見出し画像

Butterfly 小川直央(法4・慶應)

こんにちは。

この1年間学生コーチとして共に歩んできた内野君からご紹介いただきました小川直央です。

リーグ戦から2か月以上過ぎ、引退試合からも1か月以上が過ぎ、すっかり早起きができない体になってしまいました。後輩たちの練習に行きたい気持ちは山々なのですが、もうキャッチボールが終わる頃くらいに目が覚めてしまうため、なかなか行けておりません。このまま堕落した生活を送ってはいけないと思い、YouTubeの使用時間を設定で1日1時間半に制限したものの、その貴重な1時間半を午前中の内に早々に使い切り、特に使用制限のないMLB The Showで残りの時間を溶かしているような毎日です。フットワークが重いことを自覚している私ですが、さすがに暇すぎて何か授業でも履修しておけば良かったと後悔しながら、遊びや飲みの誘いをほぼ全てOKしているような状況です。自分で遊びの予定を企画することはできないので、誰か私をお外に連れ出してください。お待ちしております。

さて、引退ブログということで、実は何を書こうか9月ごろからいろいろ考えていました。最初は今年の代ではおなじみの通信簿最終版をみんなに向けて書こうかなとも考えましたが、さすがに全世界に公開するべきものではないと思い、ちょっと今回そちらの方は失礼させていただきます(希望者には送りますよ!)。この4年間の思い出を振り返ってもいいのですが、私の文章力では淡泊になってしまいそうな予感がするので、「選択」というテーマを掲げながら私の人生を丸ごと振り返っていきたいと思います。しばしお付き合いください。

皆さんは日々、様々な選択を行っていると思います。単純に、「お昼ごはん何食べよう?」だとか、「授業面倒くさいから行くのやめようかな?どうしようかな?」とか。ピッチャーだったら、毎球ごとに投げる球種とコースを選択していると思います。

そして、小さな選択が大きな結果として返ってくることも経験していると思います。結局授業行かなかったらその日小テストだったのを思い出して単位が危うい(フィクション)とか、重要な場面で選択した球を完璧に打たれてその試合に負けてしまう(フィクションのはず!)とか。そんな選択が最終的な結果に大きな違いを与えることを念頭に置きながら、私の人生の分岐点となった選択を思いつく限り振り返っていきたいと思います。

まず最初に、というか、これが一番大きいのですが、「横浜にやってきたこと」です。これがなければ、今ここで私がこのブログを書いていることも、このブログを読んでくださっているあなたと知り合うこともありませんでした。

知る人ぞ知る情報だと思いますが、私は小学4年生まで京都府の南部にある精華町という田舎町の新興住宅地に住んでいました。昨年横浜DeNAベイスターズにドラフト1位で指名された松尾汐恩くんが生まれ育ったとして有名(?)な町です。彼と同じ少年野球チームで小学2年生の頃に野球を始め、近隣住民に迷惑がられてもずっと家の前で壁当てをしているような野球小僧だったわけですが、2012年の1月ごろ、ちょうど小学4年生も終わりに差し掛かっていた頃に転機が訪れます。ある朝起床したら、父親から話があるとソファーに座らされ、横浜に転勤することが決まったと知らされました。聞かされた当時は、心臓止まるくらい衝撃を受けて頭が真っ白になったことは今でも覚えています。

「え、もう会えないってこと??」

今考えたらそんなわけが無さすぎるのですが、少年野球のコーチとして、父親として、毎週一緒に野球を楽しんでいた人と離れることになると知らされた当時はとても寂しく悲しい気持ちでいっぱいでした。

この窮地に立たされた小川少年、数日後に突如とんでもない選択肢を考えつきます。

「いや、パパについていけばいいやん」と。

(当時は関西弁話していましたがどんなのだったか忘れました、たぶんこんな感じではないです。「しない」を「しいひん」って言ってたのだけは覚えてます)

