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自分なりの死生観

 三月八日。日本の漫画・アニメ界を牽引する、二人のレジェンドがこの世を去ったという知らせが日本を駆け巡った。
 『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』などの作品で知られる漫画家の鳥山明氏と『ちびまる子ちゃん』などの作品で知られる声優のTARAKO氏だ。
 謹んでご冥福をお祈りします。

 私はスマホ断ちプログラムを終えて、自分とデジタルデバイスとの付き合いを考えながら過ごしていた矢先のできごとだった。
 ニュースを見ていたときに思ったのは「あんな天才で有名な人でも、血の通った人間だったんだな」ということで、漠然と彼らの存在を身近に感じ、生死について考えさせられた。

 本当は全く別のことを記事にしようと思っていたのだが、突然の訃報に意識を全部持っていかれたので、今回は死生観について書こう。
 『ドラゴンボール』や『ちびまる子ちゃん』と自分、という話は他のライターたちがたくさんnoteに書いてくれていると思うので、違う切り口で書いてみようと思い至った。
 自分の思想というか自分語りが多い内容になると思うので、それでもいいという方だけ、この先に進んでもらえればと思う。


死は身近な存在

 元々、辛気臭い家庭に生まれたので、死は常に私の視界にあった。
 両親がとにかく、昔から辛気臭いのだ。
 「親が早死して俺たちは苦労した」というのが、私の両親の口癖だったからだ。

 私の両親は、親が早死した同士で結婚して、そういった暗い話題がしょっちゅう食卓に昇るので、両親が揃っている私は謎の罪悪感を抱きながら、だいたい自分が三十歳になるぐらいまでは気を使っていた。
 私が生まれたときにいた祖父祖母は、母方の祖父ただ一人。
 たまに「お前はなんの苦労もしてないな」と父が私に当てこすってくるのが、またいたたまれない。

 私の祖父祖母たちは病気で亡くなったので、人はいつか死ぬものだと漠然と思っていたし、父が六十三歳の若さで亡くなったときも、さほど驚きはなかった。
 タバコを吸っていたし、鉄粉やアスベストを吸う職業に就いていたため、世間の人よりは早いだろうと私は思っていた。
 短命の家計なのだと昔から思っていたので、私の死生観は世間の同世代に比べてかなり冷めていると思う。

 私にもADHDと統合失調症という持病がある。これらの精神疾患に罹っている人は、平均寿命よりも短命であるということが、研究ではっきりと確認されているので、私自身も八十歳には届かないのではないかと思っている。
 統合失調症の患者は平均して二十年ほど短いらしいので、だいたい六十代ぐらいが寿命だ。ADHDとの兼ね合いを考えるなら、もっと短いかもしれない。

 意外と思われるだろうが、私自身は短いとは思っていない。
 いじめやパワハラが理由で自殺を考えたこともあるので、それを思いとどまっただけ、寿命は伸びているのだから、私は長生きしている方なのだろうと思って、日々を天に感謝して生きている。
 思春期は常にいつ死のうかということばかり考えていたし、人間はいつ死んでもおかしくないと思っていた。

 現在はいつ死のうなどということは考えていない。そうでなくても、平均寿命より早く亡くなる恐れの方がある。
 それに短い天寿を全うするとも限らない。油断して事故に遭うかもしれない、他の病気に罹るかも知れない。
 急がなくても、死はいつも目前にある。 

死を恐れても仕方ない

 そもそも普通に生活していたら「死」のことなどあまり考えないものだと思うが、どうだろうか?
 私はたまたま辛気臭い家庭で育ったので「人間いつ死ぬかわからない」という考えが常に頭の隅にあるのだが、あまり身内に早死した人がいない人なら、大抵は「死ぬことなんて考えたくない」「死は怖いもの」という考えがあるんじゃないかと思う。

 人それぞれ考え方が違うものだが、私はニュースを見ていて思う。
 これらの出来事を他人事と切り離せる人は、幸せなんじゃないかと。でも自分のことのように考えられる人は、現実的だ。
 「死」を考えようが考えまいが「死」は必ず誰の身にも降りかかる。
 だが常日頃から意識している人と、嫌がって意識しない人とでは、生活の過ごし方そのものも変わってくるのではないかと思う。

