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自己紹介、私が科学者になりたい理由と、なりふり構わずやる理由

不可能をぶち壊すような研究がしたい!そう思うきっかけは、「どうせ死ぬなら何しても無駄」と人生に失望した時、科学者たちが不可能を克服してきた姿に惹かれたから。どうせ死ぬならだれに何と思われようが知ったことか、なりふり構わず勝ちに行こう、と考えました。自分が何者だとか分相応だとかに考えを巡らす時間があるなら、筋書き (エリートコース) にはないところに強引に道をこじ開けたっていいじゃない笑。本業とは別口でお金をつくるルートも開拓します笑。

(趣旨がすこし変わりますが、こちらのブログ記事の焼き直しです。)

「死」について考え、努力するのは無駄と生きる気力をなくした小学生時代

最初に死を意識したのは小学生の時。当時の友達がふと「100年後には俺たちみんな死んでるよな」と口にしたとき。「死ねばどうなるだろう?」と考えたのが始まりでしょうか。「寝ているとき意識がない状態を考えて、永遠に何もない」という状態を想像しましたね。永遠に何もない。。。底知れない恐怖に胸を突き抜かれた想いでした。それ以来、死を考える度に、その恐怖が頭をよぎるようになりました。

私は、小さいころから、よくいろんな疑問を父にぶつけていました。「死ねばどうなるか?」についても、いろいろ考えてみたものです。「心はどこにあるの?脳、心臓、それとも?」「死ねばどこにいくの?」「幽霊なるものが存在したらどういう状態?ガス状生命体?意識はあるの?」「天国や地獄、前世や来世はあるの?」「自分を、あるいは意識を複製や分割できるの?その時分は自分と同じ、それとも違う人?」「自分の意識だけ永遠に残すことはできないの?」。。。このような問いに父は付き合ってくれました。いくらでも考察はできるけど、答えは現時点でもわかりませんね笑

死後の世界だとか魂なるものの是非については何とも言えないけれども、死について、小学生なりに私がだした答えはこちら。「この世に存在するものには全て寿命がある。人を含む生物全て、生物がいる星、宇宙、人を構成する原子ですらも、いつかは終わりを迎える。終わりを迎える運命に逆らうことはできない」と思ったのです。その時私は、「どんなに頑張っても死ねば何も残らない、だから努力しても意味はない」と思ったのです。そして、人生に失望し、努力することを辞めた

こちらが小学生の時の学級文集の将来の夢を書いたページです。皆明るい未来を書いていますね。小学生にして、将来先が見えないとか書いているのはかわいくないと思いますね。ちなみに私の回答、「十年後:今のまま、二十年後:無職、五十年後:遊ぶ、何歳まで生きたい?:?歳 (本音は死にたくない)」。まさにNEET笑。NEETという言葉が生まれたのが1999年、1986+12=1998、なんとNEETができるより早くそうなりたいと思った小学生笑。当時の私を動物に例えると、「なまけもの」という印象でしょうね。見た目は、所謂「ダメ王子」みたいな印象かな笑

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努力に意味を見出せない次は、人を関わる意味を見出せなくなりました。「死ねば何も残らない。どうせ死に無になる運命なら何もする意味を見出せない」等といって、分かったつもりで世界を達観した気でいましたよ。だから、人の気持ちも、分かったようなつもりでいました。話さなくても、言動からくみ取れるのだから問題ない、と思っていたわけです。そして、いまはそうではないことが良く分かっています。

科学者になった未来の自分として:知識の全てを得た訳でも無いのに、まるで神にでもなったかの如く、一方的に決めつけるのは、偏見と先入観でしかない、と思います。実際見た訳でもないのにね。逆に言えば、先入観や偏見に捕らわれず、目の前の現実を正しく評価することが、実験科学者としては大切だと思っています。

気持ちが理解できないとか、コミュニケーションが出来ないというより、頭の回転の速さや分析力が災いして、必要以上に見えすぎる状態、と後に分析しています。見たくないものまで見てしまう状態ですね。

これは止めることができません。ゲーム等でよくある常に発動する能力みたいな状態でしょうか。ある意味呪いみたいなものですね笑。慣れるのに25年以上かかりましたが笑。後にこの迷惑スキルは、意識してやっていることは努力による蓄積、無意識でやっていることが才能という気づきと組み合わせ、人の能力を吸収するスキルや推理のスキルにレベルアップするのですが笑。

周りと心を次第にかわせなくなる日々、次第に友達は離れていきます。相手に避けられていたか、こちらから避けていたのかは、今ではどうでもいいことです。既に過去であり、怨恨はありません。当時の人と今会えば、新しい人間関係をつくりなおす的な態度で臨みます。お互いに、過去と同じではないはずですからね。

