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【試し読み】自由なる思考を求めて『井筒俊彦 世界と対話する哲学』

 井筒俊彦は様々な言語で書かれた世界の古典を読み解き、「ことば」がいかに多様な「世界観」を構築しているのかを明らかにした哲学者。彼は多様な世界観の中で人々が紡いできた多彩な思想を「東洋思想」という一つの枠組みのなかに構造化しました。
 一見、相反する思想や歴史的に何らの繋がりをもたない思想同士が、深層では共通する問題意識をめぐって議論を積み重ねてきたことを浮き彫りにしたのです。
 深層から「ことば」で構築された「世界」や「自己」を捉え直す。思考の枠組みを超え出て、自由を追究することこそ、井筒哲学の醍醐味である。そう解き明かすのが、小野純一さん『井筒俊彦 世界と対話する哲学』(2023年9月中旬刊行予定)です。小野さんは、言語思想の専門家として長年井筒に関心を抱き、井筒の初の英文著作『言語と呪術』の訳者でもあります。

言語と呪術』〈井筒俊彦英文著作翻訳コレクション〉(2018年刊行)
現在は第三刷

 「言語とは何か」という問題意識を軸に、井筒哲学に通底する「自己探究」と「自由なる思考」への熱い希求を描き出す、心揺さぶる井筒論の「はじめに」を公開します。


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はじめに

 井筒俊彦(1914―93)は、その死と共に忘れられたかに見えた。90年代以降、井筒は言論の世界でほぼ言及されなくなった。数少ない例外の一つは、作家の大江健三郎(1935―2023)だった。私は大学生の頃、図書館で昔の雑誌を漁っていた時、「井筒宇宙の周縁で」(『新潮』1991年8月号)と題する大江のエッセイを見つけコピーをとった。そこには、彼が若い頃から井筒の愛読者であったことが記されており、驚くとともに納得がいったのを鮮明に記憶している。

 二十歳頃の大江は、刊行当時から熱心な読者を得ていた井筒の『神秘哲学』(1949年)や『マホメット』(1952年)に出会い、強烈な印象を受けたと述べている。それ以降、井筒の著作をほぼ全て読んだと言う。この二冊の著作は、人が神の声を聴き天使を見るという啓示現象が言葉となって迸り出る経験を論じる。それは、世界を創る言葉が、唯一の根源から流出するというヴィジョンだ。大江は、井筒が描く、無限の言葉を蔵する根源性の体験にリアリティを感じたと記している。井筒は神秘主義的な体験を「ことば」と「流出」の観点から論理的に考察し、言語論として思索を展開する。だからこそ、異文化の人間も無信仰の者も、宗教的なヴィジョンを理解することができ、それに対して井筒のテクストを通じて豊かな理解がもたらされると大江は考える。そこには、言葉を紡ぎ出すことを生業とする作家の実体験に裏打ちされた洞察がある。私は大江からこの井筒像を刻印された。

 大江は、対談集『文学の淵を渡る』(新潮社、2015年)でも繰り返し井筒に触れる。それ以外では、現代日本哲学を紹介する雑誌や記事に、井筒の紹介がわずかに載っていたのを覚えている。だが生前には、岩波書店を中心に数多くの東洋思想に関する著作を出版し、その中には遠藤周作や安岡章太郎、司馬遼太郎といった名高い作家たちとの対談も含まれている。対談集からは、時代に鋭敏な作家たちが井筒を高く評価する様子が伝わってくる。それが没後には出版界からも言論界からも姿を消してしまったようだった。

 このような状況が大きく変わったのは、2000年代のことだった。2004年には岩波書店の『思想』(12月号)で、井筒と親交の深かった哲学者、新田義弘や永井晋が、おそらく日本で初めて井筒哲学の可能性を本格的に議論した。文芸評論家の安藤礼二は、2005年以降、次々と井筒俊彦に関する論考を発表し、井筒を近代日本の代表的思想家として位置づけた。その成果の一部は『近代論――危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版、200年)として刊行された。 

