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開業税理士11年の軌跡

6年弱の監査法人勤務の経験のみで独立し、紆余曲折あった11年を振り返りながら、将来独立を考えている方に少しでもヒントになればと思い、今までの軌跡を書いてみたいと思います。

学生時代について

話は大学生時代に遡りますが、当時は明確に〇〇の仕事に就きたいというのはありませんでした。ただ、何となく周りの友達には「将来は経営者になりたい」と言っていたのは覚えています。当時流行のビジネスや、将来性があるビジネスを調べることもなく、淡々と過ごしていました。

大学入学当初、先輩から誘われテニスサークルに入りましたが、そもそもテニスが好きだったわけでもなく、なんとなく居場所を確保したかったのと、大学生といえばテニスサークルといった程度の思いしかありませんでした。無気力な学生が周りに流されてしまう典型的なパターンですね。

案の定、ハイテンションの飲み会やテニスの練習には全く興味が持てず半年程度でフェイドアウト。今思えば貴重な青春時代を無駄にしてしまったという思いでいっぱいです。そもそも群れることがあまり得意ではなく、サークル活動というのは性に合わなかったですね。

それからというもの、何かに打ち込むわけではなく、友達とだらだらと過ごす毎日が続きました。次第にそのような毎日に飽きてきて、ふと大学生協の前を通りかかったとき、資格の学校のパンフレットが目につきました。

〇〇士や〇〇検定など、数えきれないくらいの資格があることに気づき、片っ端から見ていきました。その中で目に留まったのが公認会計士。公認会計士の紹介ページに「高収入が期待できる資格」と書いてあり、そのワードに強く惹かれたのを覚えています。公認会計士が何をやる仕事なのかもわからず、強く興味を持ち、勢いで資格の予備校に入学しました。大学2年生の時でした。

会計士の予備校に入学

予備校には1年程度で合格を目指す短期コースもあったのですが、1年間で合格する自信はなかったため、2年間で合格を目指すゆるやかなコースを選択しました。

初めはゆるいカリキュラムだったので楽々こなしていましたが、徐々に授業数が増えて予備校中心の生活になってきました。会計士受験生のほとんどがそうなのですが、朝予備校に来て、自習や授業やテストをこなし、夜遅くに帰宅するという生活が続きました。

次第に大学へはあまり行かなくなり、週一回のゼミにしか出席しなくなりました。そのゼミですら欠席が許されていたので行かなくなってしまい、ついに生活のほぼ100%が予備校という生活になりました。

そのようにして迎えた初めての公認会計士試験ですが、全く歯が立たず、不合格でした。自分では1回で合格するつもりで頑張っていたのですが、結果として努力が足りなかったということですね。そこから再び長い受験生時代が続くことになりました。

結局2回目の受験でも受からず、3回目の受験でようやく合格。大学も卒業した24歳になる年でした。

思えば、受験生時代は予備校に友達をいっぱい作ってしまい、足の引っ張り合いをしていました。学校のようで楽しかったのですが、勉強の合間の休憩時間の長いこと長いこと。やはり、目標に向かって一直線でなければ結果は出ませんね。
友達付き合いを絶った人から合格していきました。足の引っ張り合いをしていた友達は、ほとんどが私と同じタイミングで合格していきましたね(笑)

会計士試験の合格と監査法人入社

晴れて公認会計士試験に合格した私は、早速就職活動を始めました。大体の合格者は監査法人という主に上場企業等の会計監査業務を行う会計事務所へ就職します。私も大手監査法人の面接を受け、当時は人手不足ということもあり、すぐに内定をいただきました。

監査法人に入社してからは、特にこれといった目標もなく、毎日淡々と過ごしていました。大学入学当初のようでしたね。正直に言えば、なかなか監査の仕事に興味が持てず、悶々としていました。

監査法人の仕事は、監査先ごとにチームが形成され、そのチームで分担しながら仕事を進めていきます。新人は現預金や借入金などの簡単な勘定科目を担当させられることが多く、仕事内容が簡単な分、退屈で刺激のないものでした。

そんな中、モチベーションが高い同期メンバーは上司からどんどん重要な仕事を任されていきました。私は相変わらず同じ仕事を振られ続けていて、先を越されたショックから遊びに走ってしまい、友達と飲み会を開催することが増えてきました。いわゆる「お気楽リーマン」のような生活を、監査法人に入社してから3年間は続けていました。平日昼間はずっとテンション低めなのですが、金曜の夜になると自然にハイになっていました(笑)

