# 132_ふぁぶびおとーぷ?

 みなさま、本日はどうぞよろしくお願いします。改めて、本日、講師を務めさせていただきます、島影と申します。本日なんですが、前半はぼくの活動の話をさせていただいて、後半はみなさんに手を動かしてもらうというか、ワークショップのような時間をつくろうと思っております。ぼく自身の活動は、なかなか解決が難しい社会的な課題に対して、少し特殊な方法でアプローチしていて、少しみなさんの日常から距離があるような内容かもしれないのですが、その活動の根本というか基礎の部分はみなさんの日常にもつながるものになっていると思っていまして、そのつなげていく作業のようなことを後半のワークショップでできればと思っています。

 ですので、前半のぼくの話は、後半のワークショップであれこれ考える時のヒントみたいなものとして聞いてもらえればと思います。なので、最初に後半のワークショップのテーマというか問いみたいなものだけ、先にお伝えしようと思います。質問としては「あなたにとって居心地のいい日常の中の行為はなんですか?」というのを考えていただきたいです。それは、散歩するとか、料理をするとか、映画を観るとか、今日着る服を選ぶとか、なんでもいいです。それが誰に頼まれているわけでもなく、特に意識もせず自分一人で勝手にやっていることで、その時間がなんとなく自分にとって居心地のいいものであるのが好ましいです。後半に改めて時間を取って考えますので、自分にとってのそういうものはなんだろうなあ?というのを考えながら、ぼくの話を聞いていただければと思います。
 それでは、ここからぼくの活動についてお話しさせていただこうと思います。まず、ぼくはですね、FabBiotopeというプロジェクトに普段は取り組んでいます。ファブというのもビオトープというのもなかなか聞き慣れない言葉ですよね…。プロジェクトという言葉も普段あんまり聞かないかもしれません。それぞれの専門的な言葉の定義というか意味みたいなことはあんまり重要ではないので、ぼくなりに噛み砕いて言ってみると…。
まずファブに関しては、自分の本質が表現されるようなつくる行為みたいなイメージです。さっきみなさんに質問した、自分個人にとって大切な日常行為、その積み重ねによってなにか形になって、自分以外の誰かにそれを見せたりできるようになるようなイメージです。次にビオトープですが、小さな生態系という意味なんですけれど、例えばぼくは今新潟の田舎の方に住んでいて、ここらへんの昔からある戸建ての家というのには、なんか小さい畑というか庭というか、そういうのがある家というのが多いんですね。かくいうぼくが住んでいる家もそうなっていて、昔からあるご近所さんの家も畑みたいな庭みたいなのが付いてます。そうすると色んな虫とかトカゲとか出てくるわけですね。小さいハチとかが頑張って花の受粉とかをしています。それで小さな水路みたいなのがあって、小さな森みたいになってるんですね。あくまで小さいというのが重要で、大きな森の中に家があるみたいな感じではなくて、小さく自律した森みたいなものというイメージです。なんか町の中とかに近所の人しか行ってないような小さな神社みたいなのがあるじゃないですか、あれも木々があって虫とか鳥とかが住んでいて、その中に建物があって、小さな森感がありますよね。あれはイメージに近いかもしれません。そういう、あくまで全体が見渡せる程の広さで、しかしそこにはなるべく色んなものが生きていて、でもそれぞれが無理をしてないというか、淡々と生きてて、「よっ」と挨拶するくらいの距離感で、なんだけどひとつの全体性があるというかまとまりがあるみたいな、そういうものをビオトープ、小さな生態系と言ってみたいと思います。
 ぼくのプロジェクトでは、さっきお話したファブを実践する人、そのつくり手がつくる関係性とか、つくり手同士の関係性みたいなものをビオトープと言っています。もっと端的に言うと、つくることによってできるつながりみたいなものです。ぼくは、そういうつくり手が増えること、そのつくり手がつながりを持っていくことで、今までありのまま存在することが難しかった新しい人間像を生んだりできるんじゃないかと思っています。
ぼくの場合、プロジェクトで対象としているのが、目が見えづらい弱視の人と情報技術=テクノロジーを扱うエンジニアの人です。まず、弱視の人なんですけれど、目が見えづらいと生活の中で色んな課題が出てくるんですね。私たちが生きている社会というのは、やはり多数派である目の見える人を中心につくられているものが多く、当然目の見えづらい人にとって生きやすい環境ではありません。でも一部の弱視の人はなんらかの自分の工夫によって、その摩擦みたいなものを少なくしている人というのがいます。そして、ぼくは、その弱視者の方の工夫、それをつくっている行為だと思っています。例えば、今取り組んでいるのが、会社勤めをされている弱視の方がいらっしゃるんですが、その方の工夫、独自の生き方をつくっている様子やインタビューを撮影して、ドキュメンタリーの映画を撮ろうとしています。その方は中途の弱視者の方なんですけれども、色んな支援技術を自分なりに組み合わせて今も同じ仕事を続けてらっしゃいます。そういった工夫を中心としながら、家族との関係性や職場の人との関わり方とか自分の生き方というか、新たな日常とか生活をつくっている様子を撮りたいと思っています。そして、それを似た課題感を持つ人やその近くの人が鑑賞して、その人にとって参照になるようなものとして映画の形で流通させたいと思っています。あとは、それを起点にその人と授業をつくって、その人の知をより直接的に似た課題感を持つ人たちに届けていくようなことができるといいなと思っています。なので、その人が自分が生きていくために行なっていた工夫みたいなものが、実は似たような誰かにとって意味のある知になって、またそれを流通させたり学びの場をつくったりすることで、そこにつながりが生まれていくということなんです。