 私の場合だが「今日死ぬかもしれないので、やり残しをあまり残したくない」と思って日々を過ごしている。
 こう考えて暮らすと「やりたいことはやっておきたい」と思うようになる。若い頃は死ぬことばかり考えていたので将来への展望もあまり無かったのだが、今はむしろ逆で、毎日やりたいことでいっぱいだ。
 三年ほど前に事故に遭って、本当の死に近づいたことも影響していると思う。いま生きていることも奇跡に近いので、本当に「生きる」ってことは深い意味はなくて「偶然」の繰り返しで起こっていることなんだなと実感した。

 両親が二人引き合わされたのも偶然。
 とある卵子ととある精子の掛け合わせでしか生まれない生い立ちも偶然。
 難産でも母子ともに無事に生きられたのも偶然。
 この地に生まれたのも偶然。
 事故に遭って生きていたのも偶然。
 腰の骨を折ったのに現在歩けているのも偶然。
 統合失調症の症状から回復したのも偶然。
 頭を打たなかったのでこのnoteを何とか書けているのも偶然。

 もちろんこの偶然の中には、色々な(私自身も含めた)人の努力や助け合いも影響しているし、周りの人に感謝しているのだが、生きていることはほぼ偶然や幸運が影響している、というのが私の見解だ。
 これを読んでいる方は、自分が存在していることや健康に生まれたこと(もしくは私のように持病があること)も偶然と思ったら、何だか釈然としないかもしれない。
 周囲の人の努力や本人の努力を、私は否定しているつもりはないことを断っておく。

 俗に言う不運は黙っていてもやってくる。
 だからこそそこで光ってくるのが、個人の行動であり思想であり、努力なのだと思う。


前世と今世と来世

 少し宗教的な話になるが「生まれ変わり」とか「天国と地獄」を私はあまり信じなくなった。
 善悪の概念そのものが人間的というか人間固有のもので、他の動物には生殺与奪の善悪というものがない。天国と地獄に虫や菌はいるのかという謎もあって、人間だけ特別扱いするというのに疑問を感じたのもある。

 以前は信じていた。ただ、今は「今しかない」と思っている。
 そして自分がそう考えるようになって気づいたが、生きているうちに「今しかない」と思っている人のほうが、多いんじゃないかと思うようになった。

 いま私は職場環境や生活環境の中で、病気や障害がある人々(私自身を含め)と接する機会が多いのだが、誰もなりたくてこうなった人など一人もいないし、当事者を支えてる周囲の人達も一生懸命だ。
 前世があるからこうなんだ、来世があるからいいんだ、などと言う人は一人もいない。みんな賢明に今現在をなんとかしようとしている。
 少しでも今の状況を良くしようとして、みんな現在を生きている。

 鳥山明氏やTARAKO氏のように影響力のある人ばかりではないが、身近な人の様子からだけでも、色々なことが私に伝わってくる。
 人生の舞台を退場していく人々が、残していってくれたものを感じ取りながら、そして今を生きてる人々が自分にくれるものを吸収しながら、生死について考えてきた。
 これから私の考えも少しずつ変わっていくだろうし、ここに記した文章も将来見たときに「荒いな」と思うかもしれないが、自分の考えをまとめる機会が得られたことに、また私は偶然のめぐり合わせを感じた。

 実際のところは自分が死んでみないことには、天国や地獄があるかわからないし、生まれ変わりもあるのかないのかも、その瞬間が来なければわからない。
 だが、それはその瞬間にまで取っておこうと思う。
 わからないままでいいと思う。分かってしまっては面白くない。
 分からないからこそ、現在をそれぞれ考えながら各々の人生を一生懸命に生きられる。
 訃報を知り、改めて思った。お二人のように生きているうちにやりたいことを、たくさんやっていこうと。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 次回の更新は十三日の水曜日の予定です。
 また良かったら次回もお会いしましょう。

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