そんな中、先輩の中には少しずつ独立をする人が出てきました。学生時代からの経営者になりたいという目標はまだ持ち続けていたので、そのような先輩から刺激を受けるようになりました。

刺激のない毎日に飽き飽きしていた私は、独立に向けて懸命に努力する決意をしました。飲み会などの遊びの回数を減らし、あまり好きではない監査業務を一生懸命やることに。きちんと監査小六法(会計士のバイブルともいえる分厚い辞書のようなもの)を読みこなし、期末の監査業務に臨むようになりました。そうすることで、遅れをとっていた同期メンバーに少しずつ追いつくようになったのを感じました。次第に私も重要な仕事を任せられるようになり、ちょっとした充実感が得られるようになりました。また、今まで誰も見つけられなかった間違いを見つけて指摘することも多くなり、クライアントからもお褒めの言葉をいただくようになりました。
この辺りの時期には、会計士になってよかったなと思うことが多くなりました。

独立

そして監査法人入社から6年目を迎えた頃、独立の準備に入りました。もともと、独立に当たっては期限を決めていました。20代のうちに絶対独立すると。そうしなければ、だらだらと監査法人に在籍してしまい、いつまで経っても独立できないと思えたからです。なんとか29歳9か月の時に監査法人を退職し、独立を果たしました。

実は独立に踏み切れたのには大きな理由があり、中堅の会計事務所へのお誘いがあったのです。その事務所は、基本的には以前在籍していた監査法人のように監査業務を行っているのですが、メンバー各自が自分の事務所も持っており、兼業が認められているのです。よって、独立してクライアントがいなくてもその会計事務所から仕事をもらうことができ、全く生活に困らない状態でした。つまり、大きな保険があったのです。それを本当の独立と言えるのか?とも思いましたが、何が何でも20代のうちに独立したかったため、その会計事務所に入るのと同時に自分の会計事務所を開業するという形となりました。

独立と同時に行ったことが税理士登録。公認会計士を保有していると、手続きを行えば税理士登録を行うことができ、税務の仕事を行うことが可能となります。といっても、監査業務しか経験がない私は税務のことはよくわからず、依頼が来てから勉強すればいいや、くらいに気楽に思っていました。

独立したばかりの頃、クライアントは一社もなかったため、広いオフィスを借りることはできず、監査法人時代の先輩のオフィスの机一つを借りて仕事を行うことにしました。といっても目の前の仕事もなく、また、何の仕事をするかということすら決まっておらず、ただただ毎日が過ぎていました。結局独立してから半年程度は1社も契約が取れず、将来が不安になったのを覚えています。

初めてのクライアント

そんな中、大学時代の友達が税理士を探しているということで、ある経理代行会社を紹介してもらいました。その経理代行会社は5社程度の中小企業から経理業務を依頼されており、税理士はおりませんでした。その経理代行会社が作成した決算書をもとに税務申告書を作成するという仕事の依頼でした。
ただし、提示された金額は1社1万円。税務申告書の作成は通常は1社10万円以上なので、破格の値段でしたが、勉強も兼ねていたため喜んで引き受けました。何より、初めてのお客さんを獲得できたということで、非常に感激しました。

初めての税務申告書の作成であったため、すごく時間がかかりましたが、なんとか依頼された5社程度の税務申告を終えました。それから、徐々に他の方からも仕事の依頼があり、少しずつ経験値は増えていきました。基本的には税務申告書の作成は毎年ほぼ同じ作業なので、どんどん慣れていきます。いかに場数を踏むかがスキルアップに直結するのです。

また、自分には監査業務よりも税務の仕事の方が合っていると思えるようになりました。というのも、税務という仕事は節税案を提示すればクライアントから喜ばれますし、何より節税額という形で貢献度合いが目に見えるからです。
税務調査の際も同様です。明らかな誤りを指摘された場合は別として、調査官と見解の相違があった場合には交渉力が要求されます。その際に、こちら側の主張を通して、調査官の指摘事項を跳ね返せばクライアントから喜んでいただけます。

税理士業務と並行して進めていたのがIFRS(国際会計基準)のコンサルティング業務。当時、世界的なトレンドにより続々とIFRSを採用する日本企業が増えてきて、会計士業界でもIFRSの支援業務が流行っていました。そこで、何の尖ったスキルもなかった私は必至でIFRSを勉強し、IFRSのコンサルティングサービスを展開できるまでに知識を身に着けました。ある会計の専門学校のIFRS講座の講師を務めさせていただくこともありました。そんな中、それを見て下さっていた先輩から、「うちの顧問先のIFRSコンサルをやらないか?」とオファーがあり、快く引き受けることとなりました。ようやくそこそこ大きな仕事を受注でき、大きなやりがいを感じることができました。
独立したばかりは身近な人が助けてくれるものなんだなと思いました。

