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【試し読み】『良い政府の政治経済学』

 「良い政府」とはいかなるものか?という問いに対して、経済理論を用いて分析する学問が「政治経済学」です。弊社より2024年9月に刊行した『良い政府の政治経済学』は、この分野の第一人者が、自らの研究等を踏まえて整理したテキストです。

今回は下松真之氏による解説部分の一部を公開します。ぜひご一読下さい。

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2 政治的エージェンシー・モデル

 学問的に本書で一番重要な内容は、政治的エージェンシー・モデル(po-
litical agency model)という理論モデルを定式化している第3章、及び、そ
のモデルを財政問題に応用した第4章です。本書を引用する学術文献の数は、Google Scholar によれば、2000 を超えています3)、私が目にした引用のパターンは、文中で政治的エージェンシー・モデルに言及する時であることがほとんどです。
 政治的エージェンシー・モデルは、経済学者が政策決定過程を分析するた
めに用いる理論モデルの中で、最も人気のあるものの一つです。それは何故なのか。四つの理由があると思います。

2.1 有権者と政治家の利害対立を分析できる

 政策決定過程を分析する経済学理論として一般によく知られているのは中
位投票者理論(Downs 1957)ですが、この理論で扱えるのは有権者の間で
利害対立がある政策(お金持ちと貧乏人が対立する所得再分配政策が一例)
であり、政治家と政治家以外の有権者全員が利害対立関係にある政策(例え
ば、政治資金規正法)を分析することができません。また、有権者にとって
望ましい政策を実施するのは政治家にとって時間的にコストがかかる(例え
ば、自然災害の被災者支援)ということであれば、政治家と有権者は利害対
立関係にありま4)。政治的エージェンシー・モデルは、そのような政治状
況を分析することができる道具です。
 また、政治的エージェンシー・モデルは、有権者が政治家についての情報
をすべて知ることができない状況を想定しています。このことから、本書
3.4.2 節で議論されているように、政治におけるマスメディアの役割を分析
する際に、とても使い勝手の良い理論モデルとなっています。また、Timに
よる日本語版序文には、ソーシャルメディアの政治的役割の分析に応用され
るようになった、と述べられています。

2.2 理論モデルが現実的

 政治的エージェンシー・モデルを初めて提示したのは、「バローの中立
命題」で知られるロバート・バローが執筆した1973 年の論文です(Barro
1973)。その後、政治学者による研究(Ferejohn 1986)で無限期間モデルに
拡張され、この二つの論文が政治的エージェンシー・モデルの元祖としてよ
く引用されます。しかし、この二つの論文で提示されているモデルでは、有
権者が現職と対立候補の間で無差別ならば現職を再選させる、という仮定があり、現実離れしていると言わざるを得ません。
 本書で定式化されている政治的エージェンシー・モデルは、この問題を克
服するために、選挙での立候補者が一定確率πで「良い政治家」であるとい
う仮定を入れていま5)。ここで「良い政治家」とは、有権者と利害が一致
している政治家という意味です。すると、現職の「悪い政治家」が「良い政
治家」の振りをして再選を目指すインセンティブが生まれます。「悪い政治
家」が実際に「良い政治家」の振りをするかどうかは、その機会費用の大き
さ次6) なので、すべての「悪い政治家」が「良い政治家」の真似をすると
は限りません。そのため、「良い政治家」の振る舞いをした現職は、有権者
から見れば、「良い政治家」である確率がπよりも高くなります。他方、実
績のない対立候補が「良い政治家」である確率はπです。結果として、「良
い政治家」である確率が対立候補よりも高い現職が、有権者によって再選さ
れる、という結論が導かれます。
 この「選挙での立候補者が一定確率 で『良い政治家』である」という仮
定は、「良い政治家」なんているわけがない、と考えるシニカルな経済学者
から批判されますが、「良い政治家」である確率πがゼロに限りなく近くて
も、ゼロではない限り、以上の理屈は通るので、そういった批判を交わすこ
とができています。

