#2 いつかあなたと / 「ここ」と「どこか」の境界線
お世話になってる方が、予約のとれない人気占い師さんに占ってもらったときのこと。私のことも聞いてみてくれたところ、
「この子は2年後に違う次元にいく」
というお告げだったらしい。私は自発的に占いに行ったり、雑誌の占いコーナーをチェックするタイプではないけれど、その言葉は信じておこうと思った。(都合がいいことは信じるタイプなので)2016年の頭だったと思う。
違う次元ってどんなことだろう?
予感のするほうへ
2017年の夏、1ヶ月ほどアメリカにいた。久々の渡米で、あまり西側に行く機会がなかったので行ってみたかったこともあり、一人旅でシアトルから、ポートランド、ロサンゼルス(LA)、アレサ・フランクリンを見るためにインディアナ州まで行き(その翌年、彼女はいってしまった)、ニューヨーク(NY)でライブして、最後にまたLAに寄って帰国するという、我ながら欲張りな行程。
NYでのライブは3年ぶりで、2014年の「A Part Of Me EP」レコーディングメンバーが集まってくれた。久しぶりにここに来ればまた化学反応が勝手に起きると思っていたところがあったけど、正直深く呼応しきないまま終えてしまった気がした。そういうことはままあるし、決してメンバーのせいじゃない。むしろここから先は自分が成長しない限り、どこに行っても、変わらない自分が続いてるだけなのだ、と痛感した。マンハッタンの路上で、差し入れに頂いた美味しくて美しいおにぎりを食べながらとぼとぼ帰った。
最後にまたLAに戻る目的は、憧れのJon Brionのコンサートだった。Aimee Manのプロデュースや、映画「マグノリア」「エターナルサンシャイン」の音楽などを手がけている彼の音の世界に大学生の頃に出会ってから、ずっと大好きで特別な存在だった。もし世界中、誰にでもプロデュースをお願いできるとしたら、Jon Brion!と思っていた。ダークで、とびきり美しい、あのムードが大好きだった。
いつかあなたと
NYのライブで落ち込んでいた私は、LAで急遽弾き語りライブをやらないかと言われて(六本木にあるElectrik神社にジュディス・ヒル一行が来て、深夜私も飛び入りで歌ってたときにいたジュディスのチームの一人が声かけてくれた。いろんな出逢いがあるね)、予定より前倒しでLAへ移動。ほかにまったく知り合いがいなかったので、共通の知人につなげていただき、LAで長年活動しているレトロポップユニットLayla LaneのHedayさんと知り合うことができた。Hedayさんはすごく面白いひとで、スタジオ見学に連れていってくれたり、音楽のこと、曲作りや録音のことなどたくさん話して、Jon Brionを観に来たこと、いつかJonと一緒に音楽をできたら最高、なんてことまでつい語ってしまった。するとHideyさんはさらりと言ったのだ。「それは決して無理な話ではないんじゃない?しっかり具体的な提案をすれば、検討してくれるよ。告白してみたら?」と。
「え… どうしたらいいですか?!!」
目から鱗。それからHedayさんは例えばどんなアプローチをしたらいいかも親身に助言してくれた。どんどん身体が熱くなっていくのを感じた。「いつか」と思っていたら、それは永久に「いつか」のまま。一緒に音楽をしたい、と語りながら、私はどこまで本気でそう思っていただろうか。遠い夢のままにしておけば、叶わなくても傷つかない。あわよくば、のシンデレラストーリーを待っているだけ。私達は「なにか面白いことやれたらいいですね」とよく話し、そして忘れてしまう。この時の助言には本当に、一生感謝し続けます。
"We will make it happen"
そのとき作っていた楽曲は、Jonと一緒にやれたら最高なものになると思った。物凄い本気度で、Jonにやりたいと思ってもらえる具体的な提案方法を考えた。そして気合い入れてバチバチにオシャレをして、いざ出陣、と一人ライブハウスに向かったのだった。
そこから様々な道のりを経て、多くの方の協力のおかげで、2018年の2月にJon Brionと一緒に彼のスタジオで「まどろみ」「Closing Time」をレコーディングした。ただのミーハー心で参加してもらうのではなく、私と彼でしか作れないものになったと思う。Jonとの三日間は、私にとっては最高に幸せで、作る喜びに溢れていた。これだったんだ。大袈裟だけど、この世界に生かしてもらえてよかったと思った。
「ここ」と「どこか」の境界線
Jonとのレコーディングを終えたあと、日本で「I’ll be there」という曲をまず録音した。自分の部屋にこもりながら、いつも、ここではないどこかへ行かなきゃ、と焦りを抱える長い夜がたくさんあった。それは今でもある。その「どこか」がいつも曖昧なのは、恐怖心のせいもあったのかもしれないと思う。でも、境界線を越えた先にはきっと心揺さぶられる景色がある、小さな予感は消えなかった。少し前に読んだパウロ・コエーリョの「星の巡礼」で、これは彼の作品のなかでもなかなかスピリチュアルな1冊だと思うけど、印象的な描写があった。
とても特別な体験をさせてもらったから、この「I'll be there」という曲では爽快な予感を描きたかった。続いていく道の先。あともう1段だけ階段をあがってみたら、何が見えるだろう。わからないけど、歩き続けるうちにある日、ああ、私はこれが見たかったんだ、と思えるシーンに出逢えたら、素晴らしいことだと思う。
あの占いの言葉から今は3年、毎日、相変わらずジタバタもがいている。なりたい音楽家の次元は遥か遠い。でも、これまで体験したことがない次元で感動した瞬間があった。人生は未知数。この先も、そんな日に出逢いたい。私たちは、きっとそこにいける。
後日談。
今年10月に前述のおにぎりライブから2年ぶりにNYでライブをした。先にLAに寄って、録音の時ぶりにJonに会う予定だったけど彼の体調不良と多忙で会えなかった。そもそもいつも本当に多忙でメールもまともに返ってくる人じゃないので仕方ないけど残念だった。しかし、そのあと思いがけない展開が。
前回の悔しさを顧みて、今回のNY・Rockwood Music Hallでのライブは良い取り組み方ができたと思う。終演後、来てくれた人達を出口まで見送り、会場に戻ると、なんとそこにいたのはJonだった。何が起きているのか信じられなくて、ハグしたら嬉しくていろんな思いが込み上げて大号泣してしまった。もうパニック。ちなみにLAとNYは、飛行機で6時間くらいの距離。
Jonはぎゅうっと力強く抱きしめてくれて、詳しくは後日ね、といって去っていった。しかも学生当時、Jonの音楽を教えてくれたのはベーシストのKenjiだったので、何が起きたのかわけがわからないまま、とにかくKenjiと二人で一層感慨深かった。その二日後、深夜に及ぶレコーディング仕事を終えたJonをつかまえて朝5時に再会。とうとうビールで乾杯した。(Jonは完璧な夜型で夜8時から仕事する人)照明もほとんど落とされた、歴史あるホテルのロビーは美しいアンティークの調度品ばかりで、今どこにいるのか不思議な世界に迷い込んだみたいだった。去年のレコーディング中はそんな余裕がまったくなかったので、実は初めてゆっくりといろんな話ができた。ライブに来てくれた経緯を聞いて心底驚いた。なんと仕事でNYにきていて、散歩中、偶然店の前を通りかかったら、私が歌っていたのだという。
そんなことってあるの?
人生ってすごい!
日曜更新の目標を早速はみ出てしまいました。都内最後のライブの日なので、またはみ出してしまう可能性ありそうですが、次回、また1週間後に。第一回めのサポートやフォロー、ありがとうございます。とても励みになっています。
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