私の記憶が正しければ、最初は父親が単身赴任する方向で固まっていたと思います。当時住んでいた家は持ち家だったので当然の選択ですね。ですが、そんな事情知ったこっちゃないので、思いついた日の放課後から「引っ越したい」と親に言い続けてました。最初は親も難色を示し、弟は逆に引っ越したくないと言っていました。今の生活(友達とか野球チームとか)をほぼ捨てなければならないことを親に諭されたかと思いますが、そんなことどうでも良すぎました。私はそういう人間です。そのマイナス面よりも父親と離れたくないこと、横浜という都会(今となっては(笑)が付きますが)への憧れの方が圧倒的に勝っていたと思います。私のわがままが効いたのか、何がきっかけだったのかは覚えていませんがいつのまにか横浜に行くことが確定し、学年が変わるタイミングで転校、横浜での新生活を掴み取りました(?)。

この選択が野球人生において大きな影響を与えました。横浜に来て最初は地元のチームに入っていたのですが、小5の冬に少し離れたところ(と言っても同じ区ですけど)に拠点がある強豪チームに入りました。そのチームで過ごした小6の1年間、140試合くらい戦って120勝くらいしました。選手としても実力が開花し、元々京都にいた頃は守備が得意というかボールを取るのが一番うまいという理由でファーストをやっていたりして、打撃はそこまでの選手だった(バット振らずに壁当てばかりしていたせいかな)のですが、住んでいる団地の公園で羽根打ちを繰り返した成果なのか打撃力も向上し、強豪チームで中軸打てるくらいの選手に成長しました。京都にいたままではこの成長はできなかったと思いますし、この時磨いた打撃の基礎がその後の野球人生でも生きたことを考えると、横浜に来て本当に良かったなと思うことの一つであると言えます。

この1年間は本当に楽しかったです。人数が10人強と少ないにもかかわらず140試合戦って120勝するチームなので、自分が試合に出て勝つことの楽しさをこれでもかと植え付けられました。勝つのが当たり前なものだから、負けるたびに皆で大泣きしていたのもいい思い出です。勝って楽しい、負けて悔しいという純粋なスポーツの楽しみ方を教わり、また、自分の成績がどうであれチームが勝てばいい、チームが勝つために自分がどういったことをするか、といった視点を無意識のうちに考えることができるようになりました。これも横浜に来たこと、このチームを選択したことから得られた大きな財産です。ちなみに、120勝のうちの中には春日がいたチーム、柿崎がいたチーム(私はその試合運動会で不在)、残りの20敗の中には三宅がいたチーム(三宅は受験でフェードアウトしてたらしいけど)、松田家の横で練習してるチームとかがあるそうです。

このように、横浜にやってきたという選択はこの1年だけでもお釣り来るくらいの大成功を収めたと思っています。引っ越した直後に初めて横浜の自宅周辺の地図を見たとき、端で見切れている慶應義塾の文字を見て、「近くに慶應あるやん」と思ったのを鮮明に覚えています。その時から、「慶應義塾」という選択肢は生まれていたのかもしれません。お次は少し時を進めて「慶應義塾」という選択について話そうかと思います。

私は高校から慶應義塾に入りました。なんで慶應義塾だったのか、と聞かれるとはっきりと答えられないのですが、地理的に近いこと、野球を含めスポーツが盛んな上に、頭もいい学校ということでスポーツをしていた私にとって理想のような学校であったことは間違いないです。小学校が終わる頃には慶應義塾に入りたいという意思を自分自身で固めていた、と思っていたのですが、実は母親が慶應義塾に入りたいと思わせるための誘導を行っていたことが最近になって判明しました。思えば、小学校低学年の頃に「お前も何か本を読め」ということで無理やり書店に連れていかれて買い与えられた本が奇しくも福沢諭吉の伝記でした。当時は京都に住んでいましたし、さすがに偶然だとは思っていますが、その本を当時何度も周回して愛読していたことを考えると、慶應義塾という選択を助長する英才教育は十分に受けていたと言えるわけで、あれも誘導の一つだったのかもしれません。

