見出し画像

【寄稿】日吉の丘にはどのような歴史が横たわっているのか――『キャンパスの戦争 慶應日吉1934―1949』の刊行

連合艦隊司令部地下壕で知られる日吉キャンパスの誕生より米軍からの返還までを描いた、3月新刊『キャンパスの戦争――慶應日吉1934―1949』につきまして、本書をより深く読むための編集担当者による寄稿記事を公開します。ぜひご覧いただければ幸いです。


***

日吉の丘にはどのような歴史が横たわっているのか
――『キャンパスの戦争 慶應日吉1934―1949』の刊行


 時はバブル黎明期、1986年の春、初めて触れた日吉キャンパスの光景は、目映いばかりに光り輝いていた。入学式以来、延々と続く、並木道でのサークル勧誘合戦、見たこともないような派手な身なりの恰好の人たちも含めて、とにかく人、人、人の洪水。当時言われていた「明るい大学」の頂点を極めるかのように輝く、キャンパスのその光の強さに、同じ神奈川とは言え、片田舎の公立高校出の地味な新入生だった私は、ただ戸惑うばかりだった――。
 とにかく明るく開放感のあるキャンパス。泉麻人氏は、日吉キャンパスのことを「憧れのUCLAに見立てやすい環境だった」と書いていたが(『三田評論』2006年2月号「三田・日吉 70年代の学生街」)、燦燦と光がそそぐそのキャンパスには微塵の陰もないように見えた。普通の学生は今を生きることに忙しいから、自分の通っている学校の歴史のことなど考えない。成長した銀杏並木は昔からずっとそのままの姿であったと疑いもなく思って日常を過ごしてゆく。

「日吉第一校舎」(慶應義塾広報室提供)

 思えば、ちょっと変わったキャンパスなのかもしれない。大多数の大学生はイチョウ並木の坂を登ってゆくと、中途で左に折れる。多くの授業が第四校舎と呼ばれる建物内で行われ、その周辺の食堂棟や生協棟で大体のキャンパスライフは完結している。坂をまっすぐに頂上まで上ったところにある、このキャンパスで一番由緒のある建物――第一校舎にはまず足を踏み入れることはない。それは当たり前で、この校舎は高等学校のものだからだ。そして、この坂の頂上の向こう側に広がる広大な蝮谷エリアは体育会のものだ。つまり体育会に属していない多くの大学生(と大学生だった人)は、この広大なキャンパスのごく一部だけしか知らない可能性が高い。第一校舎の奥にあるこじんまりとしたチャペルや、さらにその奥深いところに位置する、日吉寄宿舎の存在など知らずに過ごすのも当然だろう。

『キャンパスの戦争 慶應日吉1934―1949』カバー
カバーに使われている写真は民俗写真家芳賀日出男氏が慶應義塾大学予科時代に撮影したもの。
第一校舎から第二校舎を映すその写真は、第一校舎を正面に立つ2人の予科生のシルエットともに「影」として捉えている。やがて来る時代を暗示しているかのようで興味深い。