医療系クライアントの増加

もう一つの転機は独立して2年がたった頃。ある友人から相談を受けました。
「うちの家族が経営する医療法人の経理をやってくれないか。」
その医療法人は関連会社の支店を含めて関東圏内に10拠点ほどある医療機関で、まだ極小だったうちの事務所としてはとても大変な案件。一瞬怯みましたが、当時まだクライアント数は少なく、時間もあったため思い切って引き受けることにしました。
経理業務に加えて、100名程度の給与計算、資金繰り管理、振込業務など幅広く担当しました。また、医療法人特有の役所への届出業務も担当。毎月月次を締めていたので、数年間は丸1日休みという日はほぼありませんでした。ただ、なかなか経験できない仕事ばかりで非常に学ぶところが多かったです。

多くの失敗もしてしまいました。一番よく覚えているのは、会計ソフトの設定誤りがあり、税務申告書を間違ってしまったこと。税務署へ申告書を提出した後に気づき、修正申告を行いました。クライアントからは大変お叱りを受けてしまいました。間違ってしまった悔しさとクライアントへ迷惑をかけてしまったことの申し訳なさから、泣きそうになりました。そのようなことは社会人になってから初めてのことでした。ただし、監査法人時代にはそこまで悔しさを感じたことがなかったため、これが自分の名前で仕事を引き受けることの厳しさなのかと強く実感しました。ただし、そのような悔しい経験は、その後のスキルアップに大きく繋がっていきました。

そんな多くの苦い経験を経て、気づいたら医療機関の経理・税務には自信がついてきました。
ある医師の方から、その方の確定申告をやってほしいという依頼がありました。いくつか節税策を提案したり、クリニックの開業プランを提示したりすることで、信頼を得ることができました。そのことがきっかけで多くの医師の知り合いの方を紹介してもらい、さらにそこから紹介が広がるという好循環が生まれました。お陰様で、医療機関や医師のクライアントは短期間で数十社程度増えました。なかなかクライアントが増えない期間は長かったのですが、コツコツ頑張っているとこのような思いもよらないこともあるんだな、と感動したのをよく覚えています。

クライアントがどんどん増加していった要因ですが、ニッチな分野を責めたことが挙げられます。「クリニック 税理士」などのワードで検索すると、数多くの税理士事務所が出てくるのですが、本当に医療機関に強い事務所はほんの一部だと感じます。医療機関のクライアントを引き継ぐと、前任税理士の間違いが多かったためそのように思えました。また、医師の方のコミュニティは意外と狭く、同業者としかお付き合いがないという方が多かったのも、うちの事務所が多くの医療系のクライアントを獲得できた要因の一つです。つまり、一般的に医師の方は税理士の知り合いが少ないのです。よって、一人の医師から信頼を得ることができれば、どんどんそこから紹介の連鎖が続いていきます。

新しいことへの挑戦

順調にクライアント数は増えていきましたが、開業後5年間は3~4人の体制で事務所を運営していました。3~4人にしてなぜ多くのクライアントの仕事をこなせたか。独立当初に当時大学生のアルバイトとして入社した女性職員のおかげでした。その子は大学卒業後もうちの事務所に残ってくれて、3年目には正社員になってくれました。大人しい性格なのですが、仕事中は丸一日パソコンにかじりついて黙々と作業をこなすタイプ。意識が高く、仕事が終わらないと気が済まない性格で、毎日のように終電まで働いてくれていました(今同じように働かせてしまうと明らかにブラック企業ですが…。)おかげで、多くのクライアントの仕事を引き受けることができ、事務所経営も安定してきました。

この頃少し余裕が出てきたので、何か新しいことをやりたいと思うようになりました。そこで考えたので税金のシミュレーションを行うアプリ。人々が手軽に使える税金のアプリを作れないかという発想から生まれました。当時、相続税の大改正があり、相続に関する人々の関心が高まっていた時でもあったので、簡単に相続税のシミュレーションができる「あんしん相続」というアプリの開発に着手しました。もちろん、アプリ開発のスキルはないため、エクセルでシミュレーション表を作り、それを公募したエンジニアに渡し開発を委託しました。簡易なアプリですが、無料ということもあり、リリース当初からダウンロード数は伸びていきました。このアプリから仕事につながることはありませんでしたが、アプリを通じて相続税に関するお問い合わせも多くなり、少しは世間の役に立てたという実感がありました。

