書評:中尾武彦『アジア経済はどう変わったか』(経セミ2020年10・11月号より)
中尾武彦[著]
『アジア経済はどう変わったか――アジア開発銀行総裁日記』
(中央公論新社、2020年6月発売、四六判、392ページ、税別2500円)
評者:大塚啓二郎(おおつか・けいじろう)
神戸大学大学院経済学研究科特命教授
目利きのできる元ADB総裁の足跡をたどる
ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生が、「日本の製薬会社は目利きができない。私の研究成果は、もっぱらアメリカの製薬会社に使われてしまった」と嘆いておられた。評者は、これは日本の製薬会社に特有の問題ではなく、日本人が不勉強であるがゆえに、日本社会全体で起こっている由々しき問題であると思っている。例えば、卓越した経済学者がいたとしても、その人の能力を評価できる政治家や官僚がいなければ、せっかくの能力が政策に活かされることはない。そんなことが、日本中で広範に起こっている。
著者の中尾武彦氏は、カリフォルニア大学バークレー校で修士号を取得し、財務省で財務官となり、2013年から2020年までアジア開発銀行(ADB)総裁を務めた官僚OBである。中尾氏はもともと頭脳明晰であることに加えて、猛烈な勉強家である。「総裁日記」という副題のついた本書を読んでいると、目利きができるADB総裁として、アジアの各国首脳と会談し、切れ者の多い財務大臣や中央銀行総裁との交流を深め、ADBの政策を練り上げていく姿がよくわかる。それだけではない。中尾総裁は、研究者として働き盛りの澤田康幸・東京大学教授をADBのチーフエコノミストに、園部哲史・政策研究大学院大学教授をADB研究所の所長に抜擢したのである。澤田教授、園部教授と言えば、ともに日本を代表する国際的な開発経済学者である。彼らの能力を的確に見抜き、適材適所を実現したリーダーとしての中尾氏の手腕を高く評価したい。こうした人事が、ADBの評価を高めるばかりでなく、日本の国際的ステータスの向上につながることは間違いない。
多種多様な議論がなされている本書を、わずかなスペースで評価しようというのには所詮無理がある。興味深いのは、「経済発展の八条件」の議論である(116-119頁)。八条件には、インフラ投資、人的資本への投資、マクロ経済の安定、自由な市場経済の構築、政治の安定などが含まれる。7年間のADB総裁の任期中の実感がこめられているだけに、この議論には重みがある。
中尾氏が総裁として大きな足跡を残したのが、「ADBにもアジア各国の現状をよく知る優秀なエコノミストが多数いる」(320頁)ことを生かして、『アジア開発史』を出版したことである。アジアの発展というとすぐに引き合いに出されるのが、1993年に世界銀行が出版した『東アジアの奇跡』である。この本はタイトルこそ素晴らしいが、鳥瞰図のような本で実態感覚に乏しい。対照的に『アジア開発史』の骨子を紹介している第III部、「アジアの開発の歴史から学ぶ」は、はるかに読み応えがある。そこでは、アジアには他の地域とは異なるような「『アジア型発展モデル』があったのかどうか」という誰もが関心を持つ問いが、真正面から取り上げられている。著者の答えはノーである。しかし評者の答えは、本書を読んだあとでもイエスである。評者には、まず日本が西欧諸国から積極的に技術や制度を導入して発展し、その後アジア諸国が日本のやり方を学んで発展に成功したことが、共通しているように思えてならない。確かに、アメリカの発展もヨーロッパから学んだことが大きかったかもしれない。しかしこれだけ多くのアジア諸国が、次々と類似の発展経路をたどったことは、「アジア型発展モデル」と呼ぶのにふさわしいと思う。確定的な答えがある話ではないが、この問題を考えながら本書を読むことは、読者の大きな楽しみになるであろう。
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