継子の言葉の意味を考え抜いた先に見えたもの
先日、三者面談に行かなかった娘は、その時に提出しなくてはいけなかった提出物を持って担任の先生を訪ねたそうです。
「お仕事中だとわかっていたんですけど、電話かけてしまいました」
先生からツムギにどんな話をしたか、詳細は聞きませんでしたが、ツムギが話していたことを教えてくださいました。
「お母さんにツムギって呼んでほしいみたいですね。それから、敬語でしゃべるように言われるから、距離を感じるそうです」
実はこの話、半月ほど前に夫からも聞いていたので、あまり驚きもせず、先生にもその話をしたのか、という気持ちで「ああ、そのようですね」と苦笑いするしかありませんでした。
「それから、一緒にゲームをやっているときぐらい、悪い言葉使ったって、注意しないでほしい。
お父さんだって言ってるのに、ツムギばっかり。あ、ウチの家族、テトリス強いんです。と言ってましたよ。テトリスで、そんな注意するような悪い言葉って使うイメージ湧きませんね」
「えー、ゲームやっているときにそんな注意してたかしら?舌打ちとかはやめてって言ったと思いますけれど。それに、さすがに舌打ちしていたら夫にも言いますし、そもそもツムギには、お父さんは大人だから、注意しても直らないから諦めてるんだって話しているんですけどねー」
なんだか、冷静な先生に言われると言い訳がましくなってる自分がいて、穴があったら入りたいような気持ちになってきたところで先生に「ま、僕はその場にいたわけじゃないんで、なんとも言えないですけどね」といなされてしまいました。
「ようするに、お母さんに甘えたいんですね」
「彼女には彼女なりの理想のお母さん像があるんでしょうね」
「お母さんにもいろいろなお母さんがいて、言葉遣いを注意するお母さんだっているんだよ。と、自分からも説明しておきました」
強がっている言動の中にある、明らかな甘えん坊のツムギを、先生も気づいてくださったのでしょう。
さて、ツムギの呼び方と言葉遣い問題、どうしたものだろうか。
以前書いたこの記事を覚えていらっしゃる方は、おや?と思ったことでしょう。
一年近く前にこの記事を書いたときには、ツムギをツムギちゃんと呼ぶようになって、好転したように感じたことを記録していました。
逆効果だったのか???
先に、夫にこの話をされたときの、私の考えを述べておきます。
ツムギをツムギちゃんと呼ぶことについて
過去の記事に書いたように、これはわざと距離を置くようにと始めたことではなくて、初心に戻って、ツムギのことを大切に扱いたいと考えついたことで、私自身、明らかにこの前後で、ツムギに対する言動が柔らかくなったと感じています。
私、自分でこどもを産んでいたら、間違いなく、赤ちゃんのときからちゃん付けで呼んでいたと思います。
親子間の敬語について
これはちょっと語弊があって、親に対して敬語でしゃべりなさいと強要しているわけではないのです。
ツムギはとにかく、言葉が足りないので、思考を深めるためにも、単語ではなく、文章でしゃべるようにと促しているのです。
それと、お願いをするときの、態度や声色を含めて、相手が気分よくやってあげたいと思うような言い方をするようにしなさいと。
会話に感じる距離感について
ツムギが私に対して、距離を感じると言うなら、それは言葉遣いに関係なく、確かに距離があるのだと思います。
実際、一緒に住み始めたころよりも、いろいろ知った今の方が、心理的距離を感じているのです。
ツムギが理想の母親像を持っているように、私は私でツムギの言動に、娘だったらこうじゃないの?と疑問に思うことは多々あります。
それが私は大人だから、ま、そっか、いきなり家族になんてなり得ないし、徐々に距離が詰まっていけばいっか。と頭で割り切れるので、よーし、一旦他人の距離からやり直すか、となってしまうのです。
ツムギが感じる距離って、そういう私の心の変化なのではないだろうか。
全力で甘えたいと思いながら、その方法がわからず、受け入れてもらえないことにイライラを募らせるツムギ。
そうされればされるほど、頭で理解しつつも、感情が追いつかず、どんどん他人に戻ってしまう私。
たまごが先か、にわとりが先か。
私の価値観からは受け入れ難いけれど、一旦、ツムギの希望通りにしたら、状況は好転するのだろうか?
考えても考えても、答えが出ない日々。
私は厳しい?
いちいち五月蝿い?
それもこれも全部全部含めて、ツムギは全力で甘えたいの???
それだけ甘えたい相手なのに、その人が注意する言い方は直そうとか、その人が喜ぶように協力しようとか思わないの???
ケイトは怖いって言うくせに、強い口調で言い返したりするのはなぜ???
考えて、考えて、考えて、ハッとしました。
「私、そんなに怖くないよ。本当に怖い人を目の前にしたら、怖くて言葉なんて発することさえできないんだから」
ツムギに「ケイトが怖いんだもん」と言われるたびに、そうやって言ってきたけれど、この怖いって。
震え上がるような怖さのことを言っていたのではなくて、不安からくる、恐怖の方だったのかもしれない。
「ケイトに嫌われたんじゃないかと思って怖い」
「ケイトが離れていくんじゃないかと思って怖い」
「自分に自信がなくて怖い」
自分の気持ちも、主語も述語も、解決策も、何もかもわからないからくる怖い。
私がツムギに言ってあげなくてはいけないことは、「怖くないよ」ではなくて、「大丈夫だよ」だったのではないだろうか。
なんて考えることは自惚れなのでしょうか。
こういうことを、夫が考えてくれたらいいのに。
夫がツムギに諭してくれたらいいのに。
目も合わせず、小さな家で上手にすれ違いながら生活している間に、ツムギ自身、気づいてくれたらいいのに。
私は、他人のことは変えられなくて、自分が変えられることしか変えられません。
ツムギちゃんからツムギへ、丁寧語からタメ口へ、変えようとはまだ思えません。
自分の判断を信念と呼び信じて貫くか、自分の価値観を一旦横に置いて、全面的にツムギを受け入れるか。
まだ次の手は浮かばないけれど、どこかのタイミングではきちんと伝えよう。
私はツムギのことを大切にしたいからツムギちゃんって呼んでいるんだよ。と。
呼び方は、これからどんどん距離が縮まっていくうちに、いろいろ変わっていくかもしれないね。と。
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