2.3 因果推論の結果と整合的

 このように、現実例への応用が効き、かつ、理論的にも現実性が高い政治
的エージェンシー・モデルですが、それだけでは21 世紀の経済学の中で評
価されません。理論が前提としていることや、理論から導かれる因果関係が、現実のデータで支持されている必要がありま7)。政治的エージェンシー・モデルが人気であるもう一つの理由は、その理論の仮定や予測が因果推論の結果と整合的であることにあります。
 政治的エージェンシー・モデルの仮定とは、有権者が現職の政治家の業績
を知ることで、その現職を再選させるかどうかの意思決定を変える、という
ものです。当たり前のように聞こえるかもしれませんが、現実社会において
本当であるかを確認するのは難題です。現職の業績をマスメディアなどを通
じてよく知っているかどうかは、有権者の様々な観察できない特徴(例えば
知的水準)とも関係しているので、両者の影響を統計学的に分けることが困
難だからです。また、再選されるかどうかギリギリの状態にいる現職の政治
家自身が、意図的に自分の業績を派手に宣伝した場合、再選確率から有権者
の持つ情報への逆の因果関係が働き、両者の相関関係を情報の効果として解
釈できなくなります。
 この難題をクリアした研究として有名なのが、本書の出版後に公刊され
た研究論文であり、Timの日本語版序文でも言及されているFerraz and
Finan(2008)で8)。ブラジルの市長選挙のデータを用いて、有権者が現職
市長の汚職の度合を知ると、その市長の再選確率が統計学的に有意に変化す
ることを実証しました。この研究は、事実上のランダム化比較試験になって
います。なぜなら、ブラジルでは、汚職監査を実施する市を公開ルーレット
で決めているので、有権者が選挙時に市長の汚職の度合を知っているかどう
かが、ランダムに決まるからです。監査により同程度の汚職が明らかになっ
た市長のうち、選挙より前に監査を受けた市長と、選挙より後に監査を受け
た市長を比べた時、どちらの再選確率が高いかは、有権者が汚職の度合を
知ったことの結果だと解釈することができます。
 興味深いのは、汚職の度合がある水準を超えた時のみ、再選確率が下がる
という結果が出ているところです。言い換えると、汚職に手を染めているこ
とを知っても、その程度が小さければ、有権者は投票行動を変えないという
ことです。この実証結果を政治的エージェンシー・モデルを通して解釈する
と、ブラジルの有権者は、現職であれ対立候補であれ、政治家はある程度は
汚職に手を染めるもの、と考えていて、その程度を超えたと知った時のみ、
現職は「悪い政治家」であると判断して、対立候補に投票する、ということ
になります。
 他方、政治的エージェンシー・モデルの理論的予測とは、再選を目指すた
めに政治家は有権者を利する政策を採用する、というものです。Ferraz and
Finan(2011)は、同じブラジルの市長選挙のデータを用いて、この因果関係を立証しました。ブラジル憲法の規定により、二期目を終えた市長は再選を目指して立候補することができません。そこで、一期目の市長が僅差で再選を果たした場合(したがって、選挙後に再選を目指すインセンティブがな
い)と僅差で落選した場合(当選した新市長は一期目なので再選を目指すイ
ンセンティブがある)を比較して、前者の方が、選挙後の市長の汚職度合が
統計学的に有意に高いことを示しました。僅差で勝敗が決まった選挙は、現
職が勝ったかどうかは運によると考えられるので、再選を目指せるかどうか
以外の要因は同じとみなせます(「回帰不連続デザイン」と呼ばれる因果推
論の手法です)。従って、再選を目指すために汚職に手を染めるのを思いと
どまった、と解釈することができま9)
 このように、政治的エージェンシー・モデルは、その仮定も理論的予測も、因果推論での実証結果と整合的です。

2.4 特定の政治制度を想定していない

 政治的エージェンシー・モデルの一つの特徴として、特定の政治制度を想
定していないという点が挙げられます。選挙のモデルですが、理論モデル自
体は、現職が「良い政治家」なのか「悪い政治家」なのかがわからない有権者が、現職の選んだ政策の結果を知った後に、現職を再選させるかどうか決める、という非常に単純な「不完全情報の展開型ゲーム」であ10)、具体的な政治制度がモデルの中に組み込まれているわけではありません。したがって、細かい政治制度の違いに捉われずに、選挙の効果について分析することができ、政治的エージェンシー・モデルの応用範囲の広さにつながっています。
 さらに言うと、分析対象が民主主義国家における選挙である必要もあり
ません。Tim の日本語版序文でも言及されている、Timと私の共著論文
(Besley and Kudamatsu(2008))では、権威主義国家の政治分析に政治的
エージェンシー・モデルを応用しています。国民が、政策の良し悪しではな
く、民族や宗教などの集団帰属意識に基づいて支持する政治家・政党を選
ぶ国では、現政権と対立する民族・宗派の参政権を制限した方が、現政権が
「良い」政策を選ぶインセンティブを確保することができる、ということを
理論的に示しまし11)
 ここ数年、民主主義国家と権威主義国家の間の相互不信が高まっています
が、民主主義国側にいる我々が権威主義国家にとっての理屈を理解する一助
を、この研究が提供しているのではないかと思います。

