわけですが、この違いをコミュニケーションの観点で考察してみました。

サッカーは、コミュニケーションのゲーム

サッカーは、コミュニケーションのゲームです。どんなに技術に優れた個人が集まっても、コミュニケーションが上手くないと勝てないゲームなのです。相手と駆け引きしながら、チームでコミュニケーションを取りながら戦うゲームです。相手の強味と弱味を把握し、自分の弱味を隠しながら強味を出す。それをグループで、チームで連帯してプレーするのが上手かったのがスペインでありメキシコだったのだと思います。

日本は、ディフェンスこそチームとして機能させられたけれど、攻撃面では個人で戦う術しかなかった。グループで、チームで連帯する為のコミュニケーションの習慣がなかったのではないかと思います。これはサッカーに限らず我々日本人が抱える本質的な問題のような気がしています。(後述します)

スペインもメキシコも個々の技術、強さはあるけれど、決して個人でプレーしません。常に周りと協調しながらプレーし続けていました。

この違いを生み出しているのは、コミュニケーション文化なのではないかと思うのです。

コミュニケーション文化の違い

サッカーの強い欧州、南米の国々は、コミュニケーションを前提とした社会がありますが、日本はどちらかというとコミュニケーションを取らずにすむような社会設計になっています。

接客もマニュアル化され、他人に干渉することをよしとしない文化が形成されており、コミュニケーションコストがかからない分、便利ではあるけれど、コミュニケーション能力は発展していかないという問題もあるように思います。そのため対人コミュニケーションが相対的に弱いんです。

欧州や南米の国に行くとよくわかるのですが、あらゆるサービスが人とのコミュニケーションの余地を残しています。チップ文化も未だに残っていますし、日常的にコミュニケーションが発生する量が日本とは違います。

我々日本人は暗黙の了解、空気を読みながら生活をするという独特の文化があります。それらが同調圧力を助長している可能性もあるのですが、これがサッカーにも当然影響しています。この文化の上に成り立つコミュニケーションはサッカーというゲームと相性が良くありません。

日本社会は個人が分断されている

私たちは、社会生活(学校や会社、その他のコミュニティ)において、自分の思ったことを伝えたり、ありのままの自分を表現する習慣があまりにも少ないのです。

「言わなくてもわかるよね」という社会で育まれ、

周りと違う意見をいうと、「あいつおかしくね」「やばくない」と言われるリスクに怯えながら生活せざるを得ない社会で生きています。

そんな環境では、自分を表現することが難しい。

自分を出すと、いじめられるリスクがあるから当然です。

更に、全体主義教育の名残があります。トップダウンで上の言うことに無条件に従う文化というのは、双方向のコミュニケーションが生まれにくいわけです。

つまり意見を出し、それを尊重しながらコミュニケーションを深めていくという行為が苦手です。これは私自身も異文化コミュニケーションを通じて苦手な部分だと感じますし、多くの日本人がそうなのではないでしょうか。日常的にこんなコミュニケーションをとる機会が少ないので当然だと思います。

サッカーにおけるコミュニケーション

スペインやメキシコ、ブラジルという国は、日本とは異なる様々な問題を抱えている国でもありますが、サッカーが常に強く、文化として成熟されています。

彼らは、日本とは違って、自分を表現することがベースにあります。わがままな個性も、人とはちょっと違った個性も尊重されやすい文化があります。サッカーにおいてはとりわけ個性が大事にされます。なぜなら彼らにとってサッカーは最高のエンターテイメントであり、サッカーの価値が高いからです。

つまり、コミュニケーションが根本的に違うわけです。

日本と世界のサッカーとの一番の違いは、技術でも戦術でもなく、コミュニケーション文化の違いだと思います。

自分を表現することが前提にコミュニケーションされる国と、自分を殺してコミュニケーションする国の違い。この違いはとても大きいのではないかと東京五輪サッカーを観て改めて感じました。

日本サッカーの現在地とこれから

日本はサッカーの強い国と渡り合えるようになるまでに強くなりました。

メキシコにグループリーグで勝利できたように、5試合やれば1,2試合は勝てるかもしれないというくらいまできているように思います。でも、スペイン、メキシコクラスを相手に勝ち越せるレベルに行くにはまだまだ足りていないと思います。

競技力の向上だけではもはや限界まで来ているように思います。育成も環境も、それ以外にもサッカーそのものの価値を高めていく必要があります。

自国開催でありながら決勝戦を地上波放送できないほどサッカーの価値が低い状態を変えていく必要があります。

でもそれだけではダメだと思います。

日本社会が抱えている問題、上述した社会と個人が分断されている問題は、サッカーで変えていける可能性があります。

日本に蔓延する同調圧力や全体主義教育の名残というのは、サッカーにはネガティブに働くということを理解すること。

そして、サッカーは人と人を繋げ、国と国を繋げるポテンシャルがあります。

今大会でオシムさん、田中碧選手が言ったように、1対1ではなくチームで、よりコレクティブにサッカーを捉えること、そして自分を表現すること、個性を尊重した上で成り立つチームを目指していくことで、サッカーが社会のモデルケースになることができると思っています。


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