星崎くんの危うさと娘のサッカー熱
ドラマ『最高の教師』が終わってしまいましたね。
私は、毎週夫と楽しみに観ていました。
九条夫婦素敵だなぁ、なんて、呑気なことを考えたりしながら。
生徒ひとりひとりの目が回を追うごとに真剣味を帯びていく姿に考えさせられる部分も大きかったけれど、ずいぶんと昔に過ぎ去ってしまった高校の教室は、今の私から見ると、現代の高校生が抱える問題を上手く表現しているなぁと、客観的に眺めていられる景色だったのです。
ところが、最終回、星崎くんの告白を聞いていたときには、心が震えました。
急に、現実に引き戻されたような、今の私に問題を突きつけているような。
はっきりとした注釈はなかったけれど、星崎くんの危うさは、いつも私が感じていた、ツムギの危うさに似ていると思ったからです。
ちょうどその日、ドラマの最終回を観る直前、私たちはサッカーを辞めたいと言うツムギと話をしていました。
以前私が、何でもやってもらえて当たり前と思うなら、サッカーは辞めなさい、と言ったときには、あれだけ、ツムギの居場所を奪うな!と泣いて睨みつけていたサッカーチームを、今度は辞めたいと。
クラスも一緒のSちゃんとKちゃんが、練習のときにベッタリしているのが気に入らない!
ツムギとペアを組んでくれるのは、どちらかが休んだときだけで、代わりでしかないことが酷い!
4年生が強くて、同じポジションの子がいるから、ツムギはスタメンになれない!
練習には行ってもいいけど、試合には出たくない!
ツムギは本気でサッカーをやる気がないから、自主練はしたくない!
みんなみたいに、サッカーで強くなりたいなんて思っていないんだ!
今は本気で絵を描きたいから、サッカーの練習をする時間がもったいない!
絵画教室に行きたいくらいなのに!
いくらでも、理由は出てきました。
でも、本音はそこにはないのではないかと感じました。
『居場所』と感じられなくなった。
それが理由なのだと思いました。
星崎くんの告白は、こどもの頃のエピソードにも触れていました。
わからない。みんなが言っていることがわからない。
なんで笑っているのか。
なんでそんな目で自分を見ているのか。
ドラマが終わった後、星崎くんが教室の中で見せる表情について、いろいろな場面と共に視聴者からのコメントが掲載されていましたが、あの様子は、私が何度か見ていた、サッカーの練習中のツムギ、ベンチにいるツムギ、試合中コートに佇むツムギ、円陣を組んでコーチの話を聞くツムギによく似ていました。
そして、ふとした時に感じる、世の中に絶望して命を絶ってしまうのではないかというツムギの危うさこそ、星崎くんのそれなのではないかと思いました。
だから、星崎くんの動機が弱過ぎると賛否分かれた結末でしたが、私には、とても腑に落ちるエンディングとなったのです。
私は、九条先生にならなくてはいけないのではないか。
九条先生は、自分が『教師』であるから、『生徒』に対して伝えなくてはいけないことがあると繰り返し話していましたが、そこに役割は関係ないのではないかと思いました。
私も、自分が『母親』であるから、『娘』に対して伝えなくてはいけないのではなくて、『大人』であるから、一番身近な『大人』であるから、まだ未熟で弱い『こども』の心を守ってやる必要があるのではないか。
『こども』のうちに。
『大人』の責務として。
そうしないと、そういう危うさを抱えたままの『大人』が、誰からも守られることなく、ひとり傷を癒すことなく、生きづらい世の中を生きなくてはいけなくなってしまうのではないか。
好きとか嫌いとか言っていられないと思いました。
私が身近な『大人』になってしまったから。
そこは、愛情があるとかないとかの次元ではなくて、そういう『運命』なんだと、割り切るしかないのではないか。
いずれ、ツムギに、本当の『居場所』を見つけてもらうためにも、今、ひとつの『居場所』をハッキリさせることが必要なんだと思いました。
ツムギのサッカー熱は、サッカーそのものに対する熱ではなく、人に対する熱量だったのではないかと思います。
だからこそ、チームを諦めて、絵に没頭していくツムギに、もう一度、そこにも『居場所』があると教えてやらなくてはいけないのです。
今のこどもたちは、とても大人びていて、うっかりすると大人とこどもの区別がわからなくなってしまいがちですが、ツムギも、星崎くんも、まだまだこどもなのだということを忘れてはいけなかったのです。