見出し画像

ケーキを買った帰り道、駆け回った休み時間のこと

2023年9月17日(日)晴れ

昼間は家で編集の仕事をした。なんとかひとつは締切までに終えられそうでよかった。でももうひとつ抱えている大きめの映像制作のほうは、なかなか予定通りに終わりそうになく、そのことを考えると気が沈む。

今日はさくらの誕生日。16時前には仕事を切り上げ、誕生日カードや花束を買いに行った。本当はもっと前から準備ができたら良かったけれど、とにかく今年は時間がなく、落ち着かないまま当日になってしまった。でも事前に買い物する場所を調べていたので、一旦行動し始めると、案外順調に進んだ。その後ふたつ先の駅まで、事前に予約していたケーキを受け取りに行った。お店でケーキを待っている間、ワクワクするような、少し照れくさいような。「プリンセスのケーキでお待ちのお客様!」と大きな声で呼ばれたときには、さすがに少しむずがゆかった。

お店を出たのは17時過ぎごろで、準備したいことの半分くらいが終わっていた。外はまだ明るいけれど、確実に夕方の太陽になっていた。空がとても青く、スッとした気持ちで歩いて帰ることにした。私は今日、ケーキを買って帰る。

縦に長い公園の横を歩いていると、2組の親子がドッジボールをしていた。男の子がボールを投げるときに、「〜参上!」と言いながら投げていたのを何度か聞いたけれど、どうしてもこの「〜」の部分が聞き取れなかった。私は小学生の頃、「ピーマン、たまねぎ、にんじん、ほい!」の「ほい!」の部分で投げていた記憶がある。

当時10歳前後だった私は、当たり前のように20分休みのチャイムが鳴ると校庭に跳び出し、ドッジボールやサッカーをしていた。たった20分のその時間が、1日のメインイベントだった。今となってはちょっとパソコンの前で文章を考えていると、20分なんて本当にあっという間に過ぎる。この時間感覚の変化について、人生における相対的な時間の大きさが変わるからだとどこかで聞いたことがある。このことは割と腑に落ちている。20分、1日、1年というまとまった時間が年齢に対して占める割合がどんどん少なくなっていく。私のじじばばはよく、10年前くらいのことも最近の話として語る。

一旦家に帰って、再び食料品の買い出しへ。買い物の途中でさくらから電話があり、予想以上に早く仕事が終わったという。この時点でまだ私はスーパーにいたので、急いで必要なものを買って家に向かい、料理を始めた。すぐにさくらが帰ってきたので少し待たせてしまう。鶏もも肉の照り焼きステーキを作った。私はあまりレシピ通りに料理をするのが得意ではないのだけれど、久しぶりに割と忠実だったと思う。レシピに従えば、ちゃんとそれなりのものは出来るのだと実感。美味しかったけれど少し味が濃く私の好みではなかったので、レシピで基礎を押さえつつ、それを土台に工夫してみようと思った。おそらく何か調味料を足すのではなく、素材の味を活かす引き算になるような気がする。

食後は少し散歩に行き、帰ってからケーキを出した。全然段取りも良くなかったけれど喜んでもらえて、なんだか達成感があった。さくらが、小さい頃は誕生日をもっと意識していたけれど、今では「今日は誕生日だ」と自分に言い聞かせていると言っていた。一年ずつ年齢を重ねていくことの実感が昔のほうが大きかったとのこと。お祝いする側としては切ないけれど、分からなくもない。こうやって時間がどんどん短く、あっという間に感じてしまうことへの寂しさがありつつ、そういうものなのかなと思ったりもする。

私は生まれ、ずっと昔から脈々と続いている時間の流れの一点に飛び込んだ。無関心にも思えるような着実さで、一分一秒と進む流れのなかを自分の力で前へ泳ごうとすると、ときに流れに飲まれ、またあるときは急ぎ過ぎてしまう。ただ浮いているだけでも、どれだけその場に留まろうとしても、結局は流れに身を任せていくことしかできない。最近そういうふうな感覚を抱くことがある。どうせ流れていくのだから、好きなところで深く深く潜って、好きなときに息継ぎをしようと思う。

でも正直私はまだ、流れる一分一秒のできるだけ多くの瞬間を、あの20分休みのようなとてつもない密度で生きてみたいと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?