3 「政府の失敗」

 以上、本書の内容の中で学問的に注目すべき部分について解説してきましたが、より一般的な視点で注目すべきだと私が思うのは、本書の第2章で
す。「政府の失敗(government failure)」について概観しているこの第2章
は、すべての人が読むべきだと、Tim のRA として原稿チェックの仕事を
しながら思っていました。
 「市場の失敗」の四つの例(独占、情報の非対称性、外部性、公共財)は、政府の市場介入を正当化する経済学の理論的根拠です。しかし、政府の市場介入自体が失敗する可能性があります。そのような「政府の失敗」について、様々な経済学者による議論を一つにまとめたのは、この第2章が初めてだったと思います。
 なぜ、経済学的に正当化できない政策が実施されてしまうのだろう、と疑
問に思ったら、本書の第2章を読み返してみてください。なぜ現政権がその
ような政策を選んだのか、理由が見つかるはずです。
 例えば、2.6.2 節では、次の選挙で負けることがほぼ確定している現政権が、次の政権ができることを制限するために財政赤字を積み増す、という政策の連鎖(policy linkage)による「政府の失敗」が紹介されています。2022 年にイギリスの首相となって保守党政権を引き継いだLiz Truss の大減税政策
は、このロジックで説明することができます。この大減税政策は、財政赤字
の悪化を懸念した金融市場の大混乱を招き、住宅ローン金利の上昇を引き起
こし、中央銀行が市場介入する事態となりました。結果、Liz Truss は大減
税政策を撤回し、就任後わずか49日で辞任に追い込まれました。
 なぜ、このような先進国にあるまじき「政府の失敗」が起こったのか。当
時の保守党政権は支持率が低迷12)、議会の任期切れとなる2024 年に開か
れる選挙では、野党の労働党が勝利すると多くの人が思っていました(実際
に、2024年7月の総選挙で労働党が勝利しました)。そんな中、大減税を打
ち出したのは、労働党政権に大幅な財政支出を伴う政策を実施する自由を奪う狙いがあった、と私は思っています。
 大減税政策は失敗に終わりましたが、財政赤字を拡大する政策は金融市場
の混乱を招くことがわかった以上、野党である労働党は、その後、保守党議
員や保守党支持者が嫌う大幅な財政支出を伴う政策を公約に掲げることがで
きなくなりました。この意味において、Liz Truss の大減税政策は、保守党
支持者の利益を守ることに成功したと言えます。

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3) 2024 年4 月20 日時点で、2074(Google Scholar 2024)。
4) Tim の代表的研究の一つであるBesley and Burgess(2002)は、インド州政府の災害支援データを分析する理論的枠組として、政治的エージェンシー・モデルを採用しています。
5) このアイデアを最初に提示したのは、政治学者による研究(Banks and Sundaram1993)で、Tim がアメリカ州知事の多選禁止条項が財政政策に与える影響をデータで実証するための理論的枠組として、経済学に導入しました(Besley and Case 1995)。
6) 例えば、オファーされた賄賂が莫大な金額であれば、それを受け取るのを拒否することで生じる「機会費用」は高額になり、再選されるために「良い政治家」の振りをすることをやめる可能性が高くなります。
7) 学部生向けの経済学の教科書であるAcemoglu, Laibson, and List(2015)は、経済学の特徴として「最適化(optimization)」と「均衡(equilibrium)」に加えて「実証(empiricism)」を挙げています。
8) この論文は、著者の一人、Frederico Finan の博士論文であり、2006 年初頭にLSE への就職セミナーとして発表していたのを聞きに行きました。
9) 憲法の再選禁止条項が政策決定に与える影響は、Tim がBesley and Case(1995)で相関関係を示して以来、多くの研究蓄積があります。最近では、新型コロナウィルス対策の国別データを分析したPulejo and Querubín(2021)が、憲法規定により再選できない大統領は、そうでない大統領よりも、より厳しい感染対策を採用したことを実証しました。
10) 例えば、学部生向けのゲーム理論の教科書として定評のあるギボンズ(2020)の第4章で説明されているモデルとほぼ同じです。
11) もちろん、ここでの「良い」政策とは、参政権を持つ民族や宗派にとって望ましい政策という意味です。
12) EU 脱退による便益が一向に実現しなかったこと、緊縮財政により警察や医療などの公共サービスの質が低下したこと、Boris Johnson 前首相が、新型コロナウィルス感染防止のために国民の外出を禁止していた時に、首相官邸でスタッフとパーティーを開催していたことが明るみになったこと、などが原因とされています。

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試し読みは以上です。続きは本書をお求めください。

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