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甲斐慶太朗プロフィール

甲斐慶太朗 / 1990年福岡生まれ。

▼erinoa design lab founer&地域デザインプロデューサー

▼コワーキングスナックn計画 co-founder

16歳から音楽業界にて仕事を始める。龍谷大学で地域政策を修める。​東京にてベンチャー企業2社で事業部立ち上げに関わる。​100年続く焼酎蔵に関わったことがきっかけで、延岡にIターン。2019年より延岡をブランド化する「n計画」を始める。


ストーリー

私は1990年に福岡県小郡市というベッドタウンに生まれました。小さい頃から人と関わることが好きで、暇さえあれば連絡網から友達に電話し「あそぼー」と声をかけてました。中学からはソフトテニス部に入部。その当時は少年ジャンプでテニスの王子様が流行っており、朝から晩までみんなでテニスをして遊んでました。

順調な学校生活とは裏腹に、小学生の頃から母が癌を患い、家庭環境は不安定なものでした。

大きな挫折と人生の基盤を作った10代

2006年の高校進学の年、鬱屈した家庭環境から「自立したい」という想いを持ち、埼玉県熊谷市にある航空自衛隊生徒隊に入隊。

毎日規則正しい生活をし、6人部屋に押し込まれ、集団行動でした。16歳から銃の分解や隊列を組んで歩行したり、2歳上の先輩が怒声をあげて部屋を破壊しにくるという非日常でした。1987年公開の映画、フルメタル・ジャケットのような世界です。

しかし、そんな生活にはうまく馴染めず、だんだんとついていけなくなり、いじめられ、たったの半年挫折。いま思うとただ辛い出来事から逃げていました。

すぐに福岡に戻り、博多青松という定時制・単位制という大学のような高校に通いました。そこは校則がなく、みんな私服、金髪etcという自由な場所。「個性も大事にしながら学業も伸ばしたい」という学校でしたので、劇団四季の団員、アイススケートで活躍する人、元カーレーサー、半グレ、途中で子供を産んでまた戻ってくる人など様々な人が年齢関係なくいました。日本一厳しい学校から日本一緩い学校に転校したと思いました。

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写真:博多青松高校

この高校は感謝してもしきれないくらい僕を助けてくれました。自衛隊のときもそうでしたが、なんでも自分の考えが正しく、自己中な性格だったので人と衝突することも多かったことを覚えています。

この学校では色々な人が色々な考えを持って自由に通っていたので、「あ、こんな考えもあるんだ」と自然に多様性を受け入れることができ、生きやすくしてくれました。

しかし、自由すぎて20歳まで通い、長老と呼ばれていました。笑

当時は好きだったバンド・ハイスタンダードに感化され、その学校に通いながら音楽業界で活動。担当楽器はベース。そこから今の仕事にも繋がる、アートワーク・営業・流通・企画を担当しはじめました。

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写真:ライブ活動中

人生を自ら選択する

小学生の頃から入退院を繰り返した母がいよいよ危ないとわかり、「このまま遊んでられない」と一念発起し、勉強。高校入学当時は60以上あった偏差値も30程度しかなく、英語もbe動詞すら分からなくなっていました。

1年間必死に勉強し、20歳でギリギリのギリギリで京都府にある龍谷大学政策学部に合格しました。20歳は本当に自分の中で激動の年でした。成人式が終わり、合格が決まったと同時に母は亡くなり、アル中気味だった父は本格的に飲みはじめ、そして東日本大震災がおこりました。

このまま自分はどう生きていくのか?落ち込んでいる父を置いて京都に行っていいものか?など様々自問自答をおこないました。結果として進学を選択をしましたが、正直なところ、その答えが正しかったか今もわかりません。

ただ言えることは自分の気持ちに従って選択をしたということ。今までの積み重ねで、父との関係は良好とは言えませんが、いまも後悔していないのは、自分で選択したから

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写真:大学の卒業パーティーにて友人と

地域について考える最初の1歩

大学では政策学部1期生として自由に地域政策を学びました。学校側も1期生+東日本大震災後で、様々な新しい取り組みや疑問を私たちに投げかけ、地域や人との関わりについてじっくり考えさせてくれました。

この政策は本当に街のためになるのか?この都市計画は今後も持続していけるようなものなのか?コミュニティとはそもそもなんだったのか?放送のあるべき姿は?etc...

高校から続けている音楽活動でも、変化がありました。ツアーで回った地域でも、勉強した観点から見始め、「この街は美観地区に設定されて、しっかりと歴史と観光を成り立たせようとしている」「この地域は清掃が行き届いて繋がりが大事にされている」など、地域の違いを体験しました。卒業論文では、自分の体験に基づいた音楽活動と地域活性についての論文を提出。

修行、修行、そして修行。

大学3年生の終わり頃、夢見る時代は終わり、就活時期に入りました。

音楽業界で活動している頃からステージに立つより、リーダーとして人の繋がりでイベントを組むことを中心に活動していたこともあり、「自分は表舞台より裏方のほうが向いてるなー」と考えました。

▼自衛隊の頃の経験から、統率のとれた大企業は嫌

▼どうせなら将来は自分のバンドのように、自分で動かせる会社を立ち上げたい

と2つを主に考えました。

会社のことは何もわからない状態でしたので、30歳まではまずは修行だーと東京の不動産ベンチャー企業(※自分がいた会社の事業部は株式会社ハッチワークとして分社化)で大阪事業部立ち上げの企画に携わりました。

