山形戦と山形と山形の人と
人生で数える程しか行ったことはないのだけれど、山形に対する思い入れは強い。
大学を卒業して数年後、大学時代の親友Kの葬儀に参加する為、友人たちと山形へ向かった。家業を継ぐ前段階として仙台の企業に勤めていた彼は、その年の2月早朝、冬のバイパスでスリップ事故を起こして亡くなってしまった。26歳だった。
仕事帰りのある晩、運転中に青森の同級生から電話が入り、Kの訃報を知った。運転することが出来なくなり、しばらく路駐して泣き続けた。翌日、無理を言って会社を休み、仙台で同級生たちと合流。1泊後、Kの葬儀が行われる白鷹に向かった。2月の山形は、寒く、美しかった。
葬儀後、納骨の為に彼の入る墓に向かった。小高い場所にある墓から、真っ白に染まった田園地帯と、その中を流れる最上川が目に入る。あまりの美しさにしばらく放心してしまった。
これまで何度か山形を訪れたが、運転中に「最上川」の文字を見る度に、Kの穏やかな表情とあの時見た美しい風景を思い出して胸が締め付けられた。他人の悪口を決して言わず、寡黙だけれど明るく、真面目、そしてスタイリッシュだった。自分にとって彼は、数少ない「山形の友人」であると同時に、山形の人=良い人というイメージを確立させてくれた人物だった。今回、モンテディオ山形との対戦で訪れたが、彼の持つ温かさ、優しさ、包み込むような空気感は山形という土壌があって形成されたのだと確信した。
大学時代の1993年、日本中をJリーグブームが席巻してはいたものの、ワールドカップ・アジア最終予選を生中継したのはNHK-BSのみだった。Kの住むマンションはBSが装備されており、サッカー好きの彼と自分の2人でテレビ観戦しようということになり、自転車でKのマンションに向かった。絶叫しながら応援し、2人でドーハの悲劇を見届けた。いい思い出だ。
山形市を舞台にした映画「おもひでぽろぽろ」ではないけれど、今回の遠征で自分は26歳の彼と一緒にスタジアムにいた。こんなに山形の人々が集まって、温かく熱い雰囲気の中で、彼を思い出さずにはいられなかった。もし彼が生きていたら白鷹から駆けつけていただろうか、あの時みたいにずっと笑みを浮かべてくれただろうか、子どもの手を引っ張っていただろうか。それは分かりようもないけれど、多分モンテディオ山形サポーターにはなっていたんじゃないかな、と勝手に思った。敗戦と同時に色々なことを考えながら、スタジアムを後にした。
人は様々な縁があって生きていることを、この年になると実感する。彼との出会いは、30年近く後の現在にまで大きな影響を及ぼし、自分を山形に繋いでくれた。敗戦は悔しいし、次は負けたくない。でも今回の遠征で、僕は山形という土地が大好きになった。出来ることなら、来年も再来年も対戦したい。そしてその時はまた、永遠に26歳の彼の思い出を連れて山形に向かおうと思う。
「今回ワールドカップには出場できなかったけど、30年後には本戦でドイツ、スペインを倒す。その時にはKの地元にも俺の地元にもJリーグクラブが誕生してて、J2で対戦するんだよ」ってあの日のKに言ったら「またまた(笑)」って穏やかに笑うのだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?