 井筒の本格的な再評価の波を生み出したのは、批評家の若松英輔による精神的伝記『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年)の刊行である。若松はそれまで「イスラーム学者」として認識されていた井筒が、実存的な詩人哲学者であることを看破し、新たな井筒哲学の可能性を切り拓いた。

若松英輔さんの『井筒俊彦 叡知の哲学』(2011年刊行)は、2023年に第6刷になりました。

 安藤は大江と同じく、井筒の『神秘哲学』に着目し、この書が詩と哲学の「始原」をめぐる洞察に貫かれていることを喝破し、『言語と呪術』(英文原著、1965年)が「意味の始原」こそ「哲学の起源」であることを理論化するものだと読解してみせた。この始原のヴィジョンは、神秘主義的な「光」として、あるいは「憑依」の体験として、または『マホメット』が生き生きと描く「預言」として展開する。このような「始原」を思索する哲学の書として『ロシア的人間』(1953年)を的確に読み解くこともできるだろう。

安藤礼二さんの最新刊『井筒俊彦 起源の哲学』(2023年9月刊行)
「はじめに」の試し読みは、こちら

 本書は、先人たちが培った井筒批評の潮流と軌を一にしつつも、井筒が『言語と呪術』で彫琢した言語思想を繙き、それがその後の著述活動では、一貫して「自由」を求める思想として発展していったことを明らかにしたい。井筒は、詩的直観を哲学の言葉で再現し、言語の限界を切り開き、囚われなき自在な心を求める。それを理解する手掛かりとなるのは、『言語と呪術』の核心にある次のような問題意識だ。

 人は言葉の持つ意味を「世界」として実体化していることに気づかない。「世界」とは、私たちがその時その場で一度だけ経験するかけがえのないものである。だがそれを「これは花である」「これは石である」と一義的な仕方で規定する時、私たちは生き生きとした経験から遠ざかっている。なぜなら、その「世界」は既に「意味」として、社会的に共有された表現によって規定されており、私たちはそれを繰り返しているだけだからだ。井筒は、そのような意味の実体化を超克する思索を生涯、貫徹した哲学者だった。

 井筒は『言語と呪術』で言語の本性に迫る(本書第一章)。言葉は論理的に何かを記述するだけでなく時に人の心を揺さぶり、感情を搔き立てる。その効果を実現するための仕組みが、予め言語の内部に組み込まれている。言語機能の重要なもう一つの要素は、対象(事物や出来事)の「意味」を喚起することでありありと体験させる仕組みだ。だが人は言葉のもつ意味を、実際に自分たちが経験する「世界」(事物)であると思い込んでしまう。このように人の思考が予め規定されてしまうことに、井筒は自身が取り組むべき哲学的問題を見出し、「意味の構造」を解明しようとする。

 1950年代から60年代の前半にかけて、井筒は『言語と呪術』で構築した理論を、イスラームの聖典クルアーンの読解に適用し、クルアーンが内含する世界観の意味構造を究明し、聖典に描かれる「信仰の体験」を生きた言葉で語り直した(第二章)。啓示の言葉は日常言語を超越した、「外部」からの「語りかけ」として体験される。それを言語化するには、既存の言葉や語彙では通用しない。クルアーンはこの「外部性」を表現しようとする新たな表現に溢れている。だからこそ井筒はこのテクストを選び、その特異な言語を意味論的に分析した。井筒は言葉と言葉、意味と意味の連関に着目する。それらは普段は意識されることはなく、「隠れた意味」として深層意識に埋
もれている。人は、その隠れた意味を体験する時、世界を新たな姿で再発見し、それを言葉を尽くして表現しようとするのだ。