 昨年秋に、慶應義塾高等学校の校長に就任された阿久澤武史先生が、「日吉第一校舎ノート」として、同校の紀要に連載していた文章がまとまり1冊の本になった(『キャンパスの戦争――慶應日吉1934―1949』)。昭和9(1934)年の日吉開校からの15年について、人間で言えば、誕生から少年期にあたる時期のキャンパスの記録であり物語であると呼べるものだが、それは同時に昭和史で言えば、戦前・戦中・戦後占領期というまさに激動の時期とそのまま重なる。そして、本書は日吉に通っていたけど、あまりこのキャンパスの歴史など考えてこなかった多くのこの大学の卒業生や、一般の方にとって、慶應義塾大学予科時代のこの地に驚くべき歴史があったことを明らかにしてくれるだろう。もちろんすべてのものやことには歴史があるのは当たり前だが、このキャンパスの「少年時代」はとりわけ曲折に富み、特筆すべきもので、無数の物語がそこにあっただろうことを想像させるに十分なエピソードに満ちている。
 連合艦隊司令部地下壕が日吉キャンパスの地下に張り巡らされていたことは、かなり有名な話ではあるのだろう。しかし、著者が本書の「はじめに」で書くように、戦争の爪痕は、この地下のはっきりと見える戦争遺構にのみあるわけではない。アジア・太平洋戦争開始後、戦局が不利になるにつれ、大日本帝国海軍の様々なセクションが、慶應義塾大学予科校舎(現第一校舎)や日吉寄宿舎を借り受け軍靴の音が校舎に響くようになった。つまり、戦争を遂行する中枢が地下のみならず、地上でも、というより地下と地上を行き来しながら、命令を発し、日々の軍務を行っていた。それも予科生と同じ空間に同居しながら。

本書より 海軍省人事局航空配員理事生写真、昭和20年6月撮影
[慶應義塾福澤研究センター蔵、立川(旧姓建部)重子旧蔵]

 慶應義塾史のことを様々な角度から調べなければならない立場にあるので、日吉で行われていた大体のことはわかっていたつもりであったが、本書を読み、一番驚いたことは、この戦争中の校舎の中に海軍省理事生と呼ばれる「女性」がいたことだ。戦前の慶應予科は当然男ばかりだし(今の慶應高校も男子校だが)、乗り込んできた海軍だって男ばかりだろうと思っていたのにそこに予科生と同年代の女性がいる! 著者も書くように、屋上で撮られた写真からは、まるでキャッキャという声が聞こえてくるかのように、日常の光景が切り取られている。この写真を見て、戦争の時代のこの空間に実に様々な人たちが行き交い、そこで生を生きていたということに気付かされ、胸を突かれる思いがした。張り巡らされた地下壕を掘るためには膨大な数の人を必要としたはずである。その一部は朝鮮の方だったとも言われる。また、日吉は激しい空襲に遭い、藤原工大の校舎も焼失しているが、住民の被害も相当なものだった。私は三田評論の取材で、日吉の街にあった日吉台小学校が全焼し、戦後、慶應内の蝮谷に仮の校舎を設けて授業を受けたという話を伺ったこともある。
 この一年、遠くウクライナから、まったく普通の日常風景の中に暮らす人々のマンションなどに突然ミサイルが撃ち込まれていく無残な映像を多く見ているが、日常と戦争が隣り合わせにあることは昔から変わらない。戦艦大和の出撃を命じる打電が地下壕から発信される一方で、地上にはそれがどういう仕事なのかもわからずに軍務に駆り出される10代の少年や少女がいて、空襲に逃げ惑う住民の方の姿があった。そして、この地から命令を受けて、特攻攻撃へと飛び立ったのはほんの数年前、この校舎で笑いながら過ごしていた予科生だったのだ。
 「戦争」の話が心を捉えるのは、そこに歴史のモメントが、人々の生が、死とあまりに近づくために凝縮されるからなのではないか。勉学に励み、青春を謳歌していればよかったはずのキャンパスが、歴史の渦に巻き込まれ、はからずも戦場とつながってしまったのだ。

本書より 教練で行進する予科生 鈴木大次郎氏撮影[慶應義塾福澤研究センター蔵]

 まだ若木だった銀杏並木を行く、軍事教練の行進の写真を眺め、不可逆的な歴史の流れを思う時、現在と過去がつながって見えるような気がした。

編集担当:及川健治


本書の「はじめに」が以下から試し読みできますので、こちらもあわせてお読みください。

↓書籍詳細はこちらから

#キャンパスの戦争 #阿久澤武史 #慶應義塾高校校長 #慶應義塾
#日吉キャンパス #連合艦隊司令部地下壕 #慶應予科生 #銀杏並木


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?