関心領域
関心領域は自分にとっては難しく、最初はあまり意味がわからなかった。というかこういう映画も成立するのかという感じだ。
舞台はアウシュヴィッツ収容所。というよりその隣の管理者の家。
管理者の家庭の日常をただ描く。子供との戯れもあり、夫婦の諍いのようなものもあり、妻の母親の来訪もあり、極々平凡な日常だ。
唯一、隣接する収容所からの悲鳴や銃声が交錯する点を除き。
生活区域のすぐ隣でジェノサイドが行われている。その事実とどう向き合うのか。それぞれの登場人物の対比が面白い。
それ自体は映画の核心なのでここでは触れないとして、あの映画が僕たちに訴えているのは、見て見ぬふりをしない、ということなのではないか。
スケールは違えど、構造が似ている事態は非常にありふれたものだ。いじめは直接的な対比が可能だろうし、差別も同じ。もしかしたら貧困のような問題もそうなのかもしれない。職場では、自分がやるべきことや、それを代わりにやってくれる人に対する見て見ぬふりも溢れている。
我々の関心は、関心がある部分に引き寄せられる。そして見たくないものは見ない。これは事実であるがあまり意識されていない。
ほとんど全ての人間はスマホで見るメディアのレコメンド機能によって支配されており、場合によっては悪意ある何者かに視聴コンテンツ自体をコントロールされている(某国で某プラットフォームの視聴禁止が俎上に乗っていることは周知の通りだ。)。
問題は、そのこと自体を意識していないことである。
意識というのは厄介なもので、意識したとて人間は変わらない。意識では営業成績は上向かないとどこかの会議で偉そうに発言してしまった気がする(いや、いつもしている…。)。
しかし、意識しなければそもそも始まらない。差別は、意識される量が多いから問題になるのであり、本当のマイノリティの差別は問題にもならないのだ(YLMなど聞かない。)。
我々は、自分が意識できていないことを、どうやって意識するのだろうか。
この答えは単純で、まずは関心領域を広げることである。意識を向けることができる範囲を広げることで、初めて見えてくる問題がある。意識の範囲が広がれば、その中に含まれる問題に対しても感度が高まる。
映画が伝えようとしているのは、そうした意識の拡大の必要性である。収容所の隣に住む管理者の家族の平凡な日常と、収容所での恐怖とが対比されることで、我々は日常の中に潜む無関心という問題に気づかされる。その無関心が、いかにして巨大な悲劇を見過ごしてしまうかを示している。
我々の日常生活の中にも、見て見ぬふりをしている問題がたくさんあるのではないか。それらを無視することで、自分自身の快適さを保とうとしているのではないか。しかし、そうした無関心が結局は大きな問題を生み出すのではないか。
この映画は我々に問いかける。目を背けずに、関心を持ち続けることの大切さを。我々が無関心でいられるのは、誰かがその問題を引き受けてくれているからに他ならない。そこから目を逸らしてはいけない。
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