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脚本家の仕事はショッピングモールを設計するのに似てるんじゃないか。あるいは最初に裸踊りする人

昔、家を建てるように映画を作りたい、という文章を書きました。

今は主に脚本家として仕事をしていますが、今の感覚はもう少し違って、ショッピングモールを設計するのってこんな感覚じゃないかな、と思っています。
これは監督と脚本家という立場の違いかも知れないし、映画とドラマというメディアの性質の違いかも知れません。

映画にせよドラマにせよ、起承転結の構造があって観た人の心を動かそうとしている映像作品は、人の心を動かす機能を持った要素を組み合わせるようにして作られています。
その感じが「リビング」「キッチン」「バスルーム」「トイレ」「寝室」って色々な機能を持った空間が組み合わさって出来上がる「家」を建てる感じに思えたんですよね。
基本形は決まってるけどそこから立ち上がってくるものは千差万別。
心地よさを得るには機能を突き詰めていく必要がある。

脚本家として、多くの方が観る連続ドラマなどの映像作品に携わる場合、その感じに似てるけど少し違うなと感じていて、家ってほどパーソナルな空間じゃない、自分の心をさらけ出す割合より、もっと公共空間を作る感じというか、みんなが快適に居られるような場所を目指す感じな気がします。
「入口」があって、「メインストリート」に沿って色々なものを売っている「ショップ」がたくさん並んでいて、「フードコート」とか「エスカレーター」とか「エレベーターホール」とかがあって……という。

監督やプロデューサーの方々もそれぞれ描きたいものや目指したいジャンルやムードを持っていてそれらをすり合わせていく必要がある。駐車場は広くしたいとか、内装はこういう雰囲気とか、やっぱり芝生のエリアが欲しいよね、みたいな。
この役者さんは毎話必ず登場させなきゃいけないとか、このロケ地は何日も借りられないからシーンを短く、みたいな、実際に撮影する上での諸事情も、敷地面積に収めなきゃならないとか、各フロアに案内図ないと困るよね、みたいな。
あと、感情の「動線」を意識する感じとか、「トイレあちら」みたいなサインというか、機能への補助線が多い感じとかも、家よりショッピングモールぽいなと。

そんな感覚はあるものの誰かと話したりしたわけじゃないので、他の脚本を書いている方がどんな感覚でいるのか、聞いてみたいです。
あと、色々書きましたが当然ショッピングモールを設計した経験はないので、建築士の人のお話も聞いてみたいですね。

いずれにせよ、自分にとって心地よい、面白いと思えるものを目指すし、上にリンク貼った文章にも書いたのですが、ちょっと本気で探検したら、ドキッとするような魔物が棲んでいるような「隠し部屋」みたいなものを作りたいなっていう思いはいつもあります。
いやーでも、それ隠す必要ないだろ、隠そうとしてるのは恥ずかしいとか思ってるからだろ、もっとちゃんと照れずにバーンとやれよ。その不格好なオブジェを隠し通路の先にしまっておかないでメインの吹き抜けに堂々と置けよ、というのが、今自分の目の前の課題、越えなければいけない壁ですね。
ほんと、書くことを生業にしたいとか言っておきながら、どこかで自意識を守りたいブレーキが働いてるの、我ながら本当矛盾してるじゃねえかと思います。
自分は今めちゃめちゃ売れたい、ヒット作出したいと思っているのですが、明確に超えるべきいくつかの壁の一つがこれですね。

それでいうとちょっと話は違うけど、脚本の打ち合わせ、いわゆるホン打ちにおける脚本家って、最初に裸踊りする人っていう印象を最近持ってます。

ホン打ちって多くの場合、脚本家、監督、プロデューサーというメンバーで行われるのですが、基本的に脚本家が書いたものに対して、監督・プロデューサーがどういう感想か、どう変更していくべきか、っていうプロセスなので、最初の叩き台は常に脚本家から提示するんです。

だから、大まかな流れとかムードの方向性とかは事前に共有しますが、具体的に「何を面白いと思っているか」の提示はまずは脚本家から。だから、最初に監督とプロデューサーの前で自分の精神をさらけ出して、その振り付けにダメ出しをもらう立場、みたいに感じています。
最初に裸踊りする人。

しかしまあ、それを裸踊りと表現すること自体に、自分自身の感じている照れとかおそれとかがにじみ出てて嫌になりますね。まあまずは好きに踊ったらいいじゃないか。そのまま大通りに放り出されるわけではないのだし。ね。

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