人と心を交わせなくなった私がすがったのはゲーム。今思えば上を目指すわけでもなく、ただ現実から逃げるためにそこに向かっていたのでしょうね。そんな自分を受け入れるのが嫌で、今の自分でいたくなかった。当時は私は自分が嫌いでした (今は自分が好きです)。だけど「死の恐怖を知ったせい」で逃げ出す (死ぬ) ことが何よりも怖かった。そんなあるいみ拷問のような状態でさえ、永遠に今が続いてほしい、進歩はいらないと思った。苦渋の二択の中で、心が擦り切れて発狂しそうな思いで生きていました。ちなみに、精神的にひどい状態だった中学生の私でしたが、後に小学生の夢のようにNEETになることはなく、自殺やそれに近いことを考えることはありませんでした笑。

科学者、不可能をぶち壊す可能性を追いたい!

そんなクソ野郎を変える運命的な出来事が起こります。たまたまテレビでやっていた、とある科学番組の特集、画面に映る科学者は「死に抗えるのではないか」「不老不死を目指す」といっていました。最初は「何コイツ、馬鹿じゃねぇの、そんなの無理に決まってるだろ」と思いました。しかし、思い返してみると、「今では電気があり、電話で遠くの人と会話し、テレビでは直接見れない映像が見えた。外では車が走り、飛行機で人は空に行き、人類は宇宙にすら行っている。全部、昔は誰もが無理だと思っていたことだ。脈々と続く歴史の中で、不可能の壁を越えてきた人たちがいた、と。その流れを繰り返し、知識が受け継がれた先に今がある」ということに気づき、ハッとしました。私はその科学者の背中に魅せられた。彼らのように、いつか私もこの手で不可能をぶち壊す、と心に決め、科学者になることを志します。科学者という職業、仕事をするためには博士号という資格が必要と知る。じゃあとりあえず大学入ろうか、ということで勉強をやり始めます。これが中二の終わりくらい。この出会いと心境の変化が、NEETにならなかった理由ですね笑。

死ねは何も残らないのだとしたら、恥をかこうが馬鹿を見ても残らないという見方もあるでしょう。その上で守るべき名誉はないと考えることもできます。「一度しかない人生、どうせなら見れる限り大きいバカな夢を追いかけてみよう」と思いました。私で言うそれは、「絶対に越えられないと思っていたこと=死という現象 (生命に限らず、原子や宇宙などの終わりも含め、その全て)を超えること」に相当します。いけ好かないクソ野郎をぶん殴ってやる、という感覚ですね笑。

いきなりはこの相手は倒せないでしょう。まずは人間の寿命を超えなきゃいかんね、ということでバイオ系を選択。当然私一人の力では勝てないと思うし、地球上のほとんどすべての人を味方につけるくらいしても勝てるかは分からないレベルの化け物だから、足りない能力は他の人と強力して補おうと思った。そこで意味がないと思っていたコミュニケーションに意味を見出し、人を理解することが大切だと思うようになりました。力を合わせてでかい敵を倒せ!ゲームの話で言えば、「他のプレイヤーとの与えられたルール内の競争」ではなく、「他プレイヤーと協力してゲームマスターに挑む」方がロマンだと思うのです。私にしてみれば、「死」という存在がゲームマスターなのかな、と。故に人間の中で自分が序列何番目か考えるのはどうでもよくなりました。漫画ONE PIECEで言うところの「海賊王に俺はなる」宣言くらいぶっ飛んでると思いますが、思いついたからには自分でやるほうが面白いと思います笑。

正直、今の研究は「バベルの塔」みたいにみえる

 ウィキペディアより、バベルの塔の説明。全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。 — 「創世記」11章1-9節

研究もまさにこういう状態ではないか、と思うのです。専門が違えば言葉も違います。研究者の間ですら、このような状態です。研究者ではない人と会話すると、もっと通じないですね。それこそ、非オタからオタクを見たような状態、といったところでしょうか。その分野の中で誰が凄い仕事をしたか、と同じ分野の中で競争しているような印象を実際にやっていて思います。正直、これではドングリの背比べのようだ、と。私が目指した科学者は、こういうことではないのです。バベルの塔で言うところの、天を目指した塔を建てることを目指すべきだ、と。すなわち、個々の現象や分野に固執しないで、研究者もそうでない人も協力して、自然の摂理を解き明かし、超えていくことにロマンがあるのではないか、と私は思います。

