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【試し読み】『キャンパスの戦争――慶應日吉 1934―1949』

弊社では3月に『キャンパスの戦争――慶應日吉 1934―1949』を刊行します。本書はその名の通り、1934(昭和9)年~1949(昭和24)年に至る、開設からアジア・太平洋戦争の時代の慶應義塾日吉キャンパスを描く書籍です。

「理想的新学園」として建設されたキャンパスは、いかにして兵士たちが行き交う空間となったのか。その誕生から米軍からの返還までを詳述し、「戦争とキャンパス」の関係を辿る、大学史のみならず、戦争の時代に興味を持つ方必読の書となっております。

なお、本のカバーに使われているTop画像の写真は、写真家・芳賀日出男が慶應義塾大学予科に在学中に撮影したものです。詳しくは、本書第4章をご参照ください。

今回は、著者が本書を執筆した経緯や、本書が扱う年代から70年以上が経過した現在に刊行する意義が端的に述べられた「はじめに」部分を公開します。ぜひご覧いただければ幸いです。

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はじめに


 慶應義塾の歴史は日本の近現代史そのものであり、日吉キャンパスには激動の昭和史が凝縮されている。1934年に「理想的学園」として開かれたキャンパスは、戦争の時代に翻弄され、学生を戦場に送り出す場となり、帝国海軍の中枢機関がここに移った。空襲で校舎が燃え、日吉の街が燃えた。戦後は米軍に接収され、学びの場を再び取り戻すまでにさらに4年の月日を要した。今、当たり前のように目の前にあるキャンパスの日常は、最初から変わらずそこにあったものではない。たとえば私たちは、自分の足元にある地下軍事施設の遺構に足を踏み入れるとき、当たり前の日常の風景が否応なく揺さぶられる体験をするだろう。

 現在、日吉キャンパスには慶應義塾大学の7つの学部の一・二年生、3つの研究科の大学院生、高等学校の生徒が通い、活気に満ちた若々しい雰囲気に溢れている。ここには「門」というものがない。学問の権威を象徴する時計塔のようなものもない。代わりにキャンパス入口からまっすぐにのびる銀杏並木が、四季折々に表情を変える学園の顔となっている。銀杏は天空に向かって伸び、自由で開放的なキャンパス空間の象徴であるとともに、ここで起こった出来事を静かに見つめ続けてきた。90年近い時間が流れた中で、本書で取り上げることができたのは、わずかに最初の15年でしかない。人で言えば生まれてから中学校を卒業するまで、まだ青春の入り口に立ったばかりの年齢である。しかしながらここには、戦前・戦中・戦後の激動の昭和史が詰まっている。

 日吉キャンパスの内と外 (広く言えば、横浜市港北区の「日吉」という地域) には、全長5キロメートル以上に及ぶ旧海軍の地下軍事施設群が存在している。現在それらは総称して「日吉台地下壕」と呼ばれている。私は市民団体である日吉台地下壕保存の会のメンバーとして、戦争遺跡を巡る見学会のガイド活動を行っている。「日吉」の戦争遺跡と言えば、一般に地下壕(特に唯一見学可能な「連合艦隊司令部地下壕」が念頭に浮かぶが、キャンパスの戦争遺跡はそれだけではない。戦前から残る第一校舎や第二校舎、寄宿舎、チャペルなどの地上の施設もまた戦争に深く関わる過去をもつ。第一校舎は私が勤務する慶應義塾高等学校の校舎である。本書を構成する各章は、2014年から2021年にかけて勤務校の研究紀要(『慶應義塾高等学校紀要』)に発表した拙稿「日吉第一校舎ノート」の(一)〜(八)を土台にしている。当初は、自分が教壇に立つ学校の校舎を調べ、地下壕見学のガイド活動に役立てる目的で一度だけのつもりで書いたが、知れば知るほど関心の範囲が広がり、結果的に計8回(8年)の連載となった。その原動力となったのは、自分が今いるこの場所で何があったのかを知りたいという気持ちである。自分が教える教室で、この古い校舎で、いったい何があったのか、どのような人々がいて、どのような言葉が残されているのか。過去と現在を行き来しながら自分の足元を見つめる作業は、必然的にアジア・太平洋戦争という大きなテーマに広がっていった。一貫しているのは「第一校舎」に足場を置いて、校舎からキャンパスの歴史を、校舎からそこにいた人々を、校舎から戦争を考えるという試みである。したがって私の取り組みをひとことで言えば、「校舎論」ということになるだろう。研究の範囲はきわめて狭いが、そこから広がる問題は大きなものになった。その意味では特異ユニークな論考と言えるかもしれない。