 次にエンジニアの人の場合ですけれど、この人の場合、目の見えづらさとか、そういった一見してわかりやすい他者との違いというのはないんですけれど、クリエイターとしては少数派の人を対象にしています。分かりやすくいうと、ぼくの友だちですね(笑)。というのも、ぼく自身、一応デザインとかアートっていうなにかつくることの教育を受けてきたわけなんですけど、他の同級生なんかと比べてすくすくと健常なクリエイターとして育つことができなかったんですね。ぼくの問題というか少数派性というのは、本当に自分ごとで取り組むことができる課題にしか、自分の専門性とか技術みたいなものを使えなかったということだと思います。そのひとつとして、ぼくは自分の父親が脳梗塞になって、その後遺症で文字が読みづらくなる失読症になったのをきっかけに、文字を代わりに読み上げるメガネでOTON GLASSというのを仲間と一緒につくったんですけど、それもまさに自分ごとの問題につくり手として取り組んだ結果のものだと思っています。
 OTON GLASSの活動を経て、色んなエンジニアの人と出会っていくんですけど、やっぱり友だちになるのは、ぼくと同じく、もしかしたら自分しかこの課題に取り組んでないんじゃないかっていう、すごく個人的にエンジニアリングをしている人なんですね。そして、そういう人は往々にして、やはり自分の作品制作や研究活動をしている人です。そういう人というのは、目線が合うというか、取り組んでいる課題とか持っている専門性とかは違うんですけど、ありえたかもしれない自分みたいに感じるというか、自分ごとの課題に自分の専門性を使っている人だから、似たような少数民族としてけっこうありのままの状態でコミュニケーションができるのです。
 彼らとやっているのが、弱視者の人の場合と同じように、個人的な実践というのがあるので、そこで生まれた知を届けていくということです。具体的には自らに似たようなエンジニアの人たちに向けたものです。それで今つくっているのは、OTON GLASSを教材にした授業です。OTON GLASSというのは完全に自作なんですね。大きなメーカーが巨大な資本によって開発した仰々しいものではなくて、私を含めて二〜三人の小さなチームでつくり続けてきたものになっています。重要だったのは技術の民主化です。コンピュータとか人工知能といわれるものとか3Dプリンターとか、そういう今まで特定の人にしか扱えなかったものが、ここ十年くらいで一気に民主化が進んで私たちのような個人でも扱えるようになったのです。なので、そういうすでにある個別の技術を組み合わせて体験できる道具をつくっていて、その個別の技術のレベルが、ある意味自分たちとは関係ないところで上がっていって、それによってある程度、強度のある体験を実現する道具がつくれてきたんですね。なのでイメージとしてはホームレスの方の技巧みたいなものにすごく近いと思います。彼らは、町の中にあるものを拾ったりもらったりして、それを組み合わせて自分が寝るところをつくったり、生活に必要なものをつくったりしていて、それで生活がつくれていれば、それは十分に強度があるものなのでそれで十分で、ぼくたちのOTON GLASSのつくり方というのもそういうものになっています。
 なので、授業の台本のような書籍をつくっているんですが、そこではOTON GLASSのつくり方をワークショップの形式で教えるような内容になっていて、OTON GLASSを再現することを通じて情報技術を学ぶようなものになっています。また、ぼく自身がその当時活動の中で起きたことなど、OTON GLASSとぼくの物語というのもお話する内容になっています。そうすると情報技術の意味が変わるというか、こういう見立ての使い方もあるよっていうのが伝えられるものになるんじゃないかなと思っています。もっと具体的にいうと、情報技術のスキルの学びの場とか、そのための情報とかはすでにかなり発達しているんですけど、そういうものではなくてもっと個人的に情報技術を扱う型みたいなものが伝えられるといいなと思って設計してます。授業の対象は講師に似た人たちになるので少数派性を持ったエンジニアの人たちになります。その人たちが個人的にエンジニアリングが実践できるようになることで、まず自分自身の個別性を守ることができる。次にまた同じように、その個人的な実践で生まれた知を誰か自分に似た人におすそわけすることで、その人に友だちができていく…その連鎖みたいなものを長期的に期待しています。
 そして、弱視者の人との実践、エンジニアの人との実践、それを経てぼく自身が一緒にプロジェクトを共にできる人が少しずつ増えていく。ここで、プロジェクトってなんなのかっていうと、ぼくなりには「遊び」ってことなんだと思います。ぼくの場合は一緒につくることを通じた遊びという感覚なのですが、だから感覚としては、ぼくは小さい頃近所の友だちの家でレゴブロックやおもちゃなどで友だちと壮大な物語を展開していたんですが(笑)そういったものに近いです。ときにはその中で怒ったり泣いたりするわけです。なのでFabBiotopeのプロジェクトを通じて、ぼく自身がありのままの状態で遊べる人が増えていく。そしてその別々の友だちを誘って一緒に遊ぶ。それが次段階の弱視者の人とエンジニアの人が協働して発明を実践するという段階です。また、この実践も同じように、生まれた知を他者に届けられるように、映画や書籍にして伝えていきたいと思っています。
 以上が簡単なんですけれども、ぼくの活動紹介になります。弱視者のことも情報技術のことも、あとぼくが今日はお話したようななにかをつくっていくプロセスを設計したりそのための方法論を設計したりする専門分野をデザインリサーチというのですけれども、どれも普段みなさんにとっては聞き慣れないことかなあと思っていて、分からないことも多かったと思うので一度ここで質問の時間を取ろうかなと思います。

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Keisuke Shimakage

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