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恩師(高校時代①)

 私がマネージャーになった理由として、高校時代の恩師の影響があります。今回から、高校時代の思い出を振り返ります。私事ですが、少しお付き合い下さい。

 静岡県西部の公立高校

 私が通っていた高校は、静岡県西部の公立高校です。校舎が高台にあり、天気がいい日は遠く遠州灘の海が校舎から見えました。英国イートン校をモデルとし、ヤングジェントルマンの理念を掲げていましたが、校風はどちらかと言うと自由。文武両道を旨とし、部活動も盛んでした。特に、弓道部が全国制覇、男子バレーが春校バレーで3位に入賞、陸上競技部で同級生がインターハイに出場と、校内には活気が溢れていました。バスケットボール部はというと、私がいた3年間は、全国大会こそありませんでしたが、常に県2番手として東海大会には出場していました。

伝説的な顧問:O石先生

 顧問のO石先生は、赴任した公立高校全てを全国大会に連れて行くという伝説的な顧問でした。指導はとにかく厳しく、妥協を許さない熱血漢でしたが、進路指導や卒業生の面倒見はとても良い先生でした。エピソードには事欠かない先生で、練習中倒れた選手にカツ丼を出前して食べさせて復活させた話とか、体育館に迷い込んだハトを扉で挟んで女子マネを失神させた話とか、とんでも無い逸話が数多くあります。当時親交のあった愛知のI工大M電校と韓国遠征に行きましたが、現地でも大暴れしていました。お陰で?私はどこへ行っても、「あのO石先生の教え子か!」と言われるほどでした。

一本の電話で人生が決まる

 ある日、確か高校3年の春の球技大会の日だったと思います。突然、O石先生から体育教官室に来るよう、呼び出されました。ビビりながら入室すると、「進路はどうするんだ?」と聞かれました。私には考えがあり、「N本大学に行って、T木監督のバスケを勉強したいです。」と答えました。当時、N大T木監督は、月刊バスケットボールという専門誌に連載を持っていて、〝この監督はすごい人なんだ“と勝手に思っていたからです。それを聞いたO石先生は、「バスケ勉強してどうするんだ?」と聞いてきました。私は、「静岡に戻って、教員します。」と答えました。すると、O石先生はニヤリと笑い、おもむろに電話をかけ出しました。通話時間はほんの1〜2分でした。そして、「よし、電話しておいたから、決まり。行ってよし。」となりました。私は、「すげえ!電話1本でN大推薦決まっっちゃたよ!」と内心で小躍りしながら退出しました。しかし、O石先生が電話した先は、N大学ではなく、N本体育大学だった(⁉︎)と知るにはそう時間はかかりませんでした。そう、O石先生は、N本体育大学のOBで、電話の相手はN本体育大学のS水監督だったのです。この電話1本で、私の人生がゆっくりと動き出しました。

 今回はここまでです。私の私的な回顧録にお付き合いいただきありがとうございます。次回は、さらに「恩師と舎弟」の関係についてお伝えできればと思います。

#バスケ #マネージャー #恩師 #静岡県公立高校 #西山台


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