 考察を進める中でしばしば途方にくれたのは、先行研究の不在である。日吉キャンパスの研究史で言えば、もちろん慶應義塾による『慶應義塾百年史』があり、通史として最も信頼できる研究の道しるべとなっている。近年では慶應義塾福澤研究センターを中心に調査と研究が進められ、その成果は『慶應義塾史事典』において項目別に整理されている。手に取りやすいもので言えば、『慶應義塾歴史散歩』もあり、キャンパスの歴史案内として大変読みやすいものである。日吉台地下壕に関しては、日吉台地下壕保存の会による『戦争遺跡を歩く 日吉』や『フィールドワーク 日吉・帝国海軍地下壕』があり、前者は見学会で配付する小冊子として、後者は中高生の調べ学習用のガイドブックとしてまとめられたものである。本格的な学術調査には、慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室の『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究』があり、考古学的なアプローチによる精緻な調査報告書であるが、一般に手に入りやすいものではない。本書は、これまでほとんど注目されることのなかったキャンパスの基本構想や第一校舎の建築史的な特徴に光を当て、そこで行われた旧制予科の教育やそこで学んだ人々に目を向けた。開戦時の興奮から学徒出陣、特攻出撃へと向かう一青年の心の揺らぎと思考の跡を見つめ、戦争による抗いがたい負の連鎖の中で、「日吉」が滅びゆく帝国海軍を象徴する場になっていく経緯を辿った。そこから見えてきたものは、結果的に既存のキャンパス史や大学史の枠組みから大きく離れ、この国が経験した戦争そのものを考えることにつながった。

 述べたように、本書は1934年から1949年までの15年間の、校舎を中心としたキャンパスの記録であり、その原型は「ノート」というタイトルで書き継いだものである。その意味では通史ではなく時代史、論文ではなく研究ノート、歴史ではなく記録と呼ぶのがふさわしいかもしれない。私の本来の専門は文学研究であり、約8年にわたって書き続けてきた心持ちから言えば、キャンパス空間にあるモノ (建築物/施設)、そこであったコト(出来事)、そこにいたヒト(人々)、残されたコトバ(言葉) を、ひとつの大きなテクストとして読み解く試みを続けてきたということになる。日吉キャンパスが抱えこむ記憶の底は深い。記憶は思い出すことで意味をもつ。まずは本書がそのための備忘録になり、より本格的な研究を始める若い世代のための叩き台になればと思う。あるいは慶應義塾や日吉キャンパス、日吉の街に関心をもつ多くの人たちの道案内(ガイド) としてご活用いただければ幸いである。

 2022年2月、ロシアがウクライナに軍事侵攻し、私たちは私たちの国がかつて辿った道を追体験するような感覚にとらわれている。ミサイル攻撃や砲撃によって住宅が破壊され、地下シェルターで避難生活を強いられている人々の姿が報道で繰り返し映し出される。世界で現在起こっている理不尽な現実を目にして、日吉の地下壕を歩く私たちの感覚は、ウクライナ侵攻の以前と以後で確実に変わった。戦争遺跡の見学ガイドとしては、自分が語る言葉の一つ一つに以前とは違う緊張感を伴うようになった。それ以上に強く感じるのは、見学者がそれぞれの感覚で、地下壕を戦争に直結するリアルな場所としてとらえているということである。壕内の闇の深さや湿気の重さ、迷路の中にいるような閉塞感は、ウクライナの人々が息をひそめて暮らす地下空間とおそらく共通している。私たちは知識やイメージではなく五感を通した現実感覚で、時空を超えて現代と過去の戦争につながっていく。

