人はなぜ「道義的責任」は認めたくないのか?行動経済学からの考察
この記事では、兵庫県知事の事件を通じて、道義的責任を取らない背景にある心理的なバイアスや社会的影響を行動経済学の観点から分析してみます。
行動経済学は、人がどうして非合理的な判断を下すかを解明する学問です。
兵庫県知事の行動によって、大切な命が失われています。
しかし、報道によれば彼は法的責任については言及していますが、道義的責任については何も述べていません。
なぜ、道義的責任については言及しないのか?、その行動は非常に非合理的な言動に感じます。
そこで、「人はなぜ道義的責任を認めたくないのか」行動経済学の視点から考察してみようと考えました。
本記事では、行動経済学の理論を用いて、道義的責任を果たしたくない背後にある心理的要因を探求し、それが公共の利益にどのように影響するかを考えます。
道義的責任の忌避理由
今回の兵庫県知事の発言などを聞いて、率直に思ったことがあります。
それが道義的責任の曖昧さです。
なぜ人は道義的責任を取らないのでしょうか?法で裁かれないと責任は取らなくて良いのでしょうか?
道義的責任とは、個人が自らの行動が他者や社会に与える影響に対して感じる個人的な責任感です。
法的責任と異なり、道義的責任は法律によって強制されるものではなく、個人の倫理観や価値観に大きく依存します。
行動経済学とは
行動経済学は、伝統的な経済学の理論が予測する合理的な行動とは異なり、人々が非合理的な選択をする心理的、社会的、感情的要因を研究します。
この学問は、なぜ人々が最善の選択をしないのか、または道徳的に「正しい」行動を取らないのかを解明するのに役立ちます。
そこで、兵庫県知事が社会から道徳的に正しいと思われる行動を取らない理由を行動経済学の視点から推察してみました。
行動経済学からの考察
兵庫県知事が、道義的責任について言及しない理由は、いくつもあると思いますが、まずは心理的要因と社会的要因から考えてみます。
心理的要因
自己中心的バイアス
人は自分に有利な情報を選んで解釈してしまいます。そのため、自己の行動を正当化し、道義的責任を感じにくくなっているかもしれません。認知的不協和
自分の行動が価値観や信念と矛盾する場合、この不快な感情から逃れるために責任を認めないことがあります。
社会的要因
集団思考
特定の集団内で共有される価値観が、個人の判断を歪めることもあります。属する集団(今回でいえば兵庫県庁)の中で、責任を問う文化がない場合、道義的責任を感じにくくなることはあるでしょう。罰の欠如
法的責任が伴う場合は、罰則があるため、違反した際のリスクが明確です。しかし、道義的責任には直接的な罰がないため、責任を回避しようとする可能性は高いです。
行動経済学の視点からの考察
損失回避
人は損失を避けるためのリスクを取る傾向があります。斎藤知事の場合、権力の損失や名誉毀損(社会的地位の低下)を恐れるあまり、不適切な行動を正当化し、道義的責任を取ることを避けるかもしれません。
現状維持バイアス
現状維持バイアスは、変更に対する抵抗です。斎藤知事は現在の立場を変えたくないため、責任の取り方を保留する可能性があります。
まとめ
この記事では、兵庫県知事のニュースを通じて、道義的責任を取りたくない背景にある心理について考察しました。
個人的には、公務員という立場を考えると、社会から求められる道義的責任はあると思います。
県知事自身は道義的責任を感じていないのかもしれませんが、そのような立場を取り続けるのは、好ましい行動ではありません。
今回のようなケースは、亡くなった方もいらっしゃるので、解決することはないでしょう。
しかし、道義的責任について言及しない人がトップに立っている組織というのは明らかに問題があるのではないでしょうか。
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