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明日を綴る写真館

予告編を観ていると、観ようかなと思うものが次々と出てくる。まさに劇場の思う壺にはまっている。
今までで一番と言ってもいいくらいの好みの映画に出会った。ハッピーエンドなのはもちろん、写真を撮ることを題材に、人生や仕事、家族などいろいろな視点で刺激を受けることができた。

古代からの様々なコミュニケーションを見ていると明らかなように、verbalなコミュニケーションは低水準(≠低レベル)なものであり、non-verbalとりわけvisualなコミュニケーションが高水準(≠高レベル)なものであるのは最近では生成AIなども同じような道筋を辿っているという点で共通だ。
しかも自分の場合には職業柄プレゼンテーションはするもののレポーティングも同等もしくはそれ以上に重要であり(本当はネットワーキングなども重要だが。)、それらは一部のプレゼンテーションスライドを除き基本的にはいずれもverbal、そしてその中でもwritten寄りなコミュニケーションに最も重点が置かれている。

そんなこともあって、visualなコミュニケーションをこれから勉強していかなければならないと美術史等の授業を聴講してみたり、名著Ways of Seeingを買ったり、そろそろ本格的なカメラを買おうと計画したりしていた。

そんな折に映画館でこの映画の予告編が流れてきた。これは観ないわけにはいかない。
正直、なにかの勉強になればいいなというくらいの気持ちで行ったのだが、観ているうちにどんどん引き込まれていって、冒頭の感想を持つほどだった。
美しい景観や何気ない風景もいいが、やはり人物の写真は格別だ。いろんな事情、感情、背景が複雑に絡み合い、いっときもとどまることなく流れていくその時間の全てを残すことは不可能だ。しかし一瞬一瞬の切り抜きが有するえもいわれぬ空気は、人生をかくも豊かなものにしてくれる。

「被写体を写すことだけが写真家の仕事ではないだろう。」

まさしくそうだ。彼らが撮影した人たちのそれぞれの一瞬は、被写体が生み出す風景ではあるものの、ただカメラという機械に撮影されるというだけでは不可能なストーリーに満ちている。そうでなければ、これほど多くの人が写真を撮り溜め、アルバムやPCの中に保管して懐かしむ(今はSNSに簡単にアップできるが本当に大切な写真はアップしていないのではないか。)こともないだろう。
それが動画ではなく静止画であったとしても感じられる(音を感じることもその一部だ。)というのは素晴らしいことに感じた。

ベテランカメラマンは言った。こんな感じの言葉だったと思う。

「写真には被写体が写っているのではない。写真には、それを撮った人間が映し出されている。」

これを聞いたとき、あ、自分の仕事も同じだと思った。verbalであるという点ではもちろん異なるのだが、アウトプットした人、資料を作った人が映し出されていると感じることは確かにある。レベルの高低とは別次元の話として、全力で考えて作られたアウトプットか、手を抜いて作られたアウトプットか、というのは意外にも伝わるものだ。そしてそれを感じ取った場合、そんなアウトプットをする人間とはもう仕事はしないと決めることも珍しいことではない。

このアウトプットでいいのだろうか、と不安になると夜も眠れない。相手と対峙することが怖い。そんなところも共通しているのかもしれない。人間を撮影するのが苦手だと言った主人公が、最後には笑顔で笑顔を映していた。そして自分も映されていた。全員が笑顔だった。

もちろん、笑顔だけが残す価値がある瞬間というわけではないだろう。祖母が死んだあの日に撮った家族写真は、明らかに残す価値があった。試合に負けた高校最後のテニスの試合も、酔っ払って妻のGの顔に齧り付いたあの瞬間も、きっと残す価値がある。そうだ、Gの両親との家族写真も撮ってあげよう。

こんなに素晴らしい時間をもっと残したい。それは最高にクリエイティブな行為であるとますます確信し、カメラを買うことを決意した。
まずはカメラを買うお金を作ろう。


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