慶應義塾という選択をした、と言っても選べば入れるわけではないのでよく合格したねという話ではあるんですが、もちろん、これが無ければ今このブログを書いていることもないですし、今まで関わってきた先輩方、同期、後輩たちとの素晴らしい出会いもありませんでした。どこに行っても塾生・塾員と聞くだけで親近感が湧きますし、他の学校にはない特殊なつながりの力を感じることが多いです。中3の秋に参加した塾高の学校説明会で、壇上のお偉いさんが「ぜひ慶應義塾で一生付き合える友達を作ってください」とおっしゃっていたのが非常に印象的でした。この7年間を思い返せば、最高の仲間たちとの最高に楽しい思い出がたくさんありますし、まさに、「一生付き合える友達」と「一生忘れられない思い出」をここ慶應義塾で作ることができたのではないかと思います。今このブログを読んでいるあなたもその一人ですよ。え?そうですよね?いやお願いしますよ本当に。一生見捨てんな(?)墓場まで俺に付き合え(?)

野球においても、高校、大学の両方で全国3位になることができ、ほとんどの人が経験できないような貴重な経験をさせてもらいました。高校では全国大会の出場が26年ぶり、3位になった国体への出場は64年ぶり、大学でも春の上位大会に進んだのはかなり久しぶりのことだったようで、そんなレアイベントを次々と経験できたことも慶應義塾を選んでよかったと思う理由の一つです。

引退ブログを書くついでに、7年間お世話になった塾を褒め支えるという裏テーマを達成したところで、今度は少し新歓も意識して、「軟式野球」という選択について話そうと思います。私は高校、大学共に軟式野球部を選択しました。なぜそうしたのかと問われても、軟式野球に強いこだわりがあったとかではなく、そこに軟式野球部があったから、という理由にすぎません。先ほども述べたとおり、私は「自分が試合に出て勝つこと」を野球の楽しさだと思い込んでいて、それができる環境を求めていました。他の選択肢として高校の時は硬式、大学では準硬式がありましたが、部員数はどちらも100人規模の大所帯、一方軟式野球部はどちらも40人前後。どちらの方が試合に出るチャンスが多いかは一目瞭然だと思います。そのうえ、中3の秋ごろ、普段新聞なんか読まない私がたまたま開いた神奈川新聞に塾高の軟式野球部が秋の県大会で準優勝した記事が載っていたこと(新聞を開く選択が無ければこのことは知らないままだったと思います)、大学は私が高3の時の秋季リーグ戦で優勝していたことから、強いチームであることを知っていました。私が求める環境にぴったり合うのがまさに軟式野球部だった、ということです。

そしてその選択も大正解でした。幸運なことに高校でも大学でも下級生の頃から試合に出していただき、たくさんの勝利を経験することができました。最後の2年間が失速気味で苦しい時期もあったのが心残りですが、それ以外の期間では「自分が試合に出て勝つ」を体現でき、本当に楽しく野球をさせてもらいました。ありがとうございました。今、たまたまこのブログを開いたであろうかもしれない高校3年生、あるいは中学3年生の中にも私と同じ考えを持っている人がいるのではないかと思います。そんな方はぜひ、慶應義塾に来て軟式野球を選択してください。同じ道を歩んだ先輩が胸を張って勧めることができる環境です。

もうすでに4500字を超えていますが、もう少しお付き合いください。これまでの私の人生を振り返ってきましたが、一つの小さな選択が人生において非常に大きな意味を持つことがよく分かったのではないかと思います。横浜に引っ越すという選択肢を思いついていなかったら。慶應義塾に落ちていたら。あの日神奈川新聞を開いていなかったら。どれか一つが欠けるだけでも今ここに私が存在することはなく、皆さんと出会うこともなかったかもしれないわけです。そんな一つひとつの選択の重みを理解してもらったところで後輩たちにメッセージを。