駐車場の仲介部署に配属されたので、まずは大阪の中心部分のデータ収集から始めました。ゼンリンデータ、レインズなどに乗っているものもありましたが、駐車場はほとんど個人が持っています。そのため、朝から晩まで歩き回り、写真を撮影し、GPSで位置情報を本部に送り、電話で仲介可能か聞くという泥臭いことを1年ほどおこないました。約2万件以上の大阪の駐車場データを2人で集めて、無事にスタート。

大学卒業して東京配属が決まり、半年ほどでシェアオフィスの事業部に配属。施設運営・顧客管理システムの構築や、入出金管理の方法、コミュニティ構築など様々勉強しました。自分でこういう施設にしたいという想いがあっても、すでに会社から提示されていたブランドがありましたので、思い叶わず。

次の会社ではもっと早期の段階でブランド構築に関わりたいと考え、メーカーのベンチャー企業(株式会社TWO)に入社しました。

事業部立ち上げメンバーとして参画し、さらに武者修行。PR会社からの派生したメーカーでしたので、「世間に響くマーケティングやブランディング、ストーリーはどういったものか?」といった考えで設計したコンセプト・商品はヒットし、3ヶ月で億単位を売り上げるバケモノのような会社でした。

人の出入りも激しかったですが、1年で倍以上の人員採用や、誰しもが知っている企業との契約、毎日が刺激的で体育祭の前夜のような雰囲気が最高でした。

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写真:同僚との写真

この会社で働いた内容が今の私の仕事の基本となっていますが、この会社で一番学んだのは、地域に埋もれている商品をPR視点からリブランディグし、価値を再発見する手法でした。

この考えは地域にとっていま一番必要とされている視点ではないでしょうか。

実際に地域に入り込む。

​そして2017年秋頃、宮崎県延岡市にある100年続く焼酎蔵の当時の社長から、「蔵で働きながら新しいことをしないか」というお誘いをうけました。延岡は父の地元でもあり、0歳から毎年夏冬は遊びにいっていた地域でした。画像11

写真:愛宕山からの延岡

27歳という自分のキャリアの分かれ道の年で、急に飛び込んできた「東京」か、「地方」かという選択肢。30歳までに独立をしたかった私は、魅力的なお誘いに大変悩みました。

父もすでに延岡に戻っており、アル中なのも気になっていましたが、東京の今の会社で働くことに対しても不満はありませんでした。

2018年4月、大学で勉強したことも、メーカーで培ってきた経験も活かされると感じ、思い切ってIターンしました。

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写真:焼酎を売る姿

1年間、前職同様に日本中を飛び回りながら、延岡のみならず様々な地域を視察しました。そしてこの時期に「何ができるのか」「何を求められているか」「何がしたいのか」の3点を見つめ直しました。

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写真:日向市のドラゴンアカデミーにて

この時期に宮崎のローカルビジネスで活躍されていた、こゆ財団理事長の齋藤潤一氏とひむか-Bizセンター長の長友慎治氏に出会いました。この2人に出会ったことにより、私のビジネスは「地域×ソーシャル×デザイン」を元にしたものにしようと方向性が決まりました。



n計画の始まり

そして2019年5月に、現在のパートナーである建築家・山根俊輔氏と出会い、n計画(のべおかブランディング計画)の構想を始めました。

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山根氏は乾久美子建築設計事務所に所属中に、延岡駅前複合施設エンクロスの設計で延岡と関わっていました。

焼酎蔵の社長が持っていた物件をリノベーションして事業を始めようと思い、山根氏に相談していましたが、投資額も大きくステイしてしまいした。その際、山根氏から「駅前で事務所を構えようと考えている」と話をうけ、じゃあ事務所にするだけだと面白くないから、コワーキング+スナックで延岡の人たちが集まれる場所を作ろうと盛り上がり、始まりました。

コワーキング+スナックにした理由はまた別記事で語ろうと思います。

9月から初めてのクラウドファンディングを行い、2ヶ月で合計124万、達成率248%、91人から資金をいただきました。

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そして、12月7日より「昼は仕事場、夜は語り場」がコンセプトのコワーキングスナックn計画がオープン。

地域活性化の起爆剤となる動きが注目され、元ZOZOの田端慎太郎氏を始めとする各業界の著名人の話題になりました。メディア掲載においては、MRT(テレビ・ラジオ)、NHK、ワイワイテレビ、朝日新聞、宮日新聞、Yahoo!ニュースなど多数掲載いただきました。

本当にありがとうございます。

1月からは延岡の新しいイベントの形として始めた「1日ママ」企画も好評を得て、3月まで予約が入り始めました。こちらも内容はまた別記事で記載します。

最近では、母校である龍谷大学のシンポジウムに呼ばれて話すなど、講演活動も始めました。

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今後について

地域で活動し始めると「ここには何もないよ」という声が聞こえてきます。​

北海道を除く、46都道府県を踏破した自分が感じたのは、発信・魅せ方が違うだけで本質的にどの地域にも誇れる「人・物・仕事・歴史」は必ずあるということ。

地域の捉え方を変えてブランド化していくお手伝いを致します。​

また、noteを活用し、情報発信もしていきますので皆さまのご支援をいただけますと幸いです。どうぞ宜しくお願いいたします。




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