専門に特化する事が悪いとは言っていません。特化する事は必要なことです。その中で成果を出すことも大切なことだと思います。論文や講演等、アウトプットの方法が間違っているとは思いません。ただ、その中のどれが優れいてるか、という議論は正直私には興味が持てないのです。どれが優れているかではなく、全部合わせたとしてどこにたどり着くかを知りたいし求めたいのだと、人間との競争より協力のほうがいいと私は思うのです。実際のところ、お金や職をめぐる競争の中では、そのような比較も大切な指標なのは事実だし、納得します。一方で、その大きさを比べることが目的になるのは違うのではないか、と思うのです。戦うべき相手は人間ではなく、自然の摂理そのものなのではないか、そう考えると、ライバル側の人間は敵というより味方だ、と。

もちろん、知識や知見が蓄積した現代では、一人で複数のテーマを抱えるには限界があると思います。その上で、自分の立ち位置を定める意味で、専門は必要だと思います。それでいて、研究を実際にやっている人たちと、それ以外の人たちにも乖離があるように思います。これもまたバベルの塔のような状態なのかな、と思います。そのギャップを埋め合わせることができたら絶対面白い、と私は思います。私はギャップを埋める役より、現場で進めるプレイヤー側やマネジメント側をやりたいですね笑。そこは、適材適所で周りに頼る、という方向で笑。

なりふり構わず使えるものは全部使ってやる!目指せ、悪の組織の親玉スタイルの社会貢献笑

人生は順風満帆にいけば良いのですが、時に向かい風はつきものです。誰かと衝突したり、運の巡り合わせがよくなかったりで、チャンスが掴めないこともあるでしょう。例えば、エリートコースでなければ諦める、というのは違うな、と。恵まれていようと、そうでなかろうと、プライドに固執しなければできることは増えるはずです。正攻法だけで戦う必要などないだろう、と。頭を下げたっていいんです。死ねは何も残らないというのなら、恥をかこうが馬鹿を見ることなんてどうでもいいくらいに思っているのです。 別に科学者、研究者としての能力だけで戦う必要はないよね。私が人生で培ったあらゆる能力、あらゆる繋がりの全てを動員して、勝ちに行ったっていいじゃない?本業以外のところからお金を働かずにとってきたっていいんです。そういうお金で自分や他人を雇用したり、活動経費にしたっていいんです。

どんなに頑張っても手の数は二つ、頭は一つ。優秀な人間が一人で何かをするより、1000人くらい集めたほうが早いでしょうね。スポーツ等では10対10のような条件を揃えた勝負で競いますが、ビジネス等では、1対100万とかでも問題ないわけです。研究もそうだし、多くの場合はこちらの競争なので、謎のフェアプレー精神なんて必要ないのです、ゴールも人それぞれ違います。加えて、人それぞれ、得意、苦手が違うので、自分が一人で頑張るより、周りを認め、一緒にやるほうがずっと強いと私は思います。周りと強調する上で、自分のポジションをはっきりさせる意味で比較は大切ですが、どっちが上と下とか言うは話には私は興味がありません。自分にないスキルを他人からもらうほうが、もっと大きいことができるはず、と。

一方で、競争社会ですから、将来を危惧して、夢と生活の中で揺れている (研究生活の先の将来に不安を抱く) 人が多いのも事実です。夢を見れる業界全般に、人の夢を搾取して生きている人間が存在していて、それは気にくわない、とも思うのです。そういう業界は決まって、経営側の力が強く、労働側が弱い立場にあるのかな、と。研究については、ビジネスの世界の指標で研究が目利きされている印象を受けるので、現場の人間としては、違うよな、という印象を持つのです。じゃあ、自分が生活を仕事に依存しないルートを、通常ルート同様に開拓できたらできることも広がるだろう、と思います。研究から入って、投資家経由でビジネスをかじった私なら、より研究サイドに即した舵をきれるだろうな、とも思うわけです笑。夢を搾取する連中に代わり、搾取しないで夢を見せてあげることができたなら、彼らは私の力になってくれるだろうと。スターウォーズのパルパティーンが、甘い言葉でアナキンをダースベイダーとしてダークサイドに引き込んだみたいにね笑。貞操感を捨てよ、その代わりに夢と金 (生活)を保障しよう、なんて言えるといいね笑。

というわけで実践してみますね笑。自分の道は誰かに与えられるものではなく、自分の意志で選ぶもの。先が見えない? それがどうした、だからこそこじ開けるんですよ。自分が何者かどうかなど、どうでもいいのです。やった結果の如何で自分が何者だったかが決まるわけで、今自分が何者か否を考えたら一歩が出せなくなる。妥協して波風立てずに生きることを覚えるより、欲張って、かつ工夫して、欲しいもの全部ぶんどるほうを私は選びます。笑われてなんぼ、ばかげているほうがやる価値があると私は思うのです笑。




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