私はこの1年、学生野球の最後だからと一つひとつの選択に後悔しないよう全力で向き合ってきたつもりでした。しかし、それでも思うような結果が残せなかったということは、まだ足りない部分があったのだと思います。今はもっとやっておけばよかったという後悔の気持ちの方が強いです。そうならないためにも、皆さんには今目の前にある一つひとつの選択にしっかり向き合ってほしいと思います。例えばの話、練習から帰ってきてなんとなく寝落ちしてしまうのか、さらに自主練を行うのかでは後々の結果に大きな違いが生まれると思います。もちろん、休むことも大切です。ただ、休むならどれくらい休むかをしっかり決めるなどして、ただ「なんとなく」寝る選択を取ることだけは、全員に平等に与えられた時間を有効に使う上で本当にもったいないので気を付けてほしいです。これは一つの例え話に過ぎませんが、野球に関することで一つの選択を迫られた際、迷うくらいならキツくて面倒くさい方を選んで行動してほしいです。そして、その選択をとことんやりきって突き詰めてください。たまにろくに結果も出ていないのに「やりきったので後悔はないです」と言う人を見かけますが、結果が出ていないのならやりきれていないと思います。皆さんは結果を出すためにとことん努力してください。結果を出したときに初めてその努力が正当化されます。死ぬ気で努力して結果を出すことができた際には、三宅さんくらいすかしちゃってください。絶対かっこいいです。小さな選択が大きな結果につながることをバタフライエフェクトと言ったりするんですが、皆さんの小さな選択がやがて仲間の大きな喜びにつながる瞬間を信じて、努力を積み重ねていってください。

こうして自分の人生を振り返っていると家族を振り回したことも多かったのかなと思います。長男ということもあっていろいろわがままを振りかざすこともあったと思いますが、温かく見守っていただきありがとうございました。高校で硬式を選ばなかったことにはかなり文句を言われましたが、まあ明石や福井国体などいろいろなところに行けたからよかったでしょ、という話は高校卒業時にしたのでもういいや。大学では無観客開催の時にしか全日本に出ていないせいでどこにも連れていくことができませんでしたが、その代わり弟が長野も大阪も連れて行ったようなので、そこはまあ、たまに弟にも花を持たせてあげる良兄ってことで(?)。先日の沖縄オールスターで学生野球の最後に弟と共闘できたのは非常に胸アツな出来事でした。久しぶりに弟のプレーを観ましたが、こんなに上手だったのかと驚かされました。監督目線で言えば、うちで二遊守ってほしかったってセンターから見て思ってました。いや受かれよ!塾高に!

最後にちょろっと4年間の思い出振り返ります。一番惜しいと思う出来事は1秋のチームで全日本を戦えなかったことです。この4年間で一番強いチームを選ぶとすれば、1秋か2春か4春になるわけですが、さすがに1秋だと思います。あのメンバーで全日本を戦ってどこまでいけるか挑戦したかった。とは言いつつも、当時の小川は1年生ながらスタメンで使っていただいたにもかかわらず、グラウンドに立っているだけも同然で、仮にWARを算出するなら余裕でリプレイスメントレベルを下回るような成績でしたし、田村くんはバックネットに投げ込んでいる時期(詳しくは田村のブログで)でしたので、その二人は3春仕様で参戦させていただきます。そうしたら全国制覇も見えてくるでしょう。

同期との思い出は野球以外のことの方が覚えています(笑)。熱海での着衣水泳に始まり、詳しくは控えますが、突撃のテーマから芝公園まで様々な逸話を残してくれました。引退ブログ最後の人間として、同期が全員写っている写真を最後に貼って締めくくろうと思ったのですが、私の貧相な写真フォルダにも問題があるものの、同期13人が全員写っている写真をとうとう見つけることができませんでした。最初から最後まで我々の代は「ほぼ全員」の代だったのですね。そのため、今回引退ブログを書いた12人が写っている写真で妥協させていただきます。ジョージくんごめんね。

私のブログをもちまして、令和6年卒世代の引退ブログリレー完走とさせていただきます。最近様々な方面から「ブログ楽しみにしてるよ」と言われ、トリということで非常に大きなプレッシャーを感じながらこのブログを書き上げたわけですが、最終回にふさわしい作品になっておりますでしょうか。我々の世代は卒業後、様々な場所へ羽ばたいていきますが、各々がそれぞれの場所で自分らしく輝いて活躍してくれることと思います。最後に、同期を代表して我々の世代を支えてくださったすべての関係者の皆様に御礼申し上げます。

今までありがとうございました。



























この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?