クラウド会計の台頭と右腕の退職

開業して7年程度が経過した頃、さらなる転機が。
今となっては多くの会社が使用していますが、freeeやマネーフォワードなどのクラウド会計を使用し始めたことです。当時はあまりユーザーもおらず、まだ会計ソフトと言えば弥生会計が主流でしたが、直感的に広まっていく予感がしたため、うちの事務所でも積極的に使用するようにしました。そうすると、時代の流れに敏感なスタートアップ企業の多くが使用し始めました。初めは数社だったクラウド会計のクライアントからも紹介の連鎖が生まれ、またしても短期間にクライアントが数十社増えていきました。たかだか新しい会計ソフトを使用するようになっただけ、と言われてしまえばそれまでですが、ちょっとした時代の変化に対応するだけで新たな顧客を開拓できるものです。古いと言われる会計事務所業界も、たまにこのような技術革新や特需が見られます。

ただし、その頃ずっと頼りにしていた女性職員が辞めることに。理由は新しい環境で働いてみたいとのこと。経理や税務のスキルが身についてきたので、他の会社でも実力を試したかったのでしょうか。辞めると言われたときはとてもショックでした。一方で、その子の貴重な20代を拘束してしまうのも悪いという思いもあり、最後は感謝の言葉で見送りました。その子がいなければ、11年もの間会計事務所経営を続けることができなかったかもしれません。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

ただし、その職員が辞めた後の数カ月は非常に大変でした。その子がやっていた仕事を全部引き継いだためです。その子の後任として2名の採用はできたのですが、勤務できるのが2カ月後とのことで、主力の職員不在の数カ月ができてしまったのです。深夜まで仕事をして、次の日早く起きるという生活が続きました。ただ、クライアントを失いたくないという一心で働き続けました。懸命に仕事をしたおかげでなんとかクライアントは一社も離れていかずに済みました。また、改めて事務所の業務全体を見直す機会にもなり、今思えば有意義な期間でした。

雇用という課題

新入社員も入社し、その後は順調に顧客も増え続け、少しずつ目の前のことだけでなく、将来を見据えた活動ができるようになりました。念願だった書籍の出版もその頃果たすことができました。初めての出版だったので非常に時間がかかってしまいましたが、蓄積してきた独自の税金ノウハウを存分にアウトプットでき、感無量でした。

開業後8年目以降も順調にクライアントは増え続けました。特に営業活動も行うことなく、既存顧客の紹介により毎月のように新規クライアントが増えていきました。ただし、多くの会計事務所が抱えている雇用の問題はなかなか解消されませんでした。急にご主人の転勤により辞めなければならない職員が出てきたり、またある職員は自分には合わないと言ってすぐに辞めたりしました。おそらく雇用の問題はこの先もずっと続いていくことになるかと思うので、攻めの採用姿勢を貫くことを今は心がけています。待っていても優秀な人は来てくれない。そのことを痛感しています。

そして11年目の今年は職員もようやく定着してきました。また、大学生のインターンも募集をかけると毎日のように応募があり、多くのインターン生を採用するようになりました。インターン生には単なる会計事務所のアルバイトという感覚ではなく、就職後にうちの事務所での経験を大いに生かせるよう、教育者の意識を持って接し、仕事をやってもらっています。

最後に

今後についてですが、言うまでもなく経理・税務の分野もICTの発展によりどんどん手作業が減っていくことが予想されます。よって、最終的には私を含め職員は入力作業をなくし、指示出しと最低限の確認作業に専念していければと思います。そうすれば生産性の高い短時間労働を実現でき、理想的な働き方が可能となります。空いた時間で趣味に没頭したり、家族と遊んだり、興味がある分野の勉強をしたりと自分の時間を楽しんでほしいと思います。

以上、様々なことがあった11年間を振り返ってみました。11年連続でクライアント数、売上ともに増加し続けている要因を一つ挙げるとすれば、

“つらくても投げ出さずに愚直にやり抜く”

これに尽きます。

事務所経営をしていると本当にいろんなことがありますが、どんなことでも前向きに考えることができれば必ず道は開けます。

これから独立をめざす税理士の方や、税理士受験生、独立したもののなかなか成果が出なくて悩んでいる方に参考になれば幸いです。

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