 この意味体験の理論を用いて、井筒はイスラームの神秘主義者イブン・アラビーの思想を分析する(第三章)。その思想は言語論の視点から次のように端的に纏められる。イブン・アラビーは心を表層意識と深層意識に分ける。表層意識が情報伝達の道具としての言語を通して「世界」を見るの
に対し、深層意識は言語化される手前の、あるがままの「存在」を感得する。井筒は、この多層的な意識構造を心の連続的な構造へと統合するイブン・アラビーの観点に最も関心を抱いた。「世界」とは意識が意味から構成するものであるのに対し、「存在」とは意味による実体化から逃れ、瞬間
ごとに変容する実在である。井筒は「存在」を流動性と多重性のまま表現する「言語」を探究する。井筒は英文主著『スーフィズムと老荘思想(1966・67年)で、イブン・アラビーの哲学的概念である「存在」を用いて、歴史的、地理的に関わり合いのないこの二つの思想が同型の構造をもつことを証明してみせた。

 井筒は世界の文明に見出される「思考の型」を特徴づける方法を、イブン・アラビーの思想を換骨奪胎して構築し、東洋における種々の思想に適用した。その成果として主著『意識と本質』(1983年)を読むことができる(第四章)。『意識と本質』は東洋の諸思想を比較するが、それ自体が目的ではない。井筒は表層意識と深層意識からなる心の構造が、共時的に――時代や地域を超えて――人間に普遍的に共通すると考えた。そこで、東洋の諸思想を意識の表層と深層という構造の中に統合するのと同時に、人間の心を言語から解明しようとした。

 井筒の言語思想の根底は、人間意識が、文化や言語といったあらゆる条件を超えて、相互理解のための普遍性を内に宿す、という直観に貫かれている。その普遍性とは、井筒が「存在零度ゼロ・ポイント」と呼ぶ意味の実体化を無効にする場所のことであり、想像の源泉として井筒が意識の中に措定した無規定性のことである。意味が無規定であるとは、あらゆる意味になりうる可能性であり、それを自覚するとき、人は固有の生きた「世界」の経験を言葉にする無限性に開かれる。本書では井筒が生涯、思索し続けた「世界と対話する哲学」を考察していく。井筒が構築した「東洋哲学」は、固定化された意味から思考を自由にし、世界を「何か」として規定する本質主義を解体する。

 井筒が生涯にわたって格闘した「言語」は、自己を「何か」として規定するくびきであると同時に、その軛を解き放ち、「世界」や「自己」を新たに解釈し、表現するための可能性でもあった。「意味の実体化」から解放され、自由に思考する可能性を極限まで追究する営みが、井筒哲学の全貌であ
る。このような視点から、結論では井筒の最晩年の著作を取り上げる(第五章)。そこでは、井筒が、東洋の古典思想が生のかけがえのなさをどのように自覚し、言語化するのかに焦点を合わせる。それは、ただ一回限りの生の輝き、人間の真摯な生きざまを究極の形で言語化する思考と表現の探究である。その可能性を井筒は東洋の古典思想に発見し、言語と心を自由な空間に解き放つ実存を「東洋的主体性」として開こうとした。その歩みと意義、そしてその先に見える景色をこれから描いていこう。

(続きは本書にて)

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【著者略歴】
小野純一(
おの・じゅんいち
自治医科大学医学部総合教育部門哲学研究室准教授。専門は哲学・思想史。 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)(東京大学)。代表的な著作に「根源現象から意味場へ」(澤井義次・鎌田繁編著『井筒俊彦の東洋哲学』慶應義塾大学出版会、2018年)など、訳書にジェニファー・M・ソール『言葉はいかに人を欺くか』(慶應義塾大学出版会、2021年)、井筒俊彦『言語と呪術』(安藤礼二監訳、慶應義塾大学出版会、2018年)がある。

【目次】
はじめに

第1章 記憶の彼方の言葉――『言語と呪術』とクルアーンの詩学
第2章 存在の夜の黎明――意味分析論の行方
第3章 生々流転する世界――「存在が花する」のメタ哲学へ向けて
第4章 存在零度の「眺め」――存在と本質の拮抗を超える『意識と本質』
第5章 世界と対話する哲学――自由なる思考を求めて


参考文献
あとがき

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