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自律を目指した組織から中央集権の組織へ


事業の再構築や変革の際に「自律」は必要なく、強力なマネジメントによる情報収集と指示系統で、事業をコントロールしないといけない。

安定期では「自律」が活きてくるのかもしれないが、その体制では市場の競争相手が誰でどんな能力を持っていて、どう対抗しないといけないか、誰にも分からない。分からないというより、「自律」により発生する責任があるので、個人には決められない。

特に、技術者やそれまでキャリアを積んできた人間にプライドといった呪縛があると、客観的に競争相手の能力を測るなんてことをしたらその先に受け入れがたい現実があったりもするし、禁忌にも等しい。

中央集権によって誰かが色々なことを定義づけしないと、何も決められない。変革が必要なのに「自律」なんて言ってたらスピードも出ないし、精度もあがらない。

優秀な人材が揃い、フットワークの軽さも中小企業のそれを凌ぐ大企業でも、再構築や改革を実行する組織では中央集権型でマネジメントされる。

ただ、「自律」とひとくくりに言っても、通常業務を品質や速度に問題なく回せる・細かいカイゼンが各現場である程度は能動的に行われるレベルのものなのか、自らの裁量権内で高度な意思決定を行える・自らで裁量権を広げてより高度な意思決定をしようとするレベルのものなのか、よく企業で掲げられる、"社員がイキイキと働ける自律組織へ~"のようなスローガンの中ではとても曖昧。

曖昧ではあるけども、少なくとも赤字からの脱却など変革期に個々が自分で考えて行動するというのは、再構築と変革には全く必要ない。変革期には、組織を存続させるためにトップが選択した、他の誰にも負うことのできないリスクを伴う意思決定の遂行以外に必要なものはない。

少なくとも、ちゃんとした収益もあがらない状態で「自律」にこだわるのは、それを理由にした逃げ道作りと受け取ってしまう。順番が逆。

「自律」から距離を置いたときに、「マニュアル的でコマのように扱われるのが嫌だ」という社員が出てくるというのはよくある話。でもそれは「自律」という、成果基準が一部または大部分で曖昧になる体制ではなく、指示された業務の遂行という、誰にも平等で明確な成果基準になったときに、自分の能力では危うくなると感じての発言がほとんどなので、それに振り回されてはいけない。

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