 ただし、そこには決定的な違いもある。日吉の地下壕は、市民が避難するための場所ではなく、戦争を遂行するために作られた軍事施設だということである。戦争末期で資材が不足する中、膨大な量のセメントを投入し、海軍の設営部隊が驚くほど堅固な地下空間を作り、その過程で近隣の住民に多大な犠牲を強いた。ここで戦争を指導し、ここで立案し、発せられた命令によって数えきれないほどの将兵が命を落とした。この事実をしっかりと見据えたうえで、私たちはいったい何を感じ、何を考えればいいのか。「日吉」という場所で向き合うべきことの本質は、まさにそこにあるように思う。それは過去であると同時に現在の問題なのである。

 地上の校舎は眩しい陽の光を受けて、学びの場として変わらずそこにあり続けている。かつてその廊下を海軍の軍人が歩き、教室には米軍の兵士がベッドを並べた。日常の当たり前の毎日の中で、古い記憶をよみがえらせようとする者はいない。この校舎は、使われながら保存されている「リビングヘリテージ」(生きている遺産) である。いまに生きるものである以上、その記憶もまた生き続けなければならない。軍事施設としての地下壕は、私たちがそこに足を踏み入れない限り、漆黒の闇の中で静かに眠ったままである。それは大学のキャンパスに本来存在する必要のないもの、戦争が残した「負の遺産」である。しかしながらそれは、慶應義塾にとって未来の社会を担う若い人たちのための、豊かな可能性を秘めた教育の資源でもある。
 銀杏並木のゆるやかな坂道をのぼり、キャンパスを地上と地下の合わせ鏡で見つめると、思いもよらない風景が見えてくるだろう。これほど激しく戦争の時代に翻弄され、これほど大きく本格的な戦争の遺跡をもつキャンパスは他にあるだろか。

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続きは、本書をお読みください。
また、以下から担当編集による特別寄稿もお読みいただけますので、こちらもぜひ。


【目次】
第一章 理想的学園の建設―1923–1934
第二章 クラシックとモダン―日吉第一校舎の肖像
第三章 予科の教育(前編)―予科生の日常の変遷  
第四章 予科の教育(後編)―塾生のライフ・スタイル  
第五章 学徒出陣まで―日米開戦と予科生
第六章 上原良司の「自由」―予科教育と学徒兵
第七章 陸の海軍―迷彩の校舎 
第八章 キャンパスの戦争

【著者略歴】
阿久澤武史(あくざわ たけし)
1988年慶應義塾大学文学部国文学専攻卒業。90年同大学院文学研究科修士課程修了。同年慶應義塾高等学校国語科教諭として赴任。96年慶應義塾ニューヨーク学院教諭。2002年~現在 慶應義塾高等学校教諭。慶應義塾大学教養研究センター所員(大学で「日吉学」を担当)。福澤諭吉記念慶應義塾史展示館所員。日吉台地下壕保存の会会長。日吉台地下壕をはじめ慶應義塾日吉キャンパス内の戦争遺跡ならびにその時代の塾史研究に携わる。2022年10月慶應義塾高等学校長に就任。専門は古代国文学、戦争遺跡研究、慶應義塾史。
主な論文に「太安萬侶論―その家職と古事記撰録―」(『藝文研究』第59号、1991年3月)、「『歌儛所』の時代―大歌所前史の研究―」(『三田国文』第22号、1995年12月)、「静かな生活―戦後の折口信夫論―」(『三田文学』第68号